クラシックカメラの名機ヤシカエレクトロ35による写真集 YASHICA ELECTRO35GSN
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元弘三年(1333年)五月二十二日、九代続いた北条氏は鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢に抗しきれず東勝寺にて高時以下一門の者八百余名が自刃してここに滅亡しました。東勝寺跡はご覧のように一面の荒地で金網の柵で囲ってあるだけです。慰霊碑の一つも無いのは憐れであり、おかしいと思いますね。最期は賊軍の将として敗死した西郷隆盛でさえ、後に明治維新の時の功績が認められて上野に銅像が建てられたんですからね。まして北条氏は光厳天皇を擁立して戦ったのですから、一概に朝敵といって良いものかどうか。北条氏というのは元寇から日本を救ったから日本人にとって大恩があると思いますけどね。徳川幕府のように民衆を残虐に抑圧したりしなかったし、後醍醐天皇や足利尊氏の治世になっても世の中が良くならなかったのは二条河原の落書のなかで「自由狼藉ノ世界ナリ」と批判されていることからもわかります。
建仁元年(1201年)、北条泰時は去年不作のために領民に貸し出していた五十石の米を台風の被害のために返却できなくなった領民が処罰を恐れて逃亡しようとしているという噂を聞きつけて彼らの不安を宥めるために負債を持っていた数十人の領民を召し集めて彼らの目の前で証文を焼き捨て「将来、豊作の時があっても返せとは言わない」と申し伝えさらに酒食を与えて饗応し一人あたり一斗(18リットル)の米を与えたそうです。「おのおの、かつは喜悦し、かつは涕泣して退出す。皆手を合わせて御子孫繁栄を願うと云々」と吾妻鏡は伝えています。北条氏の政治の片鱗がうかがえる逸話です。
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