――ぐふっ。
と、息苦しさに堪へ切れずに思はず口から漏れ出た空気が皆球状になって水中をゆらゆらと水面に向かって上昇するその様を、最早何故にか水面へ浮かぶ事を禁じられた《吾》なる《もの》が、その息苦しさの中で遠ざかる気泡をぼんやりと眺めてゐる姿を、頭蓋内の闇たる五蘊場に表象するこの《吾》は、その表象にこそ《生》の何たるかが隠されてゐると錯覚してゐる事を知りつつも、尚、その溺死しかけてゐる《吾》の表象に《吾》の実存する姿を《重ね合はせ》ては、《生》をさも大仰な何かにせずには己が生存しているという事が最早実感出来ぬ、その存在の危ふさの中に結局のところ蹲るしかない《吾》――。
…………
…………
――雄の孔雀の飾り羽の目玉模様の如く、仮に幽霊となりし《吾》が数多の目玉を持ち、此の世を傍観してゐるとするならば、その数多の目に映る此の世の有様は、如何なる《もの》なのだらうか?
――さてね。そんな事は己の死後の楽しみの為に取って置くに限ると言ってゐるだらう。
――しかし、仮に《生》たる此の世に《存在》した《吾》が数多の目玉を持つならば、世界認識の仕方は目玉が二つに、例へば心眼を加へて、それら三つの目で眺めた此の現実とは全く違った何かが見える筈だがね。
――さて、それは如何かな。多分、数多の目玉で見える現実は、盲目の人がその頭蓋内の闇たる五蘊場に表象する世界と大して変はりが無い筈だぜ。
――何を根拠にそんな事が言へるのかね?
――土台、現実は《吾》の《存在》などに目もくれぬ筈だからさ。
――つまり、《個時空》は泡沫の夢に過ぎぬといふ事かね?
――泡沫の夢で構はぬではないか。詰まる所、《吾》は此の世に《個時空》として《存在》する事を許され、《個時空》を成立させる為に《吾》はその《存在》を此の世に間借りしてゐるやうな《もの》ぢゃないかね?
――つまり、世界に従順になれと?
――勘違ひするなよ。《吾》あっての世界ぢゃなく、世界あっての《吾》といふ事をな。
――その世界に旋風の如く渦巻く《個時空》は、あっといふ間に消え失せるってか――。
――それで十分だらう。
――何故に?
――《存在》したからさ。
――つまり、それは《存在》したくても未来永劫に亙って《存在》出来ぬ未出現の《もの》達が数多ゐるといふ事かね?
――そして、死滅した《もの》達の念もだ。
――仮に未だ出現せざる未出現の《もの》達が犇いてゐるのを《無》と名付け、死滅した《もの》達で犇いてゐるのを《無限》と名付けてみると、《無》と《無限》の何たるかが解かったかの如き気分になるが、しかし、実際のところ、《生者》たる《吾》に《無》と《無限》の違ひなぞこれっぽっちも解かりっこないといふのが、本当のところだらう?
――それで構はぬではないか。《吾》が此の世に出現し《存在》する故に《無》と《無限》は裂けるのさ。
――つまり、《存在》とは《パスカルの深淵》の面だと?
――違ふかね?
――しかし、《無》と《無限》の間に宙づりにされた《吾》は、ちぇっ、それが現実といふ《もの》か! 忌々しい!
――さうさ。絶えず現在に投げ出されてある《個時空》たる《吾》は、《無》と《無限》を過去にも未来にも自在に転換させながら、現実に宙づりにされた己の悲哀を有無も言はずにじっと噛み締めなければ、へっ、《吾》たる《個時空》は、時空間のカルマン渦をちっとも巻くことなど出来ぬのさ。
――《存在》とは残酷な《もの》だね……。
――今頃気付いたのか、へっ。
(八の篇終はり)
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