超大型で非常に勢力の強い台風が日本列島に近づいていた。 ニュースが流す気象予想図を見て男はほくそ笑んだ。 はるか南方の太平洋上で発生したそれは、日本に近づきながらどんどん勢力を増していた。現在、910hpaで、中心付近では50mの風が吹いているらしい。 「このままくれば、関西と中京、直撃だな。」 テレビ画面を見つめながら男はつぶやいた。 「何人死ぬかな・・・」 男の目に光はない。よどみかけた哀しい目。 「みーんな、死んじまえ!!」 今、男はありったけの憎しみの念を近づきつつある台風に向かってぶつけようとしている。
男は、この夏、10年余り続けてきた商売を廃業した。 無職となり、すべきことも見つからず、もんもんとした日々を送っている。 齢、五十を数えた男を雇い入れてくれるような所はなく、生活にも窮している。自分に何かできることはと考えて、コールセンターのアルバイトを探した。応募の申し出をしてもことごとく断られた。 商いで稼いだ幾ばくかの貯金も、取引先への支払いと負債の返済で消えた。 様々な弊害で自己破産すらかなわなかった。 月額にして90000円ほどの障害年金を受給しているので、そう簡単に生活保護の相談にも行くことができない。 数年前に死去した父親が残した生家は残っているので当面、住む場所には困らないが、いずれ、固定資産税の支払いにさえ窮するのは明白である。不動産を売却しようにも、家の周りは売家と空き地だらけの限界集落のような場所柄、そう簡単ではない。たぶん、家屋解体と整地の費用が売却額を上回るのではないだろうか。
数週間前、西日本各地に線状降水帯がもたらした異常気象で、大きな町が水没するような災害が発生し、数百名の方が亡くなるといういたましい事件があった。 男はこの出来事を目にした時、俺の街がこうなればいいのに…、と思った。 「みんな死んじまえばいいんだ。俺もそうやって死にたいよ!!」本心からこう叫んだのである。 そして、洪水被害にあえぐ人々を見て、底知れぬ快感を覚えたのである。
ここまで読んでくれたあなたは、たぶん、底知れぬ怒りをこの男に覚えたであろう。 それは正常な感覚である。 しかし、この男のこうした葛藤や感覚もまた、人の感性としては正常なのだ。
怒りは狂気にさえ変わる。しかしある環境に置かれれば、その怒りが快感に変わり昇華されるものなのかもしれない。
この男、42歳の時に半身まひになった。高血圧が起因する脳出血の後遺症だった。 病院では開頭手術を受け、3か月もの間ICU(集中治療室)で死線をさまよった。黄泉の国の入り口さえ、その時見てきたらしい。 右手が全く動かず、歩行も困難だったが、懸命のリハビリで2足での歩行は右足を引きづりながらだが、何とかできるようになる。 左手はほぼ不自由なく動いたので、箸を持つ手を左に変え、文字も何とか書ける、パソコンは左手だけでキーを操れるようにもなった。 見えない力に生かされたことに気付いた男は果敢に様々なことに挑戦した。 自分には、生きて何かを成し遂げなければならない使命がある、それに向かって努力しようと・・・。
そして10年以上の努力を重ねてきた。その間には、東北の大震災や熊本の大地震もあった。 体が不自由なので、作業ボランティアなどには応募できない、その分、なけなしの金銭で被災者を応援したりもした。 神仏に災害や戦争のない平和な国土を問い、祈りをささげても来た。男は十分すぎるほどに善良な一市民として生きてきたのだ。
その男をある日、思いもかけなかった災難が襲った。 突如、脳疾患再発が彼を襲ったのである。 脳血管障害の再発は、場合によっては、死や再起不能をもたらす危険性がよほど高い。 前回の脳出血は、左脳で起きた。なので、右マヒとなった。 救急車で脳外科へ運ばれた男に告げられたのは、全身まひをももたらしかねない右脳での脳梗塞だったのである。
幸いにも今回は、軽い症状で済んだ。体に麻痺は残らなかった。 だが、医師の、「無理するとまた、再発する。」という忠告とそれへの不安が男のすべてを変えてしまったのである。
男は、仕事のため、早朝4時ころには起床し、パソコンに向かう生活が続いていた。 しかし、今回の発症後は、疲れやすくなってしまい、ときどき、発作にも似た気が遠くなるような感覚を覚えるようになっていた。仕事上での記憶違いなどによるミスも多く、お客様にご迷惑をおかけするということも増えた。 これ以上は、事業を続けられない、と判断させるのに、そう時間はかからなかった。 男は事業を廃止した。 何も残らなかった。およそ10年間続けた努力は無力に変わった。 商売をたたむにも、事業を開始するとき以上のエネルギーがいるが、協力や手伝いをしてくれる友人も利害関係者もなかった。みんな、去ってしまったのである。
文字通り一人きりになってしまった男は苦悩する。 ウツになりかけていることに気付き、それに気づいているうちは、自分は大丈夫だと自分自身に言い聞かせる毎日が続いている。そして慢性的な不眠症状態。日が暮れると眠くなり、眠りに落ちても2時間くらいで目が覚めて、そのあとは朝まで覚醒状態が続く。日が昇ると暑くて寝られない。病院からの処方薬のおかげで、のどが渇く、尿の量が多い。排尿すら煩わしい。 そんな不快なひきこもり生活が、社会全体への怒りとなって感情をむき出しにするのだ。その怒りは哀しみにも似ている。あきらめの観念と、こんなもので終わってたまるか、というような男が持つ本来の感性が音を立ててぶつかり合う。そして、哀しみのほうが勝ってしまった時、男の狂気が出現するのだ。
この男の存在を知って、異常性を感じているあなた様、これはたった一片の現象に過ぎません。こうした現象は、この国中に蔓延っています。自分自身がそうならないよう、起こりうるすべての異常な事象による犠牲者にならぬよう、心より望みます。
巨大で非常に強い台風が日本列島に近づいています・・・。
どうかお気を付けください。
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