8月15日に続いて16日も埼玉の友人から昔話のメールを貰った、
彼は沖縄戦で父親を失い母の親戚を頼ってこの地に移り住んだと記されていた!!!。
メールがきっかけでしばらく積んどくだけだった資料を読み返しています。
宜野座村誌全七巻、我が集落福山区誌と彼の集落城原区記念誌を仕事の合間をみて読み老人宅を訪ね聞き取りをしています。
城原区公民館横にある碑によると上陸した米軍は宜野座を難民収容所とし投降した住民を送り込んだその数10万人、米軍は難民の秩序を維持するため六つの市を誕生させ警察学校病院市役所などをつくり食料の配給を始めたとあります南部では戦闘がまだつずいてる時にである。
さてその市の事ですが村誌によれば昭和20年3月ごろ誕生して戦闘終了後帰還が始まり20年12月には消滅したとあります。
3万人いた市民が3200人まで減りせっかく市会議員に立候補し当選したのに数ヶ月で市が消滅してしまったとか!!!
その頃ひどい食料不足だった 親戚を頼って来た友人のお母さんもご苦労なさったでしょうね。
私のところは地元民ですから家も田畑あり豊かな方でしたが親戚が避難してて事情は同じようなものでした。