あまり知られていない長野県の南信州、木曽南部のご紹介をします。
tyoukeitennou.jpg伝説との話ですが、飯田建設事務所が発注した看板でありますので、全くの作り話ではないと思いご紹介します。
昨日の地図10番から北上し草木トンネルを抜け、表越峠を越え下ってきますと、左側に「大野田神社の由来」と言う飯田建設事務所が発注し文面は此田自治会が作った看板が見られます。この看板によりますと、第98代長慶天皇が退位後この地に来て住んでいたことがあるということです。系譜図を見ますと、後醍醐天皇(宗良親王の父)−後村上天皇(宗良親王の兄弟)−長慶天皇(後村上天皇の子供)となっていますので、大鹿村にいた宗良親王の甥っ子と言う関係になりますがこの点は書いてありませんでした。この時代は南北朝時代で南朝の天皇たちは大変だったようです。伝説ですが、叔父さんが近くにいたわけですから頼りにしてここに一時住んでいたとしても不思議は無いわけです。敷地面積も1千坪と言うことですから大きなものです。また、最近ご紹介した尹良親王とは実在すれば従兄弟関係になりますし、水窪町、南信濃、大鹿村は南北朝時代の歴史の宝庫といえるかもしれません。それにこれからご紹介する予定の園原の里には万葉集、古今和歌集、凌雲集その他たくさんの歌が残されています。ぜひ歴史に興味をお持ちの方はパンフレットを片手に水窪町、南信濃、大鹿村、園原等々をお回りください。

なお、先の元浪合村教育長のお話によりますと、明治時代に天皇家の正統は、南朝であったことが認められたと言う事でした。まあ私達には関係の無いことですが、そういった天皇家をめぐるいざこざが、この山奥にまで影響し数々の文化が伝わってきたことは確かそうなのでそれを享受できている事はありがたいと思います。
2006 10/06 07:54:16 | none | Comment(0)
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