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印刷技術を始め様々な科学技術を応用した発明がなければ「知識」は未だに特権階級の独占状態にあった筈であるが、幸か不幸か「知識」は人類共有のものへと世俗化したのである。しかし、現代は人間を魔人「多頭体一耳目」へと変態させてしまったのである。
印刷技術の発達のお蔭で書物が誰でも手にすることが出来るものへ、画家や写真家のお蔭で或る絵画や写真の情景が見る人誰もが共有出来るものへ、Recordの発明のお蔭でで誰もが音楽を共有出来るものへ、そして、映画や団欒のTelevisionのお蔭で誰もが同じ映像を共有出来る時代になったが、さて、ここからが問題である。個室で独りTelevisionやVideo等を見る段階になると人間は魔人「多頭体一耳目」に変態するのである。
――奴とこ奴の記憶すら交換可能な時代の到来か……
つまり、現在「個人」と呼ぶものは既に頭蓋内すら他者と交換可能な、言ひ換えると仮に人類が個室で全員同じ画像を見てゐるとすると将来生まれて来るであらう人類の為には極端なことを言へばたった独り生き残っていれば、否、誰も生き残らなくとも映像さへ残れば良いのである。
――こいつとあいつは頭蓋内の記憶すら交換可能な、つまり、こいつが居ればあいつは無用といふあいつの悲哀……
さて、そろそろ魔人「多頭体一耳目」の正体が解ってきたと思ふが、つまり、魔人「多頭体一耳目」は個室で独りTelevisionやVideo等を見てゐる人間のことなのである。
――俺の存在とは誰かと交換可能な……つまり……俺がこの世に存在する意義は全く無い……
映画館や団欒等、他者と一緒に同じ映像を見てゐるならばは傍に「超越者」たる「他者」が厳然と存在するので魔人「多頭体一耳目」は出現しない。
魔人「多頭体一耳目」を戯画風に描くと一対の耳目を蝸牛の目のやうに一対の耳目をTelevisionやVideo等が映す映像の場所ににょきっと伸ばし、その映像を見てゐる人数分、一対の耳目から枝分かれした管状の器官で頭と肉体が繋がってゐる奇怪な生物が描き出されるのであるが、オタクには失礼かも知れないがオタクこそ魔人「多頭体一耳目」の典型なのである。
さうなると主体が生き延びるには「感性」しかないのであるが、「感性」といっても如何せん頭蓋内の記憶すら同じなので、哀しい哉、「感性」もまた「同じ」やうなものばかりしか育めないのである。
――主体とはこの時代幻想に過ぎないのか……
人間を魔人「多頭体一耳目」に変態させたくなければ同じ映像を見るにしても必ず他者と一緒に見なければそいつは既に魔人「多頭体一耳目」に変態してしまってゐる。
――さう云へば私は最早Televisionを見なくなって久しいが……本能的に魔人『多頭体一耳目』になることを察知してTelevisionを見なくなったのかもしれないな……
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