いで湯旅・山旅・鉄道旅・お遍路…様々な旅の迷路を巡ろう

2005年 11月 08日 の記事 (1件)


「弘法倶楽部」2号に掲載されました、2004年暮れの記録です。今回はまず餘部編です。
 
長年関東に住む私にとって、いで湯探訪は甲信越から東北方面が殆どで、なかなか近畿以西に足を踏み入れる機会がない。一時期地元が四国の高知ということもあって、年に一回里帰りの途中に山陰に寄り道したことが何度かあったが、ここ数年は機会が見出せずに遠ざかっていた。
この度は「弘法倶楽部」の企画で四年振りの山陰行脚が実現し期待に胸高まる次第だが、実は同時にかすかな不安がないでもないのだ。関金温泉は今回が初めてだが、湯村は二度目である。温泉好きの多くは古い歴史があると同時に、長年変わることなく往来の姿を保っている場所を愛する。自分も同人種である以上その点は同じだ。

四年前訪れた湯村は本当に素晴らしかった。それだけに「すっかり変わってしまっているかもしれない。」という危惧と「相変わらず山陰の(実は兵庫県だが・・)情緒溢れる温泉場であって欲しい。」と言う淡い期待が自分の中で交錯しているのである。四年といえばアッと言う間!と思われるかもしれないが、近年の“四年間の月日”をなめてはいけない。ちかごろの日本は“生み出す”と“滅ぶ”のサイクルが異常に早い。これは温泉文化とて例外ではないと思う。
実際、関東の温泉の中でも二・三年の間でびっくりするほど変貌してしまった所も少なくない。例えば埼玉県の秩父七湯などは、以前は札所巡りの巡礼客や湯治客に親しまれた素朴な鉱泉宿が数多くあったが、今は概ね高級旅館化している。
また栃木県の那須周辺も湯治場としての面影を残しているのはわずかに板室温泉くらいであろう。

壊して新たなものを作るのは易しいが、守り、受け継いで行くことは、絶望的なまでに難しい。特に戦後の温泉文化の推移を俯瞰するとそう感じざるを得ない。
自分が最初に湯村を訪れた時は、「夢千代日記ゆかりの温泉」として既に名を知られるようになっていたので、メインストリートは観光地然として華やいでいたが、「荒湯」で売り物の卵を茹でてるおばちゃんの姿や、共同浴場「薬師の湯」での地元の人たち同士の語らいに、古い温泉文化の息遣いを感じたものだった。
あれから四年を経て今回の湯村はいかに?!また今回初めての来訪となる関金温泉とは?・・。未入湯の温泉に向かう期待感は、「温泉好きの性」といってしまえばそれまでだが、湯村への“再訪の期待と若干の不安”をも孕みつつ、私は冬空の車窓を眺めつつ京都発の特急「きのさき」の客となり、一路山陰へ向かい始めた。


          餘   部

 京都からの「きのさき」は、ほぼ満席。殆どは城崎温泉の客なのだろう、車内も華やいだ雰囲気。四年前の山陰行では、たしか城崎に最初に泊まった。今回は割愛してしまうが、温泉としての規模が結構大きく、なおかつ情緒満点で、自分としては好きな温泉のひとつだ。外湯主体で共同湯が七つもあり、また各々が違った個性をもっている。
川を挟んで両側が温泉街、そして柳や桜並木、架かる石橋もどっしり落ち着いて歴史を感じさせる。いわゆる巨大温泉地でありながら、俗に落ちない品格の様なものもあると思う。湯治場というより、あくまで温泉場なので、物見遊山でぶらぶらするだけでも、ふんわか楽しい温泉情緒が味わえる。何年先になるか分からないが、次回の山陰行があれば、必ず立寄ろうと心にきめる。

 やがて、終点城崎。思った通り乗客の殆どは改札を出てしまい、ホームに残ったのは私と、野菜をどっさり担いだ地元風のおばーさんだけ。「きのさき」の停車しているホームの反対側に、キハ四十系の旧国鉄時代の老兵が待機している。濃いえんじ色の車体からは
「ン・ガ・ガガガ〜」というアイドリング音を響かせ、健在ぶりを誇示しているのが頼もしい。電車特急からこの気動車に乗り換えると、いよいよ山陰本線の本領発揮ということになる。乗り換え時間わずか十分足らずの間で、周りの環境がガラリとかわる。いつ来てもこの変化はかわらないし、また、たまらなく好きだ。
やがて、発車ベル(古メカシイ!)に呼応するように、元気な老兵は一層アイドリング音をパワーアップして重々しく動き始めた。
実は今回湯村へ着くまでにどうしても寄りたいところがある。餘部である。理由は二つ。私は過去三回このルートを訪れているが、いずれも餘部は通過しただけである。餘部鉄橋はそれ以前より是非行きたいところの一つだったが、当時は鉄橋の上からの車窓の眺めだけで結構満足していた部分もあったと思う。自分は山歩きとかも好きなので、特別「高所恐怖症」ではないが、たしかに地上四十一メートルと言う高さからの車窓の眺めは、思わずお腹がキュっと絞られるような感覚だったのを憶えている。

ただ、一年程前だったか、この餘部鉄橋も新橋への架け替え工事の計画が進んでいることを何かの情報で耳にした。早ければ平成二十二年頃の予定だと言う。
考えてみれば、昭和六十一年の列車転落事故(後述するが)など、この鉄橋はある意味味わい深い観光名所であると同時に、痛ましい歴史も数多く孕んでいる。現役の輸送建造物である以上、温泉のように「従来の姿を保って・・」と言う訳にはいかないであろう。六年なんてあっと言う間に過ぎてしまう・・。なんてことを考えているうちに、「今の姿を保っているうちに一度外から眺めておきたい・・。」と勝手に思うようになったのである。

もう一つは、湯村温泉を舞台にした「夢千代日記」(ドラマでは湯の里温泉と称している)と餘部鉄橋との関係。「夢千代日記」は舞台や映画でも取りあげられているが、やはりNHKであしかけ三年・三部作に渡って放映された「ドラマ人間模様・夢千代日記」に尽きるといってよいだろう。
吉永小百合演じる原爆症を患った温泉芸者の主人公と、山陰の温泉地というある種の閉鎖的な空間が生み出す宿命。それに対する主人公の命を掛けたささやかな反発。餘部鉄橋はそのドラマの舞台と“それ以外の地”をつなぐ架け橋というイメージでさりげなく象徴的に描かれていた。
実は去年の三月頃BS放送で、全話が再放送され、約二十年振りに観ることができた。トンネルを抜け餘部鉄橋を渡り“それ以外の地”から“宿命の地”に向かう山陰線の列車をバックにした武満徹のメインテーマが、ドラマに対する二十年振りの懐かしさと、四年前の餘部鉄橋に対する懐かしさを呼び起こし「また行きたいな・・」という気持ちを昂らせたような気がする。
さて、城崎を出た気動車は香住あたりで、いよいよ日本海と出会い、真っ暗なトンネルと、どんよりとした海の景色を交互に見せ始めた。今にも泣き出しそうな空模様。

乗客は私のまわりでは、先ほどの野菜のおばーさんとあと二〜三人程。みな地元の人ばかりであろう。なんとなく旅行者フゼイは私だけか。鎧という無人駅を過ぎいよいよ餘部に差し掛かる。四年前は通り過ぎてしまったが、今回は降りる。そして初めて外から見上げるのだ。なんだかワクワクしてきた。
ドラマのメインテーマどおり、トンネルを抜けいきなり空中に飛び出したような錯覚に陥ると、気動車は餘部鉄橋の上である。真下は餘部集落。少し視線を前に向けると相変わらずどんよりした日本海。餘部(余部でもよいらしい)駅はその鉄橋を渡りきったところにある無人駅である。ホーム上にはトイレ付きの倉庫のような待合室と電話ボックスがあるだけ。結局私以外は誰も降りなかった。

餘部駅の待合室
すごいのは、駅の出口(と呼んでいいのか・・)からいきなり登山道のようになっているのだ。三方が山で残る一方が海という土地。駅から集落へは長い階段と山道を延々と降りてゆかねばならない。集落は谷の下にあるからだ。山陰線はその谷を越え鳥取方面へと伸びてゆく。その谷を越えて架かるのが「餘部鉄橋」なのである。

駅の出口付近には、鉄橋を描いた古びたペンキ絵がある。鉄橋の下を子供が数人歩いている姿が描かれているようにみえる。昭和三十四年地元住民の請願によって実現した駅の建設の様子を描いたものだという。ところどころペンキの剥がれた絵を見つつ当時の情景を思い浮かべたりした。
出口とは別にホームの裏側から、裏山へ上がって行く道があり、興味を憶え上がってみた。三分ほど行くと、なにやら餘部鉄橋を見下ろす展望台のような所に着いた。土はぬかるみ倒木なんかもあって足場はよくない。ただ、改めてそこからの景色に眼を向けると、思わず、ウオォー!! なんとすばらしい眺め!!。斜め下に鉄橋を見下ろし、後ろにトンネルが口をあける山。そしてそれらを露払いにして雄大な日本海が広がる。ここではさすがに“どんより”という形容はあてはまらない。これであの機動車が鉄橋を渡っていたら、鉄ちゃん写真家にとっては絶好のポイントになるだろう。しばし飽かずに眺め入ってしまった。

後ろ髪引かれるように再びホームへもどる。駅を出るとすぐに登山道?は二つに分かれる。案内表示に従うと、手前の道を行くと坂を緩やかに下って餘部集落の外れへ、奥の道を行くと餘部鉄橋の真下へ出るらしい。できれば一泊くらいして隅々まで散策し、餘部を存分に吸収したいが、今日は湯村まで行かねばならない。時間の問題でやむなく奥の道を選ぶ。手擦りつきの遊歩道のような道を下っていくと、ちらちら見える集落が徐々に近くなってきた。こんどは逆に鉄橋を見上げる立場になってきたが、降り切るまでは敢えて眼をそむける。やがて鉄橋の真下、餘部集落の中心部に到着した。駅出口から約七分程かかった。改めて見るとなんだかただの登山口のようで、案内表示がなかったらこの坂道の上に駅があるなんて多分わからないだろう。

周りを見渡すと、餘部の漁村集落がひっそりと佇んでいる。木造平屋建ての家々の間を素朴な潮の香りが吹き抜ける。つげ義春の漫画に出てきそうな風景。夏は磯遊びや釣り人で賑わうらしいが、オフシーズン(冬場)は地元の人だけの静な時間が流れているようだ。

いよいよ鉄橋を見上げる。・・!!!・・。思ったより華奢にできている・・。今の今まで散々頭の中では想像し、想いめぐらしていたが、すぐ言葉になってくれない…。やはり、しばらく呆然として見上げ続けるしかなかった。

餘部鉄橋は明治四十二年起工、三年の歳月をかけ明治四十五年三月に完成。長さ三百十メートル、地上からの高さは当時東洋一だったという。この橋は当時の山陰線全通の最後の難関として、地元の人々の悲願であった。しかし駅ができたのはずっと下って昭和三十四年。駅の工事には小学生も動員された。駅ホームの裏にあった絵の中の子供たちは、その様子として描かれたものだろう。
昭和六十一年。以来地元の人々の支えとなってきた餘部鉄橋に悲劇がおこった。「餘部鉄橋列車転落事故」である。当時の記録を記す。

「昭和六十一年十二月二十八日午後一時二十四分。餘部鉄橋から、回送中のお座敷列車「みやび」の客車七両が折からの突風にあおられ、鉄橋より転落。真下にあったカニ缶詰加工工場を直撃し、工場で働いていた主婦ら五人と最後尾にいた列車車掌の計六人が死亡、六人が重傷を負った。旧国鉄からJRに移行する過渡期に起こった事故で、風速二十五メートルを示す警報装置が作動していたにもかかわらず、規定どうり列車を停止させなかった、人為ミスによるものとみられている。」


駅入り口から少し歩いた所に、最大の犠牲者の出たカニ加工工場の跡地がある。そこには慰霊の観音像が建っており、そばに、線香、ローソクや、事故に関する参考文献、写真が入ったボックスが設けられている。人為ミスとはいえ、それまで血汗を共にし共に歩んできた住民達にとっては痛烈な仕打ちだったに違いない。線香やローソクのある回りがとてもきれいに掃除されているのを見ると、この慰霊碑に対する地元の人達の想いが伝わってくる。
山陰と都市圏をつなぐ架け橋として仁王立ちしてきた餘部鉄橋と、その下に暮らす人々との永年の関係は、とても私の想像の域に収まるものではないが、観音像のおだやかな表情は、そのすべてをやさしく包容しているようであった。「夢千代日記」の原作者である早坂暁のモチーフの原点も、あるいはここにあったのかもしれない。これもあくまで私の想像でしかないが・・・。

しかしこの高さ・・。四十一メートルだから、高層ビルを見慣れている都会人もどきの私にとっては大したことはない筈だが、ここの地形と集落の風景が、なにやら数字に表れない威圧感を助長している。さらに、華奢に見えるのがかえって年々血肉をそぎ落とされながらも、仁王立ちしている老兵のようで、鬼気迫るものを感じさせる。
誕生以来、九十二年に渡って数多の喜怒哀楽を支え続け、また幾人かの命も奪ってきた餘部鉄橋には、私ごときの下種な考察や検証はすべて跳ね返されてしまうだろう。今はただ、噛み締め、見上げ続けるしかない。

しばらくすると、私が乗ってきたのと同じキハ四十系の気動車が鉄橋を渡り始めた。城崎に向かっている。たちまち地鳴りに近い振動が足元まで伝わってきた。重々しく渡っていく気動車と、それを支える鉄橋を見上げながら、私はこんな対話を想像してみた。

気動車  「ワシもそろそろ棺おけ(解体場)行きも近いかもしれんが、まだまだくたばるつもりなーぞ。おみゃーも頑ばらなイケンちゃ。」
鉄 橋  「あたりみゃーやがな・・・・。」

やはり来てよかった・・。もうこれ以上の感想は思いつかなかった‥。
2005 11/08 16:58:55 | none | Comment(0)
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