あまり知られていない長野県の南信州、木曽南部のご紹介をします。

2008年 01月 23日 の記事 (1件)


昨日は風邪でお休みしましたが、8時頃母から電話があリ、大丈夫かとのこと。ブログを5個コピーで作ってもらったり、読者増加対策の実施をお願いしてから、毎日10時頃まで寝ていたのが、7時半には目を覚まし、張り切ってやってくれていますので、私は昨日の場合は具合が悪くて7時半に目が覚め慌てて数行のエントリーを作り投稿しておいたのですがこの仕事のお蔭で、お互いに相手の様子が分かり安心です。
もし母の具合いが悪くてコピーできない時は10時ころ私が確認した時更新できていなければ何かあったとわかりますので、数日母の異常に気がつかずにいると言うことは無いわけです。

さて南信州の問題ですが、問題を解決できるのは、人間であると言うことは確かであると思います。誰が大将であり、大将を取り巻く人達の資質がいかなるものであるかが重要と言うことでは誰しも違を唱えることは無いであろうと思います。今回南信州の中心都市である飯田市については、非常に心配だと言うことを書きましたが、これらが私の書いた様な状況である場合、選挙によって大将である飯田市長を替えたとしても、実行部隊の質が変わらない限り変わることは無いと思います。

二つやれる方法が考えられます。一つは長野県の田中康夫前知事の様に、強烈な個性を持った市長が現れれば、地元財界の妨害は予想されるものの、それを上回る市民の支持があれば変わっていくことは可能かなとも思います。

田中康夫さんのような人の場合は、官僚であった岡部さんの百条委員会での偽証でも明らかなように、勝つためには何でもやるという妨害があるので、簡単なことではありません。

そうなりますと、大将も期待できない、対象を取り巻く人たちも既存勢力の人たちと仲良しクラブ。

こんな状況では、熾烈なグローバルな経済戦争を戦っている企業誘致など相手にしてもらえないのではないかと思います。

もう一つは、下条村の村長に飯田に引っ越してもらって、市長選に出ていただく。これが可能なら、地元財界との問題も田中さんとの問題より上手く行くのではないかと思います。下條村の村長の場合、飯田下伊那の人がどのような思考パターンをするか十分理解しており、その上で政策立案、実行に移していくので軋轢が少し弱まると思うのです。

私がこの飯田に来て、いろいろ知りましたのは、ともかく事を荒立てないで、みんなで仲良くやろう、親分には盾突かないで、親分は子分の世話を良く見ると言う傾向が、上伊那より強いのではないかと思ったことです。上伊那でもこうした傾向はありますが。

このことを荒立てないと言うことでは、私が下伊那の各地をジョギングで走り回っていた頃、ちょろちょろと流れている小川の向うに走っていけば何かありますかとお聞きしても、生まれてこの方、この川よりっ集落の違う向うに行ったことはないとか、

同じ谷の中なのだが、以前は違う村で、行政の方針で一つの地域にはなったが、古来から向うの人たちは山の向うの人たちと婚姻から何からやっていて、40代後半と見られる人だったのですが、俺も向うに行った事はないと言うのです。

どうしてこうなるかと言いますと、隣村の人間が入ってきますと何か情報収集をしているのではないかと疑われると言うわけです。

飯田ばかりでなく、大鹿村を車で走っている時には、都会から宿泊施設を作って移り住んだと言う女将さんから、戦後50数年が経つと言うのに信じられないといって、この地域のお爺さんは、この集落から出た事がないと言うので、車で連れて歩いたと言うのです。

大鹿村は二つの村が合併してできた村だとのことですが、大鹿歌舞伎は有名で、ここの小学校で静岡方面から歌舞伎の人達が来て合同で歌舞伎が行われ行ってきたのですが、この時、近くにいたお爺さんに、素晴らしい企画ですねとお話したところ、まあ合併してから、何十年か経ってようやく二つの村が、一緒にできるようになった。最初はそれこそ大変だったとのお話でした。私は十数回大鹿村に取材で出かけたのですが、ほんとうに和気藹々とした外部から来た人たちも気持ちよく受け入れてたいした村だなと感心していたのですが、歴史の重みは簡単になじむものではないと思いました。

また、南信州の、静岡県境に行きますと、またまた大変です。
この地域は、南北朝の時代からの地域で、南朝の人達が、戦いに敗れてこの地に移り住んだようで、したがって各村々の祖先は、由緒正しい系図を持っていたことと思います。天龍村誌、阿南町誌、阿智村と合併した浪合村村誌等々を見ますとそのへんの事を読むことができます。神社の飾られた紋を見ますと正当天皇家の16紋の菊の紋章があったりします。

それだけに、プライドは高いものがありまして、合併しても、集落によって祖先が違いますから、なかなか皆さんしっくりこないのだと思います。町の商工会の人に、この町の観光資料は無いのでしょうかとお聞きしたのですがその時は特に無いといって、当町は4つだかの村合併したので観光は各旧村々で行っているとのことでした。

あれから数年、最近では商工会様の努力もあって、いくつかの町村合同のチラシや、行事を行うようになってきたようです。

それほど、山奥のなかなか厄介な人の問題、歴史的風土、このブログをお読みいただいている多分多くの皆様には理解できないと思われることが多々あり、こういう中でこの南信州を元気にするにはどうすれば良いかを考えなければならないわけです。

十分すぎるほど地元の状況を心得た上で、革新的な政策をとらねばならず、実際大変だと思います。でも誰かがやってくれないと、飯田下伊那葉沈んでいく一方だと言うことも目に見えています。
2008 01/23 08:07:33 | none | Comment(0)
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