今日はちょっとした回顧録。 そういえば何でプログラミングばっかりになったんかなぁ…と思ったんでね。
思い返せば始まりは中学1年だったかの夏休みの技術家庭科の宿題なんですよ。 私ってかなり不器用な類に入ることもあったり、単純に椅子とか本棚を作るのが嫌だったのもあり、何か面白いことを…と思ってたんですよ。
そんなことを話すと父がHSPの本を探してきてくれたわけです。 まぁ所謂未知との遭遇ですよね、これが。 当時は結局配列の意味もほとんど分かってませんでしたが、自分でウィンドウを出せる、キャラクタを動かせると言うのはとても魅力的だったんですよ。 まぁ、宿題に出したのは結局サンプルプログラムの縦シューを横シューにしただけだったんですけど…。
いやぁ、あの時はウィンドウを開くだけでも感動もんだったなぁ…。 っていうか、配列の意味も分からずによくやってたもんだ。
まぁ、そのときははまりましたが、それからさして触ることは無かったんです。 PCが自由に扱える立場ではなかったし、知識量も無かったですし。
ちなみに2回目は中学3年の時、ブロックマップを追加して横シュー→縦シュー という手抜きっぷりで出した記憶があります。
まぁ、どっちもソース一つ残ってませんが。 残ってたら今すぐゴミ箱行きですが。
話が逸れますが、中学ですから進路を決めるわけですよね? その当時から「普通に高校行って大学ってのは嫌」なんて思ってた節があったわけです。 それなら高専にしてしまえと。今考えると安直魔法ですが。
まぁ、「当時は」ロボコンに憧れてた時期もありましたし。 ありましたが、何故か選んだのが「電気情報工学科」。 しかも神戸の方は「電気工学科」と「電子工学科」という学科名だったからパスした記憶が…。
確か、あの頃は「電気」も「情報」もやりたいなぁ…なんてことを漠然と考えていたんだと思います。 んで、明石の「電気情報工学科」になってしまったと。 これまた安直魔法な上、情報は何気に名ばかりだった気が…。
ちなみに神戸をパスした理由には神戸の学科試験が国数英の3教科しかなかったってのもあります。 当時の好成績科目が「社会」と「理科」でしたから。
話はさらに横道に逸れますが、当時から勉強しない子でして、結局入試の勉強をまともに始めたのが1月の頭からだったような…。 というか、赤本に手をつけたのがそれくらいって話なのですが、今考えると末恐ろしいことをしていたなぁと思ったりするわけです。
んでまぁどうにか入って、当時は電気電子コース志望だったと思うんですよ。確か。 某電気回路の担当教官には肝を抜きましたが。
話を戻しましょう、一気に。
さらに分岐点となったのは1年の冬くらいだったかにRemora氏とやり始めて見事にコケたシューティングの存在があります。 最早黒歴史の中の黒歴史って感じではありますが…。 それから、文化祭でクラス展示がゲーム展示とかになって、やり始めてやっぱり頓挫した戦略シム。 っていうか、マップの時点で力尽きた記憶があるよ…。
そして高専祭2週間前くらい(正確には覚えてませんが)に突如現れた「PSYCHO」の案。 最後の方なんて、徹夜直前までかましたりして、必死になって作ってました。それはもう普段とは比べ物にならないくらい真面目に。 まぁ、ソースは今では絶対読みたくないくらいにグダグダなんですが。 というかー、99%同じソースが3ステージ分ありますから。本当に必死でした。
そういえば、H先生に居眠りしてたら減点とかいう罰則をつけられた記憶が…あれは大体うちのせいです。
その代わりに高専祭には滑り込みで間に合いましたが。
意外なことに雑誌にまで載ってみたりして(1/6ページ)なかなかの反応だったよーな気がします。 というか、Remora氏の絵とか案とかが凄すぎたと思うわけですよ。 あの才能は反則だと思います。Engine Troubleのゲームは大体Remora氏の案ですし。
私なんてプログラミングが出来ると言うより、プログラミングしか出来ないプログラミングバカですから。
話がまた逸れましたか。
まぁなんつーか、ゲームのプログラミングしてるのが楽しいわけですよ。 詰まり出すと「ムキー!」とかなりますけどね。 例えば「PSYCHO2」とか…ね…。
まぁ、プログラミングとの馴れ初めはこんなもの。 しっかし、最初は配列すら分かってなかったんだよなぁ…。 そう考えると恐ろしい話やなぁ…。
さて、来年の今ごろ私はプログラミングを職業にしてるんでしょうか? それとも…?
|