クラシックカメラの名機ヤシカエレクトロ35による写真集 YASHICA ELECTRO35GSN
2006年 02月 04日 の記事 (5件)
旧横浜正金銀行(明治37年、1904年建築)
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鵯越の逆落としの時、愛馬が脚を痛めていたため、前足を両肩にかけて担ぐようにして坂を下ったという逸話が伝えられているほどの大力と美男ぶりで名を馳せた畠山重忠邸跡です。謀反の疑いをかけられて現横浜市の二俣川で百五十騎程の寡兵で北条義時の一万を越える軍勢と戦い敗死しました。今も現地には「万騎ヶ原」の地名が残ります。 ちなみに義経一行が駆け下った実際の鵯越の坂は長さ約45メートル、最高35度くらいの勾配のある急な坂だそうです。兵庫歴史研究会の「義経の実像ー一の谷の合戦における鵯越の逆落とし」に豊富な図と写真入りで詳細に説明されています。私は現在はすぐ側を車が行き交っている鵯越の急坂の写真を初めて見ましたが少なからず感動しました。
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元弘三年(1333年)五月二十二日、九代続いた北条氏は鎌倉に攻め入った新田義貞の軍勢に抗しきれず東勝寺にて高時以下一門の者八百余名が自刃してここに滅亡しました。東勝寺跡はご覧のように一面の荒地で金網の柵で囲ってあるだけです。慰霊碑の一つも無いのは憐れであり、おかしいと思いますね。最期は賊軍の将として敗死した西郷隆盛でさえ、後に明治維新の時の功績が認められて上野に銅像が建てられたんですからね。まして北条氏は光厳天皇を擁立して戦ったのですから、一概に朝敵といって良いものかどうか。北条氏というのは元寇から日本を救ったから日本人にとって大恩があると思いますけどね。徳川幕府のように民衆を残虐に抑圧したりしなかったし、後醍醐天皇や足利尊氏の治世になっても世の中が良くならなかったのは二条河原の落書のなかで「自由狼藉ノ世界ナリ」と批判されていることからもわかります。
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古都鎌倉らしい風景です。北条氏の邸宅の一部だそうです。
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外観、内部共に昭和2年に建設された当時の面影を留めています。戦前に英語の話せる芸者として有名だった新橋の芸者喜春は当時を回想して次のように語っています。 「その頃、横浜というと、たいそう遠い感じで、東京の市内とちがい離れているので知り人に逢わないという利点があります。歌舞伎の蓑助(あとでフグで亡くなった三津五郎さん)と川島芳子さんとがダンスをしていたり、川口松太郎さんが花柳小菊さんと踊っていたり思いがけないカップルがこうして幾組もいます。川島芳子さんはスパイだというので、のちに不幸な死に方をなさいますが、いつも男装をして活躍しておられた有名な人です。このときはベイジュのスーツを着て、男っぽいけれど、やはり美人ですから男っぽい色気がありました。」江戸っ子芸者一代記(草思社)マッカーサが厚木に到着後最初に宿泊した場所もこのホテルニューグランドでした。
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