ぶはは≧∇≦ブハハハハハ
 70年代から80年代にかけて、津軽海峡上空を飛ぶ海上自衛隊の大型ヘリコプターの姿があった。対潜哨戒ヘリ「HSS-2型」がそれである。オラが高校生となった夏、自衛隊地方連絡部の主宰で、そのヘリの体験搭乗が行われた。珍しさにも誘われ、参加したオラだったが、その精悍さやパイロットの凛々しさにすっかり虜のなってしまい、自分自身の進路をそのヘリにダブらせた。海自パイロットへの登竜門である、航空学生を目指したのだが、視力検査でひっかかりあえなくアウト。そんなほろ苦い思い出がある機体でもあった。
 あれから30年、すでに全機材が退役し、新型ヘリに置き換えられているものと思っていたのだが、そのHSS-2型ヘリが、ある場所で現役で飛行を続けていたというニュース。ただし、今季限りで引退するらしい。それが、南極観測支援船「しらせ」搭載の輸送ヘリ部隊と知り、なお、感慨深いものを感じた。4月には基地の千葉・館山へ帰隊するというから、観覧にでも出かけようか。



「しらせ」老兵ヘリ 14日、最後の南極へ
2007年11月11日
 南極観測の資材や食糧、燃料輸送などに長年活躍してきたヘリ2機が母艦の南極観測船「しらせ」とともに最後の任務として14日、東京・晴海ふ頭を出発する。館山市にある母基地の海上自衛隊館山航空基地に戻ってくるのは5カ月後。地元では「老兵」たちの引退の花道を飾るセレモニーも計画されている。(福島五夫)
 2機は、しらせ飛行隊所属の8186、7号機(86、87号機)で、名機の誉れ高い前世代回転翼哨戒機HSS―2Bから対潜水艦探知、攻撃用の機器を取り外して南極使用に改造した。今回は予備機として母基地に残る8185号機(85号機)も同型。南極行きは86号機が連続8回、87号機が同7回目。85号機は90年(31次)から連続11回活躍した。
 南極観測支援ヘリで、HSS―2タイプは7機。65年(7次)、当時の南極観測船「ふじ」に搭載されたのが最初だ。
 海上自衛隊南極観測支援班の古庄正彦さん(45)は前回(06年、48次)、飛行長として「しらせ」と昭和基地の間のヘリ輸送を指揮するなど4回の勤務をこなした。
 印象深かったのは93年(35次)。「しらせ」は厚い氷に阻まれ、昭和基地まで18キロの地点で立ち往生した。通常は接岸すると、昭和基地の燃料タンク施設とパイプラインで結び、越冬などで使われる大量の燃料を送り込むが、この時は、ほぼ全量をヘリで輸送した。「しらせ」の甲板で燃料をドラム缶に詰めて運んだが、足りずに昭和基地にあった、使い古しの空のドラム缶も使った。

 「ひどくさびついていたので、粉末状になったさびが機内に充満し、マスクをつけて操縦した」と懐かしむ。

 服部挙作さん(74)は3回、飛行長を務めた。いずれも「ふじ」の時代。72年(14次)に、研究者たちを観測地点に降ろそうとした際、ホバリングで吹き飛んだ雪の下から大きなクレバス(氷の割れ目)が現れて冷や汗をかいたこともある、という。
 元海上幕僚長の藤田幸生さん(65)は操縦士としての現役時代のほとんどをHSS―2タイプとともに過ごした。

 「このタイプは世界各国で採用された名機。様々な派生機種が生まれた。海上自衛隊では哨戒機だけでなく、南極観測支援用など輸送機にも使われ、どれも基本仕様が同じなので、操縦士や整備士にとってはありがたい存在だった」という。

 このタイプの最後の生き残りが85〜87号機。服部さんと藤田さんが退職後のついのすみかに館山市を選んだ理由の一つは、この「老兵」の雄姿を好きなだけ眺められるからだ、という。

 一般市民のファンも多い。同市で中華料理店を営み、「ラーメン歌人」としても知られる粕谷征三さん(64)は「南極と館山を結び、南極観測を身近に感じさせてくれたヘリが見られなくなるのは寂しい」という。

 海上自衛隊館山航空基地を拠点にしている第21航空群の高橋忠義司令は「2機が来年4月に帰ってきたら、盛大に迎えてやりたい。市民に参加してもらえるようなセレモニーも考えている」と話している。 (朝日新聞サイト)
2007 11/13 05:47:16 | よもやま | Comment(0)
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