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高田渡も歌ってゐる黒田三郎の詩『夕暮れ』の第一連から
夕暮れの町で
ボクは見る
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを
……は何とも私の胸奥に響く一節である。特に
自分の場所から はみだしてしまった
多くのひとびとを
……の一節は見事である。
ところが
――自分の場所とは一体何処だ?
といふ愚問を発する私の内部の声がその呟きを已めないのである。
今ゐる自分の場所は日本国内では、地球上では、太陽系内では、天の川銀河内では、更に何億年か何十憶年か、もしくは何百億年か後に天の川銀河と衝突すると予測されてゐるアンドロメダ銀河との関係性から全て自分の場所、もしくは自分の位置は言葉で指定できるが、さて、宇宙に仮に中心があるとして我々が棲息する天の川銀河は宇宙全体の何処に位置するのかとなると最早言葉では表現出来ずお手上げ状態である。
現代物理学ではこの宇宙は「閉ぢて」ゐると考へられてゐるのでこの宇宙の中心は多分何処かにある筈に違ひないと考へられなくもないが、しかし、宇宙全体の形状すら未だ不確かな状態ではこの宇宙に中心があるのかどうか不明である。仮令この宇宙に中心があったとして、さて、我々が棲息する天の川銀河はこの宇宙の何処に位置するのであらうか……
さて、『水鏡』で宇宙の涯についての妄想を書き連ねたが、仮にこの宇宙が『水鏡』の「林檎宇宙」であるならばこの宇宙の存在物は全て「林檎宇宙」の表皮に存在するといふやうに考へられなくもないのでこの宇宙の存在物全ては宇宙の周縁に存在する、つまりこの宇宙の存在物全ては宇宙の涯と接してゐるといふことになる。私の外部は宇宙外と接した何処かといふことになる。
――吾の隣は既に宇宙外……、はっはっ。
そこでまた『水鏡』の妄想から宇宙の涯が鏡――古代の人々は矢張り素晴らしい。鏡を神器と看做してゐたのだから――であるならば、私が鏡を見る行為は宇宙の涯を見てゐる擬似行為なのかもしれないのだ。鏡を見て自己認識する人間といふ生き物は、もしかすると宇宙の涯との相対的な関係性から自己の位置を認識したいのかもしれないのである。
――さて、吾は何処に存在するのか……
ここで石原吉郎の代表作の一つであり傑作の一つでもある『位置』といふ詩のその凄みが露になる。
――吾は吾の『位置』を言葉で表現し得るのか……
石原吉郎の第一詩集である『サンチョ・パンサの帰郷』(思潮社、1963年)の最初の詩は、『位置』である。
位 置
しずかな肩には 声だけがならぶのでない 声よりも近く 敵がならぶのだ 勇敢な男たちが目指す位置は その右でも おそらく そのひだりでもない 無防備の空がついに撓(たわ)み 正午の弓となる位置で 君は呼吸し かつ挨拶せよ 君の位置からの それが 最もすぐれた姿勢である (『石原吉郎全集?』花神社、1979年、5ページ)
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