――もういい加減、神を《存在》から解放させなければ、主体も客体も神も皆共倒れだぜ。
――それはその通りなのだが、主体たる《吾》は神との関係を断絶出来るかね?
――へっ、主体たる《吾》が世界をたった一人で背負ってゐるかの如き幻想を先づ捨てなけりゃ、主体たる《吾》は何時まで経っても神から自立出来ぬ赤子の様な《存在》に終始するだけだぜ。
――それで「苦悩による苦悩の封建制」って訳かね?
――さうなるには先づ主体たる《吾》は己の事を弁へなければならぬ。
――つまり、世界の苦悩は世界にしか背負へぬと?
――さうさ。《吾》は詰まる所、《吾》の苦悩しか知り得ぬし背負へぬ。しかし、その《吾》は神を《存在》から解放すべく背負ひ切れっこない程の苦悩を何としても背負はなければならないどん詰まりの処にまで主体も客体も神も全て追ひ詰められてしまったのさ。もう神を《存在》から解放させてあげようぜ。そして、主体は、その背負ひ切れっこない苦悩を背負ふべく新=存在体、即ち《新体》へと相転移を遂げる外に、主体も客体も神も世界も全て存続出来ぬのさ。
――つまり、《存在》の円環を主体が先づぶった切って、此の宇宙からの自存を成し遂げよと?
――それを主体は夢想すればいいのさ。
――へっ、夢想だって? 《新体》を夢想すると簡単に言ふが、《新体》とはこれまで全宇宙史を通じて未だ《存在》した事のない《もの》だぜ。そんな《もの》をどうやって夢想するのさ。
――唯、念ずればいいのさ。
――念ずる? また念か――。此の宇宙の開闢の時に念が不意に無と無限がぴたりと重なったその心地良さから「ぷふぃ。」と嗤ひ声を発したその破裂が、Big Bang(ビッグバン)だと言ひ、今度は未だに此の世に《存在》した事がない《もの》を念じるだと? へっ、念ずれば主体は《新体》へと変化出来るのかね?
――それは解からぬが、しかし、何もしないよりは念ずる事の方がずっとましな事は確かだぜ。
――確かだぜ? 念ずるんだぜ。唯、念ずるんだぜ。《吾》が《吾》としては背負ひ切れぬ苦悩を背負って「苦悩による苦悩の封建制」を招いて、そして、神を《存在》の呪縛から解放するといふ夢みたいな事をぬかしをって。ちぇっ、只管念じたところで主体は結局主体以外の何《もの》にも変化など出来ぬ上に、己の無力感を嫌といふ程に味はふだけに過ぎぬのぢゃないかね、結局のところは?
――だから尚更此の世に《存在》しちまった《もの》はそれが何であれ、只管思念するしかないのさ。
――何故に?
――生き延びる為にさ。
――生き延びる?
――さう。主体も客体も世界も神も此の世の森羅万象全てが生き延びる為に、主体として《存在》しちまった《もの》は、只管、未だ此の世に《存在》した事がない《新体》なる《もの》を念ずるのさ。
――つまり、念は、換言すれば霊魂は、何世代にも亙ってRelay(リレー)されるといふ事かね?
――さう。Relayだ。霊魂は書物の如く何千年も此の宇宙に《存在》させられた主体たる《もの》によってRelayされ続ける。
――さうして仮初にも此の宇宙に誕生した《新体》は此の宇宙の死滅する姿を黙してじっと凝視する――。
――ふっふっふっ。
――何が可笑しい?
――いや何ね、《新体》の出現が此の宇宙の死滅を意味するのが何やら可笑しくてね。
――否。お前の言ふ通り此の宇宙から自存する《新体》の出現は此の宇宙の死滅以外の何《もの》でもない。しかし、念は、つまり、霊魂は此の宇宙が死滅しても次世代の宇宙に必ずRelayされなければならぬの筈だ。
(五十二の篇終はり)
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