あまり知られていない長野県の南信州、木曽南部のご紹介をします。
先日ご紹介した、オートメレビュー社の白岩禮三氏の話の中に、日本軍はロシアとの対戦後、勝って兜の緒をしめなかったと書いていましたが、天竜峡でも同じようなお話をお聞きしました。

あるお店のご主人からでしたが、天下の名勝天竜峡と言う名にすっかり酔いしれて、黙っていても多くのお客様が来てくれると思い込んでいたのが失敗の元だったと言うのです。

丁度その頃私達家族はオイルショックが原因で、東京から引っ越してきたのですが、その頃の天竜峡は賑やかく、夜の宴会のあとは2次会でスナックなどを回り歩いたものでした。オイルショックのすぐ後でしたが、会社の研修では地元のホテルで何日か泊り込みの合宿、部をあげての合宿では、人数が多いので研修用施設を持った宿舎の利用。

普通の人でしたら、この賑やかさはいつまでも続くと思ってしまっても当たり前だと思います。私のような凡人は、多少の昇り降りはあるものの天地がこのまま登り続けるのではないかと思ったほどです。これで定年まで勤め続けて、末はのんびり余生を過ごすかなどと思っていました。

その後も上がり下がりはあったものの、生活が脅かされるような景気変動もなく数年がすぎたのですが、景気の厳しい時、常務に、こういう時対応してくれるのが経営者じゃないですかと言ったところ、総理大臣にだって分からないことが、どうして我々クラスの人間に分かる訳がないじゃないかと言われ、何となく納得してしまったことを思い出します。

天竜峡の一商店のご主人を責めても始まりませんが、先を読める指導者がこの飯田市や天竜峡にもいなかったと言うことです。

2008 01/16 13:58:16 | none | Comment(0)
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