いで湯旅・山旅・鉄道旅・お遍路…様々な旅の迷路を巡ろう
今回からの2回は「弘法倶楽部・4号」掲載予定でした「塩澤寺、厄除地蔵尊祭り」編となります。
1回目は祭りの前夜として、湯村温泉にズームします。







          湯村温泉街

前号にて予定外の行動が発生した為に、メインであるはずの湯村温泉における厄除地蔵尊祭りが、本号にずれ込んでしまった。
まずはこのことについて深くお詫びを申し上げなくてはならない。ただ、前号発刊後、既に読者の方々より様々な感想、御意見、ご教示をいただき、程よい(?)プレッシャーを感じつつ筆を取っている次第である。

夜の温泉街
さて、やっと「本当の意味で湯村温泉に降り立った」わけだが、予定変更のアオリを受けて既に六時近くなり、夕暮れ時も既に終了という感じ。迫り来る寒さに身体が必死で反発している状況。
宿に入る時間もかなり遅れており、さっさと入ってしまいたいが、宿の場所を探すつもりが、そのまま温泉街をぶらぶらしてしまっている。
着いたらまず散策する、という習慣というか、自分が温泉行脚の中でつくってしまったヘンな性みたいなものには逆らえないようだ。
市街地の街道沿いにある、温泉入り口からしばらく歩いていると、街灯一つ一つにひらがなで『ゆむら』と書いてあるのが目に付き、温泉街の中心部に近づいて来ているのが分かる。
やがて温泉街を流れる小さな川のほとりに『歓迎、湯村温泉郷』と書かれた赤い石製の建て看板があり、この辺が中心街だと分かる。

その建て看板の横に川を跨ぐ小さな赤い橋が架かっており、その先には、ピンク色の古びた二階建て。スナックか何かであろう『赤い橋』という屋号が架かっている。
この時間でも真っ暗であり、営業中という感じではない。それ以外でも特に土産もの屋などもなく、地元の人しか入らないような飲み屋や食堂にぽつぽつ灯りが燈っている。

   鷲の湯
道がやや狭くなったその先に共同浴場『鷲の湯』があり、一階が浴場、二階は『湯村温泉芸能センター』になっている。二階のほうは現在機能しているかどうかは定かではないが、おそらく旅芸人一座の公演などをやっていた(いる)のではなかろうか?
この夜の温泉街の雰囲気の中で、私は、本誌二号で取り上げた山陰(兵庫県だが)の湯村温泉をふと思い出した。温泉名が同じで自分のなかでも何かと比較することが多かったのだが、あちらは夢千代日記ゆかりの温泉地として、夜は荒湯を中心に鮮やかにライトアップされるなど、観光温泉として非常に魅力的な整備がされていた。

山陰の湯村
ただその反面、夢千代日記の物語に描かれた温泉地のリアリズムに対するギャップを感じたのも事実である。
そして今こうして山梨の湯村温泉に佇んでいると、むしろ夢千代日記に描かれた温泉地のリアリズムと共通したものを、こちらの方に感じてしまっている。「山陰の湯村温泉も物語当時はこう言う感じだったんだろうな‥」、と。
『鷲の湯』から数十メートルくらいの一帯が一番の宿の密集地帯のようだ。そして宿の前や隙間の空き地など、道沿いの所々でテントを張り裸電球の下で地元の人達がせっせと何やら作業をしている。

にこやかにビール片手にという風情である。一瞬なにかな?と思うが、どうやら来るべき明日の祭りの出店の準備のようである。
そうだ、明日はこの一帯も十万人余りの人で埋め尽くされ、この寒さを圧倒する熱気が支配することになるのだ。ワクワク顔で準備に勤しむ地元の人達を眺めながらなんとなくその情景を想像してしまった。
しばらく歩いていくと、出店準備のテントも切れ、温泉街もかなり奥まってきたのだろう、徐々に道が細くなってくる。もう真っ暗で分からないが、湯村山という小さな山が温泉街の後ろに聳えており、道はその山の始まりに突き当たると同時に左に折れ曲がる。そしてしばらく行くと山肌を前衛するように塩澤寺の山門が現れた。

塩澤寺山門
山門の周りは温泉街の中心から奥にはずれており、民家の灯がぽつぽつと言う感じ。既に底冷えし始めた夜の風景でひっそり静まり返っている。

ここで少し塩澤寺の歴史について触れてみようと思う。

 
大同三年(八百八年)弘法大師空海上人が諸国を衆生救済の行脚をされたおり、この地にて厄除地蔵菩薩の霊験を感ぜられ、自らが、六寸あまりの坐像を彫刻され、その尊像を開眼されたのが、開創(福田山)とされる。以来当時の救いを求める老若男女の参拝の対象となった。
 その後、天暦九年(九五五年)空也上人(踊念仏の高僧)が、全国遊行の途中この地に感じ取った著しい霊験を元に六尺余りの厄除地蔵大菩薩像を彫刻安置し、それにより開基(福田山・塩澤寺)され、以降、蘭溪道隆により再興されるなど多少の変化を孕みつつも現在に至っている。

塩澤寺側面

弘法大師の手による坐像は、完全な秘仏であり、公開することは出来ない。ただ、毎年二月十三日の午後十二時から十四日の午後十二時までの間だけ、空也上人による厄除地蔵菩薩像と弘法大師の坐像が一つとなり、その二日間(正味は一日間だが、実質二日間にわたることになる)に限り一般に公開される。
つまりこれが年に一度の厄除地蔵尊祭りなのだ。
厄除地蔵尊がこの日だけは耳を開き、善男善女の願いを聞き入れ、あらゆる厄難から解放してくださる。これが毎年十万人余の人々により埋め尽くされる力となるのだろう。
山門をくぐると、本堂までは山の斜面に従って割りと長い石段になっている。真っ暗で人気(ひとけ)のない石段を上がってみるが、なんせもう六時をまわっている。

側面にある弘法大師像
宿に入る時間が気になり引き返そうとしたら、境内の掃除(おそらく)を終えた寺のお身内の方らしき人がいたので、ちょっと話を聞いてみたくなってしまった。もういい加減早く宿に入った方がいいと思っているのは当然だが、ただ明日になると今度は人でごった返してこう言うタイミングはなくなるのでは?とも思ったのだ。

やはりご住職のお身内の方で、立ち話状態で寒さが増してきているにも拘らずいろいろとお話いただいた。その中で特に面白かった話を一つ。
この塩澤寺には、ある意味本堂が二つあると言ってもいいのだそうだ。確かにかたちとしての本堂には空也上人による厄除地蔵大菩薩尊像がある。ただ一般には公開できずに秘仏として、住職しか知らない場所にしまい込まれている弘法大師による小さな坐像その物も、ある意味このお寺の本堂としての意味を持つ…。
住職のお身内の方はしみじみと語ってくれた。
この二つの?神?が年に一度だけ一つになるのだ。祭りの規模も、地元の人々の思い入れや熱気もうなずけるではないか…。ますます明日に対する期待が高まってきた次第である。
ちなみに、当日は空也上人による坐像の手のひらに弘法大師による秘物がのせられるそうだ。はたして肉眼で確認できるのだろうか?ついでにこれにも期待(?)しよう。
お身内の方にはお礼と同時に「明日もまた参ります」と言い残し、やっとのことで私の足は今宵の宿『ユムラ銀星』に向かい始めた。



          ユムラ銀星

再度中心街へ引返し、宿の案内版で場所を確認する。湯村に着いた時間が遅かったこともあるが、大急ぎでも、とにかく湯村全体を確認したかったので、正直宿の場所まで意識が及んでいなかったのである。
案内版を元に歩いていくと、どんどん温泉街入り口付近に戻っていき?普通の街道?が近づいてきた。そして最初に見た湯村温泉病院の向かいにユムラ銀星は建っていた。

ユムラ銀星
なんだ、よく考えると自分は先程素通りしていたのだ。とりあえずホッと一息。
鉄筋三階建の小ぢんまりした外観。もう五メートルほど先はバス停のある街道が走っているということもあるが、いわゆる温泉旅館というより、街中のビジネス旅館という雰囲気。ウーン‥宿の選択を誤ってしまったか‥。その時の正直な気持ちだった。
到着が遅れてしまい恐縮する中、年配の仲居さん(?)に何事もなかったかのように二階の部屋に通された。部屋の窓から外を眺めると、道を挟んで正面に湯村温泉病院がデンと構えている。
「もう夕食の時間は過ぎてしまっておりますので、お風呂は出来るだけ早く入ってくださいね、三十分後くらいにお食事をお持ちします。」
仲居さんはお茶の用意をしながら優しげにそう言って部屋を出た。言われてみれば確かに、もう時計は七時をとっくにまわっている。なんだか仲居さんに眠っていた疲れを起こされたようで、いっきに身体が重くなってきた。
ザブンと入って飯としよう。あ、しかし湯村の湯はここが初入湯なのだ。やっぱりじっくり浸かりたい。
などと馬鹿思案しながら浴室へと向かう。
一応浴室は男女別にあるが、片方は機能していないようで、ひとつだけが使われている。(寂れた宿でよく見掛けるケースだが‥)三〜四人入れるくらいの小さめの浴室に無色透明のきれいな湯が注がれる。

銀星浴室
下部の湯と似て、アルカリ性の柔らかい湯だ。ただ泉温は四十〜四十二度くらいで幾分熱く、下部のように、二槽に分けて入り分けるような習慣はないようだ。
ただそれ以外に下部と大きく違う点としては、まず湯量がある程度確保されていると言う点が挙げられる。湯村温泉全体で源泉は十二ヵ所あり、その湧出量は一分間に九六六リットルになる。まあ、岩手の須川温泉の六千リットルや、草津の三万六千リットル!ほどではないが、温泉地の規模と照らし合わせると、バブルな施設を造らずに誠実に源泉を配湯するとすれば十分な湯量であろう。

効能表
前号では触れなかったが、実は下部の湯量はこれらの場所に対して非常に少ない。私の常宿の大家は自家源泉なので問題はないが、源泉をきちんと使用している宿は実は限られている。

下部の湯
昨年騒ぎになった一連のまゆつば温泉騒動の中にも含まれてしまった宿が残念ながら幾つかあったのは事実である。
温泉地にとって湯量はその地の命に等しいし、それによってその地の実力や人気が左右されるのは、いさしかたのないことであろう。しかし私は決してそれによって自分のその地に対する評価や愛着が決まることはない。
むしろ湯量が少なくとも、湯量に合ったしかるべき施設で歴史を保っているところにより愛着を感じるし、またリピートしてしまう。
私は別に温泉評論家というわけではないので、偉そうなことは言えないが、逆に実際の湯量を無視して、湯量より?客量?を優先した入浴施設を造ってしまうのが問題なのである。
そういった宿が今となって行過ぎた経営根性のツケを味わっている現状であることは以前にも書いた。
たしかに、一企業として「発展させる」「成長していく」という意味での経営意識は素晴しくかつ重要なことだが、根本たる、また自らに命に等しい湯そのものと、それとは別の問題とも思えるのである。
ユムラ銀星の湯は浴槽自体は小さいが素晴しい湯であった。これでどこもかしこもが、とんでもなく大規模な施設を造ったりしたらまた変わってしまうかもしれない。
ただ、温泉地を維持し、また発展させていくには、「せざるをえない」こともあり得るかもしれないであろう。そしてその辺の突っ込んだ話はこの後、この宿の女将さんからじっくり聞くことになる。

         
          湯村の抱える問題とは

夕食後、部屋でそろそろ焼酎のお湯割りをちびちびやりながら、今日一日を振り返っていたりしている内にもう二三時をまわっていた。
下部温泉の元市長石部さんから得た弘法大師秘説から、今現在の湯村温泉まで、大師に関する秘説・伝説、二つの説を一日の時間の中で吸収した心地よい重さを感じている時間である。(いやいや、湯村はまだ明日が本番だが)
二三時半くらいになったが、やけに隣の部屋がうるさい。よく考えたら、当たり前な話し今日は祭りの前夜である。この日のために全国から様々な人達が訪れてくるのだ。今日あたりどの宿も夜はにぎやかなのであろう。
たださすがに、身体は疲れているが、頭はどうにもまだ冴えている状況である。明日の祭りを前にして盛り上がっているのはしごく当然で、ヒトとして心の中ででも責める気にはなれない。

ユムラ銀星のロビー
そこで飲んでいた焼酎とつまみを持ってなんとなく部屋を出た。ロビーで飲んでやろうという寸法である。
玄関は既に灯りが消えており、帳場の前も寝静まった雰囲気。テレビとテーブル、ソファーのあるロビーだけに明かりが点いている。田舎の旅館に共通した夜のイメージである。当然誰もいない。
しばらく一人で飲んでいると、帳場の灯りが点いて年配の女性がきたので、思わず視線を向けてしまった。なんか一人客がこんなところで飲んでたりするとヘンに思われてしまう(?)と思ったからだ。軽く挨拶し、
「いや〜祭りの前夜で、お隣さんも盛り上がってるみたいで‥」
と、ここにいる言い訳じみたことを言うと、女性は苦笑い混じりで「すみませんね〜、どうぞごゆっくりやってくださいな」

ユムラ銀星の女将さん
私はこのやり取りで「この方は女将さんだな」と直感した。浅香光代女史に似たどこか貫禄というか、存在感を感じる人だ。話がいつの間にか弾んできてきて、やはりこの方が女将さんだと分かるにはあまり時間は掛からなかった。
最初女将さんの方は立ち話状態だったが、話が盛り上がってくるといつの間にかソファーに座っていた。私は今回の趣旨を話し、この温泉地にまつわる様々な話の聞ける絶好のチャンスと思い、弘法倶楽部の前号を渡そうと急いで部屋に戻った。
前号を女将さんにお渡すると、お返しとばかりに、湯村の歴史を綴った分厚い写真集を用意してくれていた。
そして気が付いたら女将さんもまた、湯呑み茶碗の焼酎お湯割りを手に取っていた。

湯村は歴史こそ古く、山梨県では数少ない弘法大師伝説に彩られた温泉地である。ただ、下部や増富のように風光明媚な自然景観があるわけではない。実際私もバス停に降り立った時、「ここが温泉?」(失礼!)と思ったほどだ。
しかも、(ここが大事なのだが)湯治場としての位置付けが非常に中途半端な状況であることは否めない。下部などは前号でも書いたとおりリピートの湯治客に支えられている要素が大きいのだ。
その辺のことを女将さんに聞くと、やはり湯村も以前は湯治温泉としての伝統がもっとしっかりしていたそうだ。たしかにお湯自体は湯量も豊富で、その効能も温泉病院があることに証明されるように非常に高いのは間違いない。
ただ、女将さんが半ば嘆くようにもらしたのは、ここ数十年のあいだの各旅館の跡継ぎに問題があったということである。はっきり言って「何も考えてない」のだそうだ。「それはうちを棚に上げているようにもなりますが‥」とやや自嘲ぎみに話してくれたもの事実だが‥。
この宿の向かい奥に『湯村ホテル』という大きな鉄筋の宿がある。そこの今のご主人は唯一非常に今後の湯村について意識的に取り組んでおり、いわば孤軍奮闘状態だいう。
一例を挙げると、市街地という立地を逆に生かしてビジネス利用のお客さんに同等の料金で温泉旅館の情緒やサービスを提供する。それにより今までにない新しい客層を開拓しているという事である。
なるほどビジネス利用ならリピート利用にも繋がり易い。出張にきた時など、普通のビジネスホテルのユニットバスに浴するではなく情緒ある天然温泉に浸れるのだ。自分だってそっちの方がイイな、と思ってしまう。
湯治文化云々とはちょっとかけ離れているが、素晴らしい目の付け所だといえるではないか。しばし感心してしまった。
湯村ホテルのご主人はその他様々な戦略を実践しているようだが、いかんせんあくまで孤軍奮闘であり、他の旅館の跡継ぎ達は、古い伝統に乗っかっているだけでなにも考えてないのが現状ということである。女将さんの話はまさに悲喜こもごもであった。

千人風呂当時の記録
女将さんが持ってきてくれた写真集を見る。女将さんも多少ホロ酔い状態でいろいろ説明してくれる。
今温泉病院のある場所には、千人風呂という共同浴場があったこと。(病院の建物のてっぺんは六角形のデザインになっているが、それは千人風呂を偲んだものらしい)
ここユムラ銀星は以前は銀星館といい古い歴史があること。(改築時の写真が出ていた、昭和二十年代のものらしい)その他様々である。
写真をみるとこの宿を含めて改めてこの地の歴史の重さを感じる。また、その歴史を継承しながらも、今後の伝統づくりに真摯に取り組んでゆかねばならない。女将さんの話の端々には、その意識の強さゆえ、情念のようなものさえ垣間見えたような気がする。
ロビーの時計を見るともう一時四十分、さすがにお隣さんの前夜祭も終わっているだろう。女将さんに付き合ってもらったお礼を申しあげ、私も明日に向けてやっと就寝することにした。





強引に2回に分け掲載していますので、かなり1回が長くなってしまっております。
次回は、山梨紀行最終回として厄除地蔵尊祭り当日の模様を追います。
2005 11/29 15:19:20 | none | Comment(0)
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