2004年、冬、山陰いで湯随歩の旅も今回が最終です。そしてやっと訪問地、関金温泉に弘法大師伝説が出てまいります。関金温泉鳥飼旅館の若女将翌日、湯村に別れを告げ再びバスの人となる。今度来るのはいつになるだろう。ただ、もうその度に懸念するのはやめようと思う。
考えてみれば、湯村温泉は、慈覚大師が最初に発見して以来、千百五十年の歴史がある。四年間は確かになめてはいけないが、やはりほんのわずかの間であろうし、これからも小さな変化を孕みつつも、悠々と生きていくに違いない。
浜坂から鳥取行きに乗る。今日はいよいよ最終目的地、関金温泉へ。
関金温泉は三朝温泉と共に、山陰の名湯と言われている。三朝は入湯済みだが、関金はまだ果たせていない。共に歴史が古く、共に泉質がラジウム泉という点も共通している。いつかは行かねばならぬと思いつつ、冒頭書いたように、なかなか機会が見出せなかった。
実はこの度の「弘法倶楽部」の企画のきっかけになったのがこの関金温泉なのである。私はここが弘法大師のゆかりの温泉ということを知らなかった。
弘法大師ゆかりの温泉というと名のあるところでは、伊豆の修善寺、新潟の出湯、和歌山の龍神、熊本の杖立などがあり、あまり知られていないところだと、姉妹ブログ「弘法大師伝説をたずねて」でも取り上げられている相川鉱泉やぶんぶくの湯などがひっそりと息づいている。
その他調べれば調べる程数え切れないくらいあり、関金温泉はそのなかにあっては知られている方な筈だが、私の認識からは抜け落ちてしまっていた。温泉の存在は認知していても、そのゆかりを知らなかったとは我を恥じることこの上ないが、そういう自分にとってもよい機会であり、存分に関金温泉を吸収したいと思う。
餘部前後では、トンネルと断崖絶壁を交互に走っていた山陰本線も、鳥取で「鳥取ライナー」に乗り換え浜村の辺になると、平野部が多くなるせいか車窓からの景色も随分印象が変わってくる。
断崖絶壁の車窓からは、荒々しくもかつ荒涼とした姿をみせていた日本海も、ここでは落ち着き穏やかな表情に変わっている。私が幼い頃から慣れ親しんだ太平洋とも、また違った表情の豊かさを感じた。
関金へは、倉吉からバスで約三十五分。倉吉からのバスは三朝行きと関金方面行きの各々が出ている。六年前倉吉に降り立った時は三朝行きに乗った。
倉吉の駅前は割りと新しくこざっぱりとしており、なんだか東京周辺の新興住宅都市の駅ターミナルみたいな感じ。おそらく市の中心部は駅からやや離れたところにあるのだろう。駅自体はやはり三朝と関金の玄関口という印象だ。
小鴨川に沿ってバスに揺られ、蒜山三山が徐々に迫ってくると間もなく関金温泉に着いた。
関金温泉バス停国道沿いにバス停がぽつりとあり、どこが温泉街か?一瞬戸惑う。多少うろうろするが、標識に従い車がやっとすれ違えるくらいの路地に入るとそこが温泉街の入り口。いわゆる中心部というのもがありそうな雰囲気ではない。
バス停付近宿は私が泊まる鳥飼旅館を含め七件のみ。昨日の湯村と比べても規模は小さく、年末にもかかわらず、人はまばらである。バスから降りたのも、私以外はお年寄りの夫婦が二組とあとは地元風のおばさんが二名ほど。予想はしていたが温泉地的な要素よりも、より湯治場としての雰囲気を強く感じとった。例によってフラフラ散策を開始する。
関金温泉は千三百年の歴史があるが、最初に発見したのは行基である。弘法大師ゆかりの温泉というと、弘法大師によってその歴史が始まったところが大部分を占めると思うが、ここは弘法大師により“再興”されたということになっている。ただ温泉の歴史そのものは行基から始まっているものの、本当の意味で関金の地から湧いた湯が“関金温泉”になったのは弘法大師からではないか?という憶測も出てくる。その辺の基話(モトバナシ)も聞いてみたいものだと思った。
だらだら登る細い道の両側に民家や、みやげ物屋とも日用雑貨屋とも見つかぬような店が肩を寄せ合いたまに旅館が混じっている。やはり観光温泉地というには生活的だ。関東周辺で例えると群馬県の湯宿温泉に近い雰囲気。言ってみれば本当の湯治というのは半分生活なわけで、これが本来の湯治場のあるべき姿だと感じる。
温泉街もかなり奥まったところに共同浴場「関乃湯」がある。湯村温泉の薬師湯は鉄筋の温泉会館であったが、ここの外観は民家風の建物で玄関の上に「関の湯」の看板がかかっており、まさに“湯小屋”という雰囲気。
明治三十四年以来の古くからの外湯で、自分もある程度の予備知識は持っていたが予想したとおりではあった。玄関戸はガタピシと開けるようなイメージがあったがサッシに変わっている。中に入るともっと予想と違った。
木の香りも新しいこじんまりした待合。番台にはニコニコ顔のおばさんが座っている。無人の湯小屋然とした想像が覆されてびっくり。聞くと、今年の九月に改装されたらしく、それ以前は私が予想したような感じがずっと続いていたらしい。おばさんにとっては本当に念願だったようで、実に嬉しそうに話してくれた。
関の湯番台入浴料二百円也を払いソロリと入ると男女別に仕切られた清潔な脱衣場の奥に浴室がある。
浴室はこじんまりとしていて三〜四人で一杯になる檜作りの湯船がある。ここはさすがに自分本来のイメージ。洗い場はない。無人。存分に湯を浴びた後ゆっくり湯船に身体を沈める。ジャスト適温。四十六度の源泉は無色透明、無味無臭。温度調整され懇懇と溢れ出している。もったいなきこと限りなし。初入湯の喜びと湯の快適さに浸りしばし瞑想。
泉質は三朝と同じ単純放射能泉。ラジウム自体には、匂いや色の要素はなく、入った感じは普通の単純泉のようだ。ただラジウムは湧出後ラドンとなって気化するので、浴室を密閉することにより吸入効果が得られるそうだ。特に肝臓病や痛風によいとのこと。
関の湯浴室そういえば関東周辺のラジウム温泉としては数少なくかつ名高い山梨の増富ラジウム温泉には、いわゆる露天風呂というものが殆どなかったような気がする。
温泉の恩恵だと思われるが、この三朝、関金周辺は平均寿命が全国でも屈指だという。今もなおこのラジウムの恵みは、内外の湯治者を支えているようだ。
調べてみるとこの周辺の温泉は三朝、関金以外でもラジウム成分が多少なりとも含まれているところが殆どである。ちなみにこの東伯郡の東南、中国山地の中程に「人形峠」というかつてのウランの産地として有名なところがある。おそらくその影響を受けた地下鉱脈がこの一帯に広がっているのであろう。ただ人形峠の反対側にある、岡山県側の奥津温泉をはじめとした美作三湯にはいずれもラジウム成分は殆どと言ってよい程ない。影響を受けた鉱脈は山陰側だけに展開しているということだろうか?
そんなことを考えているうちに、もう四十分も浸っていた。結局最後まで誰もこなかったが、初入湯の成果は充分過ぎるものであった。
湯上りにまた番台のおばさんから話が聞けた。ここは当初湯治目的で三朝に行っていた人が「三朝の湯は熱すぎる。」とのことで移ってくるケースが結構多いらしい。
なるほど三朝はたしか源泉五十六度くらいで自分も相当熱かったと記憶する。三朝の湯も効能は確かなはずだが、これはまた別問題であろう。
ただ、せっかく移ってくる人がいてもその中心たる「関の湯」があまりにもボロでは・・、という苛立ちとも悔しさとも言える思いがあったようだ。自分などはいたずらに改装や建替えで変っていくより、古くともそのまま歴史を証明していて欲しいとついつい思ってしまったりするが、実際に湯を守る当事者にとってはもっと現実的に立派であって欲しいと願うものなのだろう。
実際肝心の湯がしっかりしているのであれば、これは当たり前のことだなと改めて思う。おばさんの笑顔に同調し自分も多いに喜び、楽しい時間を過ごすことができた。
どうも「関の湯」には長く居過ぎた。冬の陽は短くアッという間に暮れてきた。他にもいろいろ観たいところもあるが、ともかく本日の宿鳥飼旅館に向かう。なにかと課題を残してしまいがちな旅だが、これもいつもの自分の旅のパターンだと無理矢理自分を納得させる。内心自分に甘いと分かっていながら・・・。
鳥飼旅館鳥飼旅館は、二階建てのこじんまりした外観。玄関に入り「ゴメンクダサーイ」、・・・。二回目、
やがてニコニコ笑顔の奥方らしき人が出てきた。普段着姿の色白美人。ほっとすると同時になんとも家庭的な宿の雰囲気が伝わってきて嬉しくなった。
気さくな奥方からすぐに出て来れなかったことを詫びられ逆に恐縮するが、ちょこちょこ話掛けられながら、こじんまりした和室に通された。
昨日の寿荘の広―い部屋とは違い湯治宿の部屋の雰囲気。かえってこういう部屋のほうが落ち着く。例によってばったり大の字になろうとしたら、奥方がお茶とお菓子を持って入ってきた。
先ほどの関の湯では番台のおばさんの話の聞き役に回って聞けなかったし、思い切って「弘法倶楽部」の紀行取材のことを打ち明けたうえで聞いてみようと思った。弘法大師伝説についてである。
温泉街の端っこの方に「えぐ芋広場」なるところがあり、そこで「えぐ芋の話」というのを見たのであるいはそれかなとも思われるが、はたして・・・。
奥方は笑いながら快く丁寧に話してくれた。やはりその「えぐ芋伝説」である。
えぐ芋広場今から千二百五十年ほど前のこと、一人の老婆が関金宿(湯関村)の湯谷川で芋を洗っていると、みすぼらしい身なりをした一人の旅の僧がとおりかかった。旅に疲れたとみえるこの僧は、たいそう腹をすかせていたのか、「もし、お婆さん。その芋を少しわけてくださらんか」と、声をかけた。僧のあまりのみすぼらしさにお婆さんは無反応。
「のう、お婆さんご無心じゃがの。腹がすいて・・・」問いかけるのを、押さえつけるように、「この芋はなあ、みかけはうまそうなけど『えぐ芋』といって、初めての人には口がいがむほどえぐうて、とても坊さんの口にあうものでは・・・。」よくばりな婆さんは、ていよく断った。「ほう、えぐ芋・・口がいがむのでは助からぬ、いやおじゃまさま。」
すげなくことわられたが、旅の僧はおだやかな笑みを残し、静かにその場を立ち去った。
その笑みが、まるで相手の心を見抜いているようで、婆さんはいたくカンにさわった。坊さんのうしろ姿にするどい口調で、「何がおかしい、乞食坊主めっ。こんなうまい芋を、お前なんかに食わせてたまるか!」婆さんは、坊さんへのつらあてのように、芋を思い切りかじった・・。
ところがどうしたことか、まさに舌もまがるほどエグい!婆さんは顔をしかめ、そんなはずはないと、ほかの芋を口にしてみるが、次の芋も、次の芋も・・・・
婆さんは気が違ったように残った芋を全部川に投げ捨ててしまった。
逞しく自生する「えぐ芋」旅の僧はその夜、村の宿坊に泊まった。翌日、谷川で顔を洗っていると、冷たい流れの中に湯けむりのが立ち、ほのかなぬくもりがあることを感じた。僧が霊感により、源泉の位置を示し 錫杖を谷川に投げ込んだその場所を村人が掘ってみると、温泉がこんこんと湧き出した。
それは、それこそ女人が入浴すれば、肌を覆わなければならないような、無色透明のきれいなお湯であった。旅の僧は、宿坊の住職の請いをうけ、この地を訪れたしるしに錫杖を境内に立て、次の巡札へと旅を続けたとさ・・・。
語り部口調の奥方の話を要約するとこんなところ。旅の僧はいうまでもなく諸国巡礼中の弘法大師であろう。僧が残した錫杖は、やがて芽をふいて巨大なはねりの木となったが、昭和の初めに切り倒され、現在では切り株も残っていないという。
婆さんが投げ捨てた芋は、今でも谷川に自生しており「関のえぐ芋」として知られるに至ったそうで、例の「えぐ芋広場」周辺でもそれらしきものが確認できた。
なんだか伝説というより“日本むかし話”といった感じだ。弘法大師ゆかりの温泉には、様々な伝説があるが、こんな素朴な“でんせつ”があってもいいと思う。
ただ気になったのは、この話だけを聞くと関金温泉の発見者はやはり弘法大師だったようにも聞こえる。仮に既に湯は存在していたとしても、実際はあってなきが如しだったのかもしれぬ。そう考えると、やはり関金温泉の本当の意味での歴史の出発点は弘法大師だったのかもしれない。
関の地蔵尊後で宿からやや奥まった所にある「関の地蔵尊」の住職から聞いたりしたが、ここの湯の発祥はやはり行基であるとか、実は鶴が見つけたとか、様々な説があるらしい。住職は弘法大師であって欲しい口ぶりだったが、別に弘法大師に肩入れするワケではないが、私もやはりこの説を信じたくなる。
関の地蔵尊の弘法大師像しかし話の中で大師を欺いた婆さんはその後どうなったのだろう。改心して関金発展に努めたのか?はたまた相変わらずのケチな婆さんのままで一生を終えたのだろうか?
鳥飼旅館浴室さて、今回の旅の総仕上げとなる湯に浸りに行く。実はこの宿を選んだのは、ここが江戸時代からの湯元であり更に遡れば、大師の導いた湯を自家源泉として持っていることになるからである。それは奥方の楽しそうで、誇らしげな口調からもうかがえた。
男女別の、五人くらい入れるタイル貼りの浴槽。竹の筒からとうとうと注ぎ、注いだ分常に溢れている。肝心なものは本物中の本物である。湯にゆっくり身を沈め、改めて御大師様の恩恵を感じる。
鳥飼旅館夕食私は正直いって、弘法大師に対してさほど多くの知識もないし、ヘタなことを書くと誌の読者に怒られるような不安もあった。しかしこうして、大師のいで湯との人間的な係わり合いを実感すると新たな探究意欲が湧いてくるような気がする。ただそれを導いてくれるのはやはりこの湯であることは言うまでもない。
翌日、天気は快晴。今回の行程もこれですべて終了。宿を出る前に奥方と少し話し込む。宿としては殆ど宣伝活動云々はやってないそうだ。奥方曰く
「宣伝し、やたらアレガイイデス、コレガイイデス、といっても仕方がないし、むしろそこから出るいろんな要望に答えられなかったら悲惨ですし・・。殆どは口コミで数少ない『いい』と言って頂いた方のリピートです。
結局うちのとりえはお湯だけです。建物もご覧の通りボロですし。」
奥方の話を聞いて改めて思う。
いたずらに規模拡大し、踊り、いつしか湯が取り残され、今頃になってそのツケを味わっている宿がボロボロ出ている状況らしい。
が、決して豪華でなくむしろ質素であっても、本来本質であるべき湯を尊重し、そしてあくまで来訪者に対し誠実な姿勢がこの宿には感じられた。
関東周辺の宿に置換えると、板室温泉の江戸屋旅館、柴原鉱泉の菅沼館などに通じていると言っていいと思う。これらの宿はいずれも初来訪時の感銘が忘れられないが、ここ鳥飼旅館もまた同じである。
空は快晴だが、夜降った雪のせいで周りは雪化粧。帰り際に奥方から一言。
「弘法倶楽部、できたら是非一冊送ってください。今まで雑誌に取り上げられたりすることもなかったので、大事にします。」
喜んで承る。なにか力に・・などと思うわけではないが、むしろ私の方から置いて欲しいと思う気持ちのほうが強い。きっと編集長も賛成してくれるだろう。
改めて顧みると、餘部にしても湯村にしても訪れた場所ごとに私なりに目的を持って訪れたつもりだが、それは理屈ではなく五感で感じるものとしてであった。いつもどおり所々課題を残しながらの旅ではあったが、それがまた次につながり今後もまた続いていくと思う。
今回、この機会を与えてくれた「弘法倶楽部」の編集長に深く感謝しながら、私は奥方が手を振る関金を後にした。
以上で2004年山陰紀行は終了です。
この文章を載せた「弘法倶楽部・2号」が出た後、鳥飼旅館よりお礼のお手紙をいただきました。
その時の感激は今でも忘れられません。
次回からは「弘法倶楽部・3号」に掲載されました「山梨周遊紀行」の予定です。