御供の街並みを見て戻ってきて、南宮大橋と逆の方向に上って行きますと、右側に県営阿南病院の大きな駐車場があります。この駐車場に立ち北側を見上げますと、「御供観音」と言う看板が見えます。大きな岩をくりぬいていろいろな石碑が作られていて、これは見なければと登って見たのですが、たくさんありすぎて、その頃まだ一眼レフを持っていなかったので広角で全部の観音様を写す事ができなかったのですが、雰囲気だけでも感じてもらえればと今日ご紹介します。
天龍峡の奇岩にもたくさんの文字が刻まれていますが、藤ヅルで作った篭に乗り作業したとのことで、昔の石屋さんは度胸がよかったのですね。ここの観音様を作るときどのようにして作ったのかは分かりませんが、岩をくり貫き文字を彫ったものと思いますから大変だった事には変わりはありません。
念仏を唱えて、ここからほぼ水平に伸びている道を通り小さな集落に行ってみたところ、偶然近くにいたご老人からお話を聞くことができ、お聞きしたところでは、前は別の所にあって移動したそうです。その時どうも若い人達が期待したほど力を貸してくれなかったようで、そのことが不満であったようです。
私達にしてもそうですが、忙しい中、たまの休日に人足として特に日ごろ信仰していない仏様や観音様の移動などに駆り出されたらあまりいい気にはなれないと思います。
最近のテレビで昔の有名な学者が、この世に神や仏はいないと言うことを確信した話をしていましたが、神社仏閣がこの世で本当に私達を救ってくれると言うことをとことん信じている人は極めて少ないと思いますが、私が神社に行ったら自然に二拝二拍手一拝をしたり、観音様に出会えば手を合わせ念仏を唱えると言うこの感情は、理屈ではないため強制的に抑えるとか、強制的にさせるといった性質のものではないと思うのですが、こういった感情の世界も無視することなく現実の中で調和させてやっていかないと上手く世の中が回らないと言うことも事実ですので難しいですね。
でも国家神道、国立戒壇などに結びつきますと危険極まりありませんので、ずるずるとこういった世界に引き込まれないように注意している必要があるなと感じたところです。
今のところ、国家や軍隊、憲兵隊によって私たちが引きずりまわされると言うことは防止できていますので、そういう世界がまた来ますと、何か理屈でなく信心によって不安を麻痺させたいと言う気になってくるかもしれません。