隧道(Tunnel)は閉所恐怖症の為かどうも苦手であるが、或る日、壮観な大瀑布が見たくなって或る滝を見に出掛けたのであった。
時空間が円筒形に巻き上げられ《現在》の中のみに身を曝し唯唯隧道の出口に向かって進むのみの或る種《一次元》世界に閉ぢ込められたやうなその隧道の入口に立つと、さて、これは産道を潜り抜けて此の世に《生》を授けられたその瞬間の遠い遠い記憶を呼び起こすのか、または茅の輪くぐりの如く厄を祓ひ《新生》する儀式にも似た《生まれ変はり》を無理強ひするのか、或る種の異界への入口のやうな暗い隧道に対して或る種の恐怖心が不思議に沸き起こって来るのである。
それは《現在》のみに身を曝すことが即ち《不安》若しくは《猜疑心》を掻き立てるといふ事でもあった。
ええい、儘よ、と、私はその隧道の中へ歩を進めた。
隧道に溢れ出た地下水が岩盤が剥き出しのままのその隧道の壁面を伝って流れ落ちる様を見るにつけ、矢張り隧道の中は気味が悪い、が、しかし、《現在》とはそもそも気味が悪いものである。ほんの百メートル程しかないその隧道の明るい出口からは水が流れるせせらぎの音が聞こえて来るのを唯一の頼りに私は足早にその隧道を通り抜けたのであった。
――ふ〜う。
眼前には別世界が拡がってゐた。其処は渓谷の断崖絶壁の上に築かれた細い道で渓谷の底には清澄極まりない美しい水が渓流となって流れてをり、彼方からは滝壺に崩落する水の音が幽かに聞こえて来た。
くねくねと曲がったその細い道を歩き続けて行くと忽然と一条の垂直に水が流れ落ちる滝が視界に出現する。それはそれは絶景である。
さて、滝壺のすぐ傍らまで来ると滝壺に叩き付けられ捲き上がった水飛沫が虹を作り、さて、百メートル程の落差があるその大瀑布たる滝を見上げると、私はたちどころに奇妙な感覚に捉はれるのだ。普段は水平に流れる川の流ればかり見てゐる所為か巨大な垂直に流れ落ちる水の流れに愕然とし、その感覚は或る種の《敗北感》に通じるものである。それはドストエフスキイ著「白痴」の主人公、ムイシュキン公爵が病気療養で滞在してゐたスイスの山で見た滝に対した時の感覚にも似てゐるのかもしれない。
其の感覚は言ふなれば無気味な《自然》に無理矢理鷲掴みにされ何の抵抗も出来ぬ儘唯唯《自然》の思ふが儘に弄られた羸弱なる人間の限界を突き付けられ、唯唯茫然と《自然》に対峙する外無い無力な自身を味はひ尽くさねばならない茫然自失の時間である。
――他力本願。
といふ言葉が巨大な滝を見上げながら不意に私の口から零れ出たのであった……。
――この自然を文明に利用出来、支配出来ると考へた人類は馬鹿者である。
私の眼には絶壁を自由落下する水の垂直の流れがSlow motionの映像を見るが如くゆっくりとゆっくりと水が砕けながら流れ落ちる様が映るばかりであった……。
パスカル著「パンセ」(【筑摩書房】: 世界文学全集 11 モンテーニュ/パスカル全集)より
四五五
自我は嫌悪すべきものである。ミトンよ、君はそれを隠しているが、隠したからといって、それをしりぞけたことにはならない。それゆえ、君はやはり嫌悪すべきものである。
――そんなわけはない。なぜなら、われわれがやっているように、すべての人々に対して親切にふるまうならば、人から嫌悪されるいわれはないではないか?
――それはそうだ。もし自我からわれわれに生じてくる不快だけが、自我の嫌悪さるべき点だとすれば、たしかにその通りだ。しかし、私が自我を嫌悪するのは、自我が何ごとにつけてもみずから中心になるのが不正であるからであるとすれば、私はやはりそれを嫌悪するであろう。
要するに、自我は二つの性質をもっている。それは何ごとにつけても自分が中心になるという点で、それはすでにそれ自身において不正である。また、それは他の人々を従属させようとする点で、他の人々にとって不都合である。なぜなら各人はの自我はたがいに敵であり、他のすべての自我に対して暴君であろうとするからである。君は、自我の不都合な点を除き去りはするが、その不正な点を除き去りはしない。それゆえ、自我の不正な点を嫌悪する人々に対して、君は自我を愛すべきものとさせることはできない。自我のうちに自分たちの敵を見いださない不正な人々に対してのみ、君は、自我を愛すべきものとさせることができるにすぎない。それゆえ、君は依然として不正であり、不正な人々しか悦ばせることができない。
四五八
「おおよそ世にあるものは、肉の欲、眼の欲、生命の誇りなり。感ぜんとする欲、知らんとする欲、支配せんとする欲。」これら三つの火の川が潤おしているというよりも燃えたっている呪われた地上は、何と不幸なことであろう! これらの川のうえにありながら、沈まず、まきこまれず、確乎として動かずにいる人々、しかもこれらの川のうえで、立っているのではなく、低い安全なところに坐っている人々、光が来るまであえてそこから立ちあがろうとせず、そこで安らかに安息したのち、自分たちを引きあげて聖なるエルサレムの城門にしかと立たせてくれる者に、手をさしのべる人々は、何と幸福なことであろう! そこではもはや傲慢が彼らを攻め彼らを打ち倒すことはできないであろう。それにしても、彼らはやはり涙を流す。それは、すべての滅ぶべきものが激流にまきこまれて流れ去るのを見るからではなく、その永い流離のあいだたえず思いつづけてきたなつかしい彼らの祖国、天のエルサレムを思い出すからである。
四五九
バビロンの河は流れ、落ち、人を引き入れる。
ああ、聖なるシオンよ。そこにおいては、あらゆるものが永存し、何ものも落ちることがない。
われわれは河の上に坐らなければならない。下でも、中でもなく、上に。また、立っていないで、坐らなければならない。坐ることによって、謙遜であるために。上にいることによって、安全であるために。だが、われわれはエルサレムの城門では立ち上がるであろう。
その快楽が永存するか流れ去るかを見よ。もしも過ぎ去るならば、それがバビロンの河である。