思索に耽る苦行の軌跡

2009年 04月 27日 の記事 (1件)


――しかし、それは深い深い慈悲から生じたとは考へられないかね? 





――つまり、この宇宙、即ち《神》すらも《死》からは遁れられぬと? 





――ああ。当然この宇宙が《存在》してゐるのが《事実》ならば、そしてそれをまた《神》と名付けるならば、《神》が此の世に《存在》してしまった以上、《神》にも当然《死》が待ってゐる。





――《死》すべく宿命付けて《神》は己も宇宙も誕生させた――。はっ。





――さうせずには何にも創生させることが出来なかったのじゃないかね? 





――何故? 





――《神》もまた己に怯えてゐるからさ。そして暗中模索の思考錯誤の末の自棄のやんばちで《神》はBig bang(ビッグバン)をおっ始めてしまった。





――その時、《神》もまた自同律の陥穽から遁れられなかったと? 





――ああ。《神》こそ自同律を最も不快に感じてゐるに違ひない。それ故、Big bangをやらかした。





――如何してさう言ひ切れるのかね? 





――へっ、《吾》と名付けられた《存在体》が此の世に《存在》するからさ。





――ぷふぃ。《吾》だと? それは苦し紛れの詭弁でしかないのじゃないかね? つまり、《吾》は誰が《吾》だと自覚するのかね? 





――当然《吾》自身さ。





――其処さ、《吾》が《吾》であると自覚する過程の中に、《吾》の外に《存在》する《他》を《他》と認識する素地はあるのかね? 





――《吾》が既に《他=吾》を抱へてゐるじゃないか――。





――つまり、《吾》は既に《吾》であることで其処に《他=吾》といふ矛盾を抱へ込んでゐるが、しかし、それでも此の世の摂理として自同律は何としても成立させなければ《存在》は一時も《存在》たり得ぬ宿命にある。そして、《他》が此の世に出現することで此の世の涯に朧にも思ひを馳せて、宇宙にも、また《神》にも、《他》の宇宙が、《他》の《神》が、《存在》することを如何あっても自覚せねばならぬ。つまり、此の世には必ず《他》といふ《吾》の涯が《存在》すると。それ故に自己が自己であることを自覚することで、ちぇっ、其処には大いなる矛盾が潜んでゐるのだが……、自同律といふ此の世の摂理の土台を為す不愉快極まりないその摂理といふ奴を無理矢理にでも抱へ込んで此の世に《存在》しなければ、最早この宇宙が創生しちまった以上収拾がつかぬとんでもない事態に《吾》は直面してゐるに違ひないのだ。





――はて、それは如何いふ意味かね? もっと解かり易く話してくれや。





――つまり、《吾》は《吾》である以前に《他=吾》を抱へ込んでゐる。それ故に《吾》は数多の《異形の吾》に分裂しつつも《吾》といふ統一体であらねばならぬ。つまり、自同律が成立する以上、《吾》は《吾》自身でその不愉快極まりない此の世の摂理を身を持って味はひ尽くさねばならぬ訳だ。《吾》は《吾》である、と。さうしなければ《吾》は《他》の《存在》を一時も認める事が出来ぬのさ、哀しい哉。何故って《吾》=《吾》が成立しなければ、つまり、《一》=《一》が「美しく」成立する論理的な秩序があって初めて《吾》は《他》を《他》と認められるのさ。其処には《吾》=《吾》といふ堅牢なる礎があればこそ《吾》が《他》の《存在》を漸くにして認められるといふ道理が潜んでゐると、お前は思はないかい? 





――さうして《他》の《存在》に此の世の涯を見る――か――。





――さうさ。《他》の《存在》を《吾》が認める、つまり、《他》の死肉を喰らふこともひっくるめて自同律を受け入れるには、《個》は《個》として閉ぢる、つまり、有限であることが必要十分条件なのさ。《吾》が有限であることを、自同律を受け入れることで認めざるを得ぬ《吾》は、《吾》が閉ぢた《存在》であることを《他》の出現で否応なく認めざるを得ない。そしてこの宇宙も《自意識》を持ってゐるならば、其処には厳然と自同律が成立してゐて、この宇宙は《吾》が有限で閉ぢてゐることを自覚せざるを得ず、へっ、それは詰まる所、《吾》とは別の《他》の宇宙が《存在》することを暗示しちまってゐるのさ。





――しかし、眼窩、鼻孔、耳孔、口、肛門、生殖器等々《存在》は《他》に開かれるべく穴凹だらけだぜ。





(三十の篇終はり)





2009 04/27 05:17:43 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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