第三段
今(12/1)から,先日の日記を書きます。

27日のTutti、私は、好きでした。
26日のじぼうじきをひきずったまま突入いたしましたが、変わったことと言えば、自分らの音楽をしたい。それ一心でございました。周りを聴いていなかったといえばそうであります。あくまで受身ではなく能動的に音楽した気がします。それはいつもの庭園のように自分が表現したいことをそのままやる、まとめる作業は人に委ねるという、責任を放棄したやり方です。今まではそれでよかった。今回は違う。今回で最後なのです。しかもまとめなければならない。アル意味、自分のやりたいことよりも周りの音を聴いている感じだった。自分のことに集中しきれてなかった。

でも自分が表現したいことをやるのって自己陶酔でしかないのだろか?自己満足というのだろうか?ある人が言った、音我苦というものをやる上で相手がどうとるかを気にしなければ相手に伝わらないと。
音には自分の意志を反映させなければいけないと思う。だから、どう表現したいかは表していいと思う。それで自分も満足するのである。
そこからはどうしたらいいのか浮ばない。そこから先の相手に届くようにするようにしなけらば届かない。という解釈、そこまで行けば相手は受け取ってくれるだろう。という解釈、そこまで到達すれば相手に届くのものにはなっている。という解釈。

なんだか観念的になってしまった。

とにかく、良かった点、今まで言っていたことが直っていた点がいくつか見つかったし、繋ぎの部分とか、周りの音を聴いて反応するってことが自分も周りもできてた気がするし。いつまでも悲観的でいることは疲れる。
とにかく、うちオゲは先生がキチガイな方が萌える気がする。先生がお上品なほど、どうしていいか分からないお見合いになる。先生が正常な人間が描いたとは思えないといってたこの曲を、先生自身ができるだけ本能のままに振舞う獣のように振ってくれると、それを感知して情で演奏するのが僕らだ。リクツ抜きに音楽なんて情や感性なんじゃないか。
頭脳じゃなく心で演ってそれが伝わったらいいけど、そうすると自己万の世界になる…ソレハワカリマス。
2005 11/28 02:10:35 | oche | Comment(0)
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