|
この茫洋と何処までも拡がり行くやうに思へる闇をじっと凝視してゐるとこの闇全体が彼の五蘊場であるやうなある錯覚へと彼を導くのを彼は感じずにはゐられなかったのであった。
――主客の渾沌……。
――吾が呼んでゐるこの吾とはそもそも何の事なのであらうか。
――へっ、吾思ふ、故に吾ありか、けっ。
――cogito,ergo sum……。
――自然もまた思考するんじゃなかったっけ?
――すると、思考する故に吾あり、か?
――その思考する吾とはそもそも何ぞや。
彼は再びゆっくりと瞼を閉ぢて自身の闇の頭蓋内を覗き込まうと敢へて視線を内界へ向けるのであった。しかし、そこで見つかるものなどある筈もなく、彼は唯途方に暮れるのが関の山であった。すると再び思考の小さな小さなカルマン渦が五蘊場に明滅するのであった。
――何もありゃしない!
――へっ、そんなことは初めから解かってゐたことじゃないか、へっ。
――それにしてもだ、これじゃ酷過ぎる。
――吾は何ぞやなどと自問してみたはいいが、その吾が何の事はない、唯の木偶の坊じゃ、仕様がないぜ、ふっ。
――それでも、木偶の坊であったとしてもだ、この俺は此の世に存在してしまってゐるんだぜ。
――だからどうしたといふんだ、けっ。
――ちぇっ、この存在め、何処かへ消えて無くなればいいんだが、ちぇっ。
――はっはっ、最後は尻尾を巻いて降参かな?
――ちぇっ、それにしてもだ、何故吾は存在してゐるんだらうか?
――へっ、それは禁句じゃなかったかな、何故って言葉は!
――それでも問はずにはゐられないんだ。何故吾は存在してゐるんだらうかと。
――けっ、存在証明が欲しいのか?
――いや、そんなことじゃない!
――言っとくが、お前は唯の不純物が混じった水じゃないのか?
――不純物が混じった水?
――だってさうだらう。お前の七割程は水で後は有機物といふ名の不純物。
――つまりは海水の成分に近いってことか?
――けっ、水が吾は何ぞやと問ふて可笑しくないかい?
――自然もまた思考する……。
ここで思考の小さな小さな一カルマン渦は飛散したのであった。彼は閉ぢてゐた瞼を其処でぱっと見開き、再び眼前の闇を凝視したのであった。
何処も彼処も闇であった。闇は何故思考を誘ふのであらうか……。
(二の篇終はり)
|