――性交時若しくは食事時若しくは睡眠時はいづれも《吾》の行為に夢中で或る種忘我の状態に、つまり、因果律などお構ひなしのそれを特異点といってしまふが、その忘我なる特異点の状態にある事は認めるね?
――だからそれが如何した?
――つまり、忘我故に《吾》は《吾》に夢中といふ矛盾を何とする!
――くっくっくっ。矛盾なことは大いに結構ぢゃないか。つまり、それが特異点の《存在》を暗示する証左だらう? それよりも自ら生き残り、更に尚も種を保存することを《存在》は前宇宙に託されてゐると思はぬかね?
――はて、前宇宙とは?
――此の宇宙誕生以前の宇宙の事さ。つまり、約めて言へば「先験的」なる事さ。
――へっ、此の宇宙誕生以前もまた宇宙と呼べる代物なのかね? それは宇宙とは全く別の《もの》と違ふのぢゃないかね?
――そんな事は如何でもよからうが。ちぇっ、それよりも数学が《存在》してしまふ事が前宇宙の名残りだと思はぬか?
――それはまた何故にさう言へるのかね?
――くっくっくっ。唯、何となくそんな気がするだけさ。ちぇっ、お前は「先験的」なる事に《存在》が全く歯が立たないのは癪に障らぬのかね?
――へっ、土台そんなこったらうと思ったぜ。「先験的」なることは勘の《存在》で巧く説明出来るかもしれぬが、しかし、第六感若しくは直感は信じられる《もの》、ちぇっ、土台、直感が《存在》の最初の砦でありまた同時に最後の砦であるならばだ、《存在》は直感に、つまり、「先験的」なる《もの》に従順たれといふことで、《吾》は《吾》といふ呪縛から遁れられる――のか?
――これは同性でも構はぬが、つまり、異性に惚れる時は如何かね?
――ふむ。惚れちまったものはどう仕様もないのは確かだが、それにしても数多ゐる異性の中からたった一人の異性に惚れちまふ不思議、つまり、存在論的に見て惚れる事は面白い対象なのは間違ひない。
――さて、惚れちまふ事は偶然かね?
――不慮の事故死と共にそれは偶然の出来事さ。
――くっくっくっ。何を嘯く? 本当のところは必然、即ち運命若しくは宿命と言ひたいのだらう?
――ちぇっ、お見通しか――。だが、主体たる《吾》は何事にも自由、つまり、あらゆる時点に偶然と呼べる余地を残しておきたいのもまた《吾》の習性さ。
――くっくっくっ。其処でだ、お前は自由かね?
――ふむ。それが解からぬのだ。
――つまり、自由の余地を残しておきたいと言ひ条、その実は惚れたのを運命等の必然に帰したいのが本音ぢゃないかね?
――さう。惚れてしまふ不思議を引き受けるのに運命的な出会ひ等と称して必然の《もの》として引き受けたいのが本音さ。
――くっくっくっ。しかし、主体たる《吾》は何時でも自由でありたい。くっくっくっ。つくづく《存在》とは矛盾に満ちた《もの》だぜ。
と、其処で《そいつ》は不意に私の瞼裡の薄っぺらな闇の中に姿を消したのであった。それでも私は尚も閉ぢられた瞼裡の闇をじっと凝視し続けるのであった。
――さて、偶然的な出会ひと運命的な出会ひの違ひは、徹底的に主観の問題に違ひない。否、主体たる《吾》は強欲故に全てを主観の裁量に帰したいのだ。へっ、性交時若しくは食事時若しくは睡眠時の忘我の状態に《吾》が陥らうが、それでも主体たる《吾》は《吾》であること、つまり、《吾》=《吾》=《他》といふ恍惚の中でも絶えず《吾》を追ひ求め、「俺は俺だ!」と叫びたいに違ひない。性交に貪るように耽るのも、何《もの》にも目も呉れずに只管貪り喰ふ事に夢中な食事時も、必ず《吾》なる《もの》が全肯定され《存在》する睡眠時の夢の中でも、《吾》は《吾》を夢中で追ひ求めざるを得ぬのだ。さうして、性交後の、食事後の、そして睡眠から覚醒した時の虚脱感の中で、《吾》は《吾》の《存在》を味はひ尽くさねばならぬのだ。そして、それは偶然と必然の両様が宙づりにされた両様の相《存在》する未決の状態、ちぇっ、つまり、《吾》は自由度が只管確保される可能性の中に《吾》をぶち込めておきたいに違ひない。それは、しかし、愚劣極まりない打算が働いてゐるだけではないか! ちぇっ、主体たる《吾》は何時も因果律が壊れた可能性と言ふ耳に心地よく響く《存在》のMoratorium(モラトリアム)に唯留まりたいだけぢゃないのか。可能性と言へば聞こえはいいが、それは単に可能性が全て閉ざされその本性が露になった《現実》からの遁走にすぎぬのではないか!
(八の篇終はり)
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