思索に耽る苦行の軌跡
 再び思考の小さな小さなカルマン渦が五蘊場に点ったのであった。



――他がなければ吾もなし……。



――すると他とは何ぞや。



――吾でないもの……。



――吾でないと何が判断してゐるのか? それは吾か? 



――免疫の段階ですらも非自己なる判断を吾はしてゐるが、吾はその総体としての吾……なのであらうか? 



――免疫か……。免疫制御機構に異常があると自己に対しても免疫は発動し自己を攻撃する……。



――それって自虐のことか? 



――自己が自己に対して攻撃し、破壊するといふ皮肉。



――それって皮肉か。自己が絶えず行ってゐる行為じゃないかい? 自己憎悪なぞ当り前のことじゃないのかい? 



――するとお前は免疫制御が吾の何たるかの淵源だといふのか。



――吾の一つの発動の仕方だ。『奴は敵だ! 敵を殺せ! 自己を防御せよ!』これがいつも自己のお題目じゃないのかい? 



――免疫によれば他はいつも攻撃する対象だが、しかし、自己は他なくしては生きられない。



――他を喰らはずしては一時も生存出来ない。



――それに水無くしてはな。



――そもそも水が受け入れないものは生物としての組成成分としてはあり得ないのじゃないのかい? 



――するとお前は水が吾の淵源だと? 



――それはどうか解からないが、しかし、一つの考え方ではある。



――けっ、水が諸悪の根源か! 生物が存在してゐるのは水の気まぐれか? 



――うむ。多分、水の気まぐれだらう……。



――初めに水ありきか……。



――初めに水ありきだ。



――水もまた思考する。



――水思ふ、故に吾あり……か……。



――けっ! 



 瞼を彼はゆっくりと再び閉ぢたのであった。見えるは瞼裡の闇ばかりであった。すると突然頭蓋内の闇に



――単細胞



といふ言葉が浮かんだのである。



――単細胞生物は現在も立派に現存する。



――多様性の問題か……。



――うむ。単細胞生物から人間まで現存する生物の多様性……。



――すると生物の進化とは何ぞや。



――へっ、人間は、さて、進化の頂点に君臨するのか? 



――そんな馬鹿な! 



――現存する様々な種は現存するそのことだけでも進化の最先端にゐるぜ。



――お前は単細胞生物から多細胞生物へ、そして最終的には人間まで進化してきたといふ進化論の見方を否定するつもりか? 



――いや、さうじゃない。確かに人間への進化はその様な過程を辿って来たのだらうが、しかし、単細胞生物が今も厳然と現存する事実をお前はどう思ふ? 



――多分、多細胞生物が絶滅してもまた単細胞生物から出直せる余地が今も残ってゐるといふことかな。



――さうさ。生物の多様性といっても、どの種もいつも絶滅といふ危機に曝されてゐる。生息環境の激変に順応出来なければその種は絶滅する。しかしだ、単細胞生物が現存してゐることを考へると、生物は絶えず新たな種の誕生を準備してゐるのじゃないか? 



――しかし、一度絶滅してしまった種は二度と此の世に現はれることはない! 



――だが、新種が生まれる余地はいつも残されてゐる。更に言へば、進化の最先端にある現存する全生物は、全て未完成だ。何故なら激変する生息環境に適応する余地を残してゐなければならないからだ。例へば生物に変容する余地が残されてゐないとすると、それは全生物が唯絶滅を待つ老成した完成品ばかりの世界と言へる。ちぇっ、そんな世界は全剿滅を待つだけのぞっとする下らない世界さ。



――すると、お前は生物といふ存在は未完成でなければならないといふのか! へっ、存在の懊悩は底無しだな。



――存在の懊悩? 



――さうさ。完成品でない存在は絶えず変容することを強要される。すると、必ず自己とは何だとその懊悩は始まるもんだぜ。



――我執……。存在は何としても己が己でないと我慢がならぬ存在だ。しかし、また己が己であることに我慢がならぬ誠に誠に身勝手極まりない存在でもある。その己はといふと絶えず別の何かへの変容を恋ひ焦がれ渇望して已まない存在だ。何とも始末が悪いが、しかし、さうじゃないと一時も生きてゐられぬものだ。



――へっ、それはまやかしさ。存在は己が己であることに安住したがってゐるだけのことさ。己が全的に己であれば存在はそれで大満足だよ。



――さうだとすると、後は絶滅を待つだけだな、へっ。



――この宇宙は、さて、悪意に満ちてゐる……。お前には聞こえないのか? 存在どものうめき声が! 存在はそれが何であれ吾何ものぞと自問自答を徹底的に繰り返さざるを得ないぎりぎりのところで存在してゐるものさ。



――ぎりぎりのところ? 



――さうさ。ぎりぎりのところさ。存在は絶えず死滅に曝されてゐる。これってぎりぎりのところじゃないか! 



――死の恐怖か……。



 すると彼の視界の端から一つの星のやうな小さな小さな光点がゆらゆらと彼の視界を横切ったのであった。



(三の篇終はり)


2008 10/20 03:40:31 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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