――これは愚問だが、《死》とはそんなにも醜悪な《もの》なのかね?
――《死》も含め、《自然》なる《もの》はそもそも醜悪な《もの》さ。
――《自然》がか? それは反対で、《自然》は美しい《もの》ではないのかい?
――いや。確かに《自然》は美しい《もの》には違ひないが、しかし、《自然》にもまた《パスカルの深淵》の如き特異点が《存在》するのであれば、それは醜悪な筈さ。
――ふっ、特異点とは醜悪かね?
――当然だらう?
――何故にさう言ひ切れるのかね?
――へっ、何となくさ。
――何となく?
――ああ、何となくだ。反対に聞くが、それ以上に特異点をどう形象すればいいと言ふのかね?
――つまり、お前にも特異点は形象不能といふことか――。
――当然だらう。しかし、此の世に《死》が《存在》する以上、特異点は、多分、醜悪極まりない筈だ。
――へっ、《死》は醜悪かね?
――《死》は《生者》にとっては醜悪な《もの》と太古の昔から相場が決まってゐるぜ。
――それは《生者》といふ有機体たる《死》が腐乱する現象を示すからといふだけの事だらう?
――多分ね。しかし、姿形ある《もの》が《死》によって腐乱し壊れて行く様は、生きてある《もの》にとっては忌み嫌ふべき《もの》になるのは当然だらう?
――当然? それは現代人のみの偏見ぢゃないかね?
――いや、そんな事はないぜ。古代の神話世界では神すらも《死》を忌み嫌ってゐるぜ。
――しかし、《生》から《死》へ至り、そして《死》が腐乱して行くその醜悪極まりない《死者》の姿形を実際目にして、その腐乱する様を晒しながら《生》なる《もの》を鼓舞し、戒める如く《死》が白骨化する様を、日常の中に包含した《生》の営みを、近代化する以前の日常には、《死》は未だ当たり前に《存在》してゐた筈だがね?
――さうだね。つまり、現代の《存在》の様態はといふと、現代においてはそれに現実といふ名が冠されてはゐるが、その実、現実の《死体》でしかない現実といふ「現象」を腑分けするが如くに論理的に分析しては、《死体》らしく論理で現実を規定する馬鹿な事を尤もらしく当然といった顔でさらりとやってのけてしまふ現代人程、《死》を忌み嫌った《生者》はゐないのぢゃないかね?
――ちぇっ、それは多分、記憶に新しい過去に現代人は大量殺戮の世界を経験しちまったからね。
――それ故に尚更現代人なる生き物は《死》を日常から追ひ出したまでは良かったかもしれぬが、しかし、いざ《死》が日常に出現すると、蜂の巣を突っついたやうに大騒ぎするか、呆然とするかのどちらかといふ体たらくは、どうにかならぬかね。
――するとお前は日常に《死》が普通に《存在》してゐる方が此の浮世は幸せだと考へてゐるのかね?
――勿論だとも。「初めに《死》在りき」、そして《生》若しくは《性》が始まったのさ。
――つまり、《存在》と《死》が此の世の開闢時には在ったと?
――さあ、それはどうか解からぬが、しかし、《生》よりも《死》が先に《存在》してゐたのは間違ひない。
――どうしてさう言ひ切れる?
――へっ、唯、何となくさ。
――ちぇっ、また、何となくか――。
――下らぬ。《死》と《生》のどちらが先かなんてどうでもよいではないか! それより、単細胞が己のDNAを寸分違はず複製する自己複写故の自己増殖といふ《存在》の在り方が、世界の環境の激変と共に《死》するしかなかった故にDNAを組み替へて、新たなDNAの配列をもった子孫を残す、まあ言ふなれば一か八かの賭けによって、つまり、《生》と《性》と《死》とが切っても切れない紐帯で結ばれちまったのが、今を生きる生き物の主流なのは間違ひない。唯、主流が永劫に生き残る保証はないがね、へっ。
――つまり、それが生き残るかどうかは神のみぞ知るってか――。
(五十五の編終はり)
自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp