2006年 05月 の記事 (8件)


 かるたあそびか?
 扇さばきか?

 とかく女は狡いもの

 自分に不実をしてまでも
 惚れたりするのはばからしい
 それよりいっそ
 はいろうよ
 さぁ
 はいろうよこの見世へ
 ここなら正気を違わずに
 誰にも恋ができるんだ

                 ジャン・コクトー

  天使の背中を見に行こう。
  もしも背中が表なら、
  悪事は露見するだろう。
  もしも背中が裏ならば、
  彼女は王子と結婚するだろう。

  そう、

  シャボン玉の中へは
  世界は入れません。
  まわりをくるくる廻っているだけです。

  表と裏がこれだけ違うと、
  シャボン玉でさえ、まわりを廻れない。
2006 05/25 11:07:54 | none | Comment(0)
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家畜人ヤプーを最初に読んだのは、いつだったろうか。書店で目に付いたタイトルに、手に取って帯を読んでみれば、三島由紀夫が激賞している。それほどの作品ならばと購入して、長いこと、本棚に積まれて埃ばんでいた。

時々、無性に本が読みたくなるときがある。活字中毒って、こういうことなのかと、17歳のガキが生意気に実感してたのだろう。違うよ、って忠告してあげたいけど、それも、無理。17の私は、生涯最多の読破数をこなしていた。

幼稚園、小学校、中学校と、両親の昔話や童話ではじまる読書習慣を私はもたなかった。宿題でどうしてもという作品は読んだが、それっきりだった。活字なんて面倒くさいだけだった。それよりも、テレビの方がずっと素敵だった。

その私が読書する習慣をもったきっかけは、高校のときの漢文の授業で出された作文へのたったひとことの評価だった。

「すばらしい」

この言葉は魔法のように私のなにかを縛りつけた。
ある学校で、女子と男子が争いあい、最終決戦を迎えた。男子軍優勢のうちに、女子軍は撤退を繰り返し、最後の砦に追いつめた。勝利は目の前だ。男子軍から降伏勧告の使者が出た。そして、使者は、見た。女子軍を指揮していた女王の真の姿を。動転した使者は、降伏文書も渡さずに逃げ帰った。勝てるわけがない、勝てっこないんだ、と、絶望のあまり口走る使者。男子軍は、総攻撃をかける。女子軍はよく守ったが、一画が崩れて、怒濤のごとく男子軍の一部隊が砦内に乱入した。逃げまどう女子達。勝利は、すぐそこにあった、と誰もが確信していた。だが、男子軍は、女王ひとりによって、殲滅された。女王は、物の怪だったのだ。
こんな、ストーリーだったような気がする。

思い出しても、下手な文章だったと思う。生まれて初めての虚構だった。
おだてに強い人間は少ない。まして、ほめられたことのない分野で評価されたとき人間は有頂天にさえなるかもしれない。
この漢文の教師は変わり者で、最初の中間テストで、生徒の字があまりに下手すぎるために、漢字練習帳を全員に配って、1年間、字ばかり、練習させられた。授業は定期テストの一週間前にするだけだ。成績表も、全員が「3」。公立校で、こんなはみ出し者は生きてはいけない。翌年、この教師は退職した。
教師は、言った。文章の上手い下手じゃない。最後まで読みたくなるか途中で読みたくなくなるか、だけだ。君のこの作文は、面白かった。励みなさい。君には、虚構の才がある、と。

「こうちゃん、となりにしばらくカズオちゃんと友達が泊まるからね」
「友達?どんなやつや?」
「へんなひとやから、関わり合いになったらあかんよ」
「わかった、カズオちゃんやろ?」
「男、好きやからな、カズオちゃん」

カズオちゃんは、私より15歳ほど年上だったろうか。七三に髪をきちんとわけ、白いカッターシャツに、黒のパンツ。分厚い眼鏡をかけて、いつも、お土産をもってきてくれた。何を生業にしていたのか覚えていない。年に数回、遊びにきた。母の元へは、こういううさん臭い連中が集まってくる。
カズオちゃんが連れてきたのは、金髪女だった。といっても、日本人。色グロで、ヒゲはやして、両方の手の小指がない。筋肉隆々で、どうみても女には見えないが、ヒゲも剃らずに、化粧する神経は普通じゃないだろう。母によると、しばらく店を手伝ってもらうという。カズオちゃんは旧知の仲だし、迷惑ではなかったが、この友達の姿を見たときには、面食らった。二人は恋仲、だという。夜ごと、熊のような雄叫びが聞こえた。

カズオちゃんは、いまでいう性同一性障害者だったろう。彼は、女だったからだ。ともだちもまた同じで、彼女は男だった。二人は、愛し合っていたようだが、興味なかったし、知りたくもなかったから、話しかけたことはない。

家畜人ヤプーを読みたくなったのは、この不思議な二人に出逢ってからかもしれない。
2006 05/21 21:23:41 | none | Comment(0)
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 直線は寂しい
 もしほかの線と交わらなければ、
 独りぼっちだ。

 歪んだ線はなおも寂しい、
 直線とも交わらず、
 ほかのなにとも交わらない。

 歪んだ線となおさら歪んだ線がからみあう、
 それぞれが背をむけながら、
 はなれることなく、むかいあうことなく。

 9.7次元では2次元の蝶を数億に存在させる。
 直線は、数億の気取った直線となり、
 歪線もまた数億のはしたない線となるだろう。

 数億の自分、数億の情念、
 数億の嫉妬、数億の自虐、
 それらすべてが、たったひとりの自分。

 直線は寂しい。
 たとえ他の線と交わりあえても、
 次元を異にしてさえ、
 たったひとりなのだから。

 そう、

 交差しあえた直線同士でさえ、
 いずれははなれてゆくだけだから。
2006 05/18 11:58:14 | none | Comment(0)
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  最終章


   睥睨(へいげい)するウンテンさんの姿は、火花がおぼろな視界の中で勇壮に見えただろうか。僕は張り手一発で、部屋の中ほどまで吹っ飛び床に転がった。無防備なからだは、軽い衝撃でさえ耐えられないものだ。殴るほうにも事情はある、ひとことで悲しいという表現をあてるならば、きっと不正解なのだろう、その強面(こわもて)を、単一の感情でくくれるものではない、寂しさとか侘びしさとか切なさとか、どれくらいの形容詞をもってしても比喩しきれはしない。いつも物静かな男の怒りは、こんなにまで、雄弁で複雑なのだ。
   ウンテンさんは、少し前、こう言った。男は恥ずかしい真似はしてはいかん、ひとが承知しても、自分が承知しない。自分が承知する恥ずかしさなんて、この世にはひとつもない、と。
   含羞(がんしゅう)がなければ男じゃない。男はどんな時代も、恥によって生死を賭けなければいけない。時代がくだり、男と女がどれだけ平均化されても、男には男の性があり、
それを退化させることなどできはしない。まるでそう断じているような張り手だった。

   「こうちゃん、すまん。こいつからあらかたは聞いた。こうちゃんはどうしたい?こいつは俺と別れてもこうちゃんと一緒になりたいらしい。こいつとやっていきたいのか?」

   久子さんが赤児を抱えながら、散乱気味の真っ赤な視線を絞るように、起き上がろうとしていた僕にまばたきしながら焦点を定めていいた。本気なのか?そう問いかける僕に、本気よ、と応えるみたいに、唇がふるえている。いいや、そうではないのかもしれない。その緊張は、打擲(ちょうちゃく)された肉体的苦痛が癒えないからであろうし、これからの展開がどのように推移しようが、どうなってもいいというふてぶてしい諦念も見え隠れしていただろう。観えるだけの仕草、演技(じゃないかも知れないけど、本人にとっては)にくらまされてはいけないのだ。

   「いいえ、そういうつもりはありません」

   言い直さないように静かに応えたつもりだった。激しく高鳴る鼓動に邪魔されながらも、一語一語ゆっくり呟くように云ったつもりだ。小学生の時、テープレコーダに吹き込んだ自分の声を、どうしても自分の声だと信じられなかったのを想い出した。声はいつも、自分を裏切るものだ。情けない声だったかもしれない。

   「そうか……、おい、こうちゃんはこう言ってるぞ、おまえ、どうする?」
   問いかける視線が優しく見えたのは、ウンテンさんが、敗北を素直に認めさせるだけの器量をもっていたからだろう。そのなかにはもちろんだけど、かすかな希望にすがりつくめめしさもあっただろうに、それを隠そうとしない率直さもまた、器量の必須条件とされるだろう。男は強く、そして弱くなければならないのだ。
   「片思いでいいの。この子とふたりで生きてゆきます。別れて下さい」
   「おまえ、まだ、そんなこと言ってるのか?そうまでして俺と別れたいのか?」
   「はい」

   女は残酷だ。二文字で男を殺す。ためらいなど微塵もない。

   「久子さん、それはあかん。友達としてなら、これからも会えるけど、久子さんがそんなんだったら、もう会えないよ。ウンテンさんこそ、久子さんにふさわしいひとじゃないか。それが判らないのかい?」
   「判ってるよこうちゃん。こうちゃんはアタシなんか嫌いなのよね。でもいいの、いつか絶対振り向いてくれるまで、待ってるから」
   ウンテンさんの顔色が気になったけど、うかがうだけの余裕はなかった、
   「だから。どれだけ待っても、無駄だよ。はっきり言うね、俺はそういう女の人が嫌いなんだ。人妻は、そんなことしちゃいけない。別れて独身になったら?いいや、そう言う気持ちで独身になっても、俺は理由を知ってるだろう?知らないフリはできないよ。気持ちが延長するってことはね、受ける側にも伝わり続けるってことだろう?赤の他人として初めて出合うならともかく、出合ってしまった今はもうそんなの不可能だよ。出合いなおしなんてできないんだ。だから、断言するね、俺は久子さんの気持ちには永久に応えられないよ」
   「嘘よ、そんなの。陽子ちゃんがいるからでしょ?わかってるんだ。でもね、こうちゃん陽子ちゃんとはうまくいかないよ。あんな歳で尻軽な娘なんか、大きくなったらどうなるか想像できるでしょ?こうちゃん絶対にふられるよ。こっぴどくふられるよ。立ち直れないくらいボロボロになっちゃうよ」
   「それは久子さんには関係ないだろう?ウンテンさんにも関係ない。関係のない話は出しちゃダメだ、話をややこしくするだけだよ。いいかい、今、話し合わなくちゃいけないのは、久子さん自身の身の振り方だろう?ウンテンさんとの問題は、俺は関係ないから二人で解決してくれよ。俺とのことは、今、言ったよ。それが全てで、他はない。今日を限りにこの部屋にきちゃいけない。久子さんがそう言う気持ちを捨てない限り、友達にもなれない、判った?」

   僕は思っていた。人を説得するのは無理なんだと。その人の要望にそわない限り、不承不承にさえ受け入れれてはくれない。だから久子さんを説得できたとは思わなかった。旦那に知られても、旦那の前でも、こうして意志をはっきり言い切れるだけの度胸があるのだ、最低限、旦那と離婚しない替わりに、僕との関係も今まで通りっていう譲歩をみせないと、引き下がりはしなかっただろう。虚仮(こけ)の一念岩をもとおす、っていう言葉がある。愚者も一念のもとに仕事をすれば、すぐれた業績を残せる、とかいう意味だけど、この虚仮っていう言葉のそもそもの意味は、内心と外相が違うことで、転じて、虚仮にするとかいうふうに、バカにするような意をあらわす。その一念も達すれば、かたい岩でさえ穴を穿(うが)つ。
   女の情念の深さは、そう、大量の虚仮を帯びながらも、底なしで、自らを容易に焔と化するに躊躇しない。

  「こうちゃん、すまなかった。あとは俺等の問題だな、邪魔したな」
  帰りたがらない久子さんの不満な表情など顧みず、ウンテンさんは、彼女の腕を強引につかんで帰っていった。その背中は、いつものように、隆々とした筋肉できしんでいたが、久子さんを掴んだ右肩が下がっていた。
  不倫は切ない恋だと誰かが言った。本当にそうだろうか?僕は思っていた。本当に切ないのは、不倫しているひとじゃなく、不倫されたひとなんじゃないかって。ふたりがこれからどうなるのか、僕には判らない。単純明快な解決方法なんてないだろう、どれだけ話し合っても、妥協できるかどうかは、された者の我慢に委ねられる。それは、胃を破るほどの苦汁を舐めることに等しいだろう。どうか、仲直りしてください、ウンテンさんの背中に、僕はそう心で願った。


   「こうちゃん、ウンテンさんに殴られたの?」
   どれくらい呆けていたのだろうか、いつの間にか来ていた陽子に覚醒される。
   「あー。ほっぺた腫れてるよ、痛い?湿布しようか?」
   こいつの神経はいったいどうなっているのか覗けるものならぜひ覗いてみたいくらいだ。今日も陽子はヨシ坊とデートしていたのだろう。どこでなにをしていたのだろうか等と、想像するだにおぞましいのだけど、嫌になるのは、頬に残る、桜色の昂揚、それに、瞳の粘膜に明滅する光沢のゆるい鈍さ、そういったものが、今まで何をしてきたのかを、これでもかと呈示してくれる。やるせないったら、ない。それでも僕はこいつが好きでたまらないのだから。
   「どう?気持ちいいでしょ?」
   ひんやりした頬は、忘れていた痛みを思い出しかのように、再び、剥がされるうな苦痛を動悸にあわせて主張しはじめた。
   「ヨシ坊に抱かれて来たんだな?」
   「なによ、それ、そんなことしてないよ。いやだこうちゃん、妬いてるの?」
   ああ、妬いてるよ。妬かない男がこの世にひとりでもいるかい?いるわけないじゃないか。いるのなら逢わせてくれよ。そいつは人間じゃない。
   「嘘はもういいよ。なぁ、そういうことして、おまえ本当に俺が好きなのか?」
   「そういうことって何よ。好きだよ、こうちゃん」
   「ヨシ坊も好きなんだろ?ならどっちか選べとは言わない、ヨシ坊を選べよ。俺はもういいから」
   「なに変なこと言ってるの?わけ分んない。アタシはこうちゃんだけだよ、ヨシ坊なんか大嫌いだもん」
   「ヨシ坊にもこうちゃんなんか大嫌い、って言ってるんだよねおまえは」
   「やめてよ、そんなことないって言ってるじゃない。アタシをそんな女だって思ってるんだこうちゃんは」
   ああ、診てるよ。陽子、おまえは、そういう女だ。
   「じゃどうしてヨシ坊とデートしてるんだ?今日もどっか行ってたんだろ?大嫌いな奴に誘われて、おまえはホイホイついてゆくのか?」
   「無理矢理だよ、ホイホイだなんて、ひどい。力強いし、怖いし、抵抗できないよ」
   「じゃ、ヨシ坊が無理に連れていかなければ、ついていかないんだな?」
   「そうだよ、アタシはこうちゃんだけだもん」
   
   十六歳の暑い夏は、終りを迎えようとしていた。森昌子が「中学三年生」という歌をヒットさせていた。彼女の初めてのヒット曲だったろうか。陽子がたまに、歌詞を口遊(くちずさ)むものだから、耳にのこり、自然に覚えてしまった。いいとは思わなかったけれど、陽子にとっては、心惹かれるところがあったのだろう。汗ばみながら、湿った衣服で抱き合う僕らに、終焉の影は、本性をあらわすかのように急速に速度をまして襲いかかってきていた。足音は聞こえない。風も感じず、予感もなく、変わりのない毎日が永遠に連鎖してゆくような剥落感が絶え間なく収縮しているのにもかかわらず、そいつは遮二無二牙をむき、爪を立てる。まるで、覚悟しろ、と威嚇するかのように。

       ♪蛍の光がうたえない 涙でつまってうたえない あのひと卒業してゆくの さよなら言えなきゃいけないわ わたしも中学三年生♪

   陽子の裏の顔を僕はもう知っていた。好きになった瞬間は、そんなことはどうでもいいことだった。彼女がどれだけ負の顔をもっていたって、僕を好きだと言ってくれた迫力の前では、馬の耳になんとかだ。うるさい虫ほどの警鐘にもなりはしない。だが、嫌らしいことに負はそれだけでは収まらない。
   恋は希望に比例するのだろうか。いいや、絶望にこそ比例するといえるのではないか。加法ではなく減法、ここもだめ、あ、そこもダメ、あれもだめなんだ、引いて引いて、気づいたときには、大元までが陰極に傾いているその境目こそが、失恋なのかもしれない。
   では、加法に転じるものはなにもないのか?虚しいことに、僕らは、それを算出できはしない。善悪という観念があやしくなって久しいが、世のありとあらゆる交差は、どれだけ細分化し多岐にわたろうと、とどのつまり、善し、悪し、という昔ながらの対極に分けられてしまう気がする。けれどもそこまでどうしてなかなか極められないのかというと、そこに、情念という、僕らごときではどうにもならない生物本来の性癖が、必ず、迷わせる情報を与え横槍を入れてくるからだ。その穂先は鋭く、決意の影にひっそりと佇む怯懦(きょうだ)をひきずり出す。こと恋愛に於ける男の決意など、なんともろいものか。あなただけよ、そのひとことで、鉄腸も蕩(とろ)けてしまう。
   僕らは、幼い頃から情けと優しさと、そして強さを仕込まれて育つ。それは、許せるか許せないか、という判断力を肥やす。強くなれ、しかし優しくあれ。それを決めるのは硬い意志であり、信念であり、情愛である。だが、大人は教えてはくれない。決意に、人としての本能など必要ないって事を。冷血にならなければ、人は褒貶(ほうへん)などできるものではない。ましてそれより至難な決意をや。
   
   店がひけた真夜中のことだった。
   飲み物を取りに行こうとして階段を半ば降りたとき、母とキミヨさんの話し声が聞こえてきた。

   「産婦人科で検査したの?」母の声だ。
   「はい、連れていきました。よかった。妊娠してなかった」物静かにキミヨさんが応えた。
   「よかったわね、陽子ちゃんも可哀想に」
   「すみません、ワタシのせいなんです。ワタシがあのひとをほったらかしていたから…」
   「そうよ、あんたもいけない。せっかく所帯もったんだから、我慢しなきゃ。駆け落ちまでして一緒になったんだろ?大恋愛したのにどうして浮気なんかしたの?」
   「魔がさしたんです。むしゃくしゃして、優しく声かけられたら、止められなかった」
   「ちゃんと別れたの?」
   「はい。別れました。家も心配だったし、まだ小さい娘もいますから、それとなく様子を見に帰ってたんですけど、まさか…」
   「どうしようもなかったでしょうね、陽子は。不憫な子だ」
   「ワタシのせいです。あのひとをそうさせたのも、陽子があんな目に遭ったのも…」
   「自分を責めちゃだめよ。責めたからって、どうにか出来るわけじゃないでしょう?陽子は妊娠してなかったのね?」
   「はい、だいじょうぶでした。姉さんには、お世話になりっぱなしで、どうお礼すればいいのか…」
   「そんなことは考えなくっていいのよ。あなたは陽子のことだけ考えていなさい。ショックだったんだから、どうなっても不思議じゃないでしょう?叱っちゃだめよ。あの子は被害者。忘れられたらいいんだけど…」
   「ヨシ坊と付き合ってるみたいなんですよ。ワタシはこうちゃんがいいんだけど、姉さん、お嫌でしょう?」
   「ごめんなさいね、そうしてほしいの。恒吉は、思い詰める質だから、陽子の秘密知ったら、何仕出かすかわからないもの」
   「はい、わきまえています。陽子はこうちゃんを慕っているようだけど、片思いですよ。陽子にはヨシ坊がちょうどいい。安心なさってください」
   「陽子はどう?まだ心を開かない?」
   「はい、自業自得です。ワタシのせいだとあの子も思ってるでしょう。仕方がありません。時間をかけて、仲直りしてゆかないと」

   うすうす感じていた陽子のもう一つの顔。けっして語られない、暗部。僕は、その場をいつまでも動けなかった。慄えとともに来たるこの溢れるような愛おしさはなんなのだろうか。キミヨさんの浮気なんて知らなかった。留守中の陽子は、苦労しただろう。彼女は長女だ。妹たちの面倒をみなきゃいけない。健気な、陽子の面影が浮かんだ。母親の顔をした陽子が、その面影に投影される。ヨシ坊に愛撫されて希希とした面持ちをする陽子が、更に、みっつの顔を不斉合成した。優先的に生成されるのはどれだろうか。
   僕は、その時、陽子を初めて怖いと感じた。しかし、無償にも思えるその愛しさは、いつまでも、消えなかった。

   たくさんのことを至急に整理しなければならなかった。何かに向かって僕は奔りだしている。どこへ行くのか知らないけれども、僕は、もう、止まらない。散漫だとからかわれていた性癖は、いったん集中を試みれば、忘我のはざまに迷いこむ。時流が逆行しはじめると、しなければならないことが、姿を現す。
   陽子の言葉を信じはしない。だけど、騙されてあげよう。その嘘にお付き合いしてあげよう。おまえが怖いのなら、その元を断ってあげよう。この身がどうなろうが、構いはしない。先ずは、そこから、と。

   ヨシ坊は叔母のスナックで住み込みながらバーテンをしていた。不用心な店だ。営業していない昼間でも、鍵はかかっていない。ベルトをズボンから抜き、金具をオモリのように垂れさせ、手にその反対をぐるぐる3重に巻いた。階段の踏み板を、金具が、コトンコトン、鳴らせる。上がりきると、アルコールの腐敗臭とともに、散乱した屑の山となった机の向こう、センベエ布団にヨシ坊を見つけ出した。ひとりだ。陽子と付き合えたら、女を全部切ると宣言したのは嘘じゃなかったようだ。

   「ヨシ坊!!」
   声音を調整できなかった、甲高く響いたろう。
   「なんや、こうちゃんか。どうしたんや」
   「陽子と今日会うんか?」  
   「おお、会うで、こうちゃんには悪いけどな」
   「あいつが好きか?」
   「ああ、好きや。こうちゃんと一緒くらいにな」
   「陽子は何て言うてんねん」
   僕の右手のベルトを見て、ヨシ坊はムクッと起き上がり、身構えながら応えた。
   「好きやと言うてくれた。俺と一緒になりたい、て」
   「そうかぁ、良かったな。相思相愛やんか。で、陽子俺のことはなんて言うてる?」
   「さぁ、聞いてみたらええやんか陽子に、毎日会ってるんやろ」
   語気が荒くなってきている。
   「さぁてどうかなぁ。おまえみたいに毎日かなぁ」
   「どうせ俺のことも大嫌いて言うてるやろ」
   「どっちでもええやんか、そんなこと。好きやったら、好きでいてくれるだけでええやんか」
   「いいや、こうちゃんをアイツは好きや。オレでもそんなことぐらい分る。なぁ、こうちゃん、なんでや?オレに紹介したんは、こうちゃんやないか?」
   碧や赤が混じった口髭が立った。眼はもう、笑ってはいない。
   「陽子が望んだからや」
   「違うやろ、試したかったんやろ、アイツの気持ちを。オレはそれでもよかったんや。いつかオレに惚れさせたる自信もあった…」
   「なら、問題ないやないか。陽子とうまくやってけな」
   「ならそのベルトなんやねん?オレをしばく気か?」
   「これか?そうや、おまえをしばくんや今から」

   国鉄京都駅前の市営バスに乗り、大原バス停下車、三千院への参道を呂川に沿って上っていくと、しば漬け屋や雑貨の店が軒を連ねている。参道が尽きる辺りは魚山橋。左に曲がると、そこが桜の馬場と呼ばれる三千院の門前だ。厳めしく格調高い三千院の石塀に圧倒されるとガイドブックに記載されているが、観光でない者にとってのそれは、ただの石塀にすぎない。
   三千院を挟んで流れるふたつの川がある。右手の川が呂川、左手の川が律川だ。
   
   いかなる命題Pに関しても、「P」も「Pでない」もともに真ということはない、という矛盾律の原理へ挑戦したことがあるだろうか。形式論理学の基本法則には、同一原理・矛盾原理・排中原理・充足理由の原理の4つがある。排中原理とは、一般的には「AはBでも非Bでもないものではない」という形式をもち、Bと非Bとの間には中間の第三者はありえない、ということで、矛盾原理を補足するものである。未来事象に関する命題については真でも偽でもない第三の可能性を認めざるをえず、ここから記号論理学では多価論理学の特色として排中原理を認めない場合があるそうだが。同一原理とは、「AはAである」の形式で表されるもので、概念は、その思考過程において同一の意味を保持しなければならないということ。つまり矛盾原理は、「Aは非Aでない」または「SはPであると同時に非Pであることはできない」という形式で表す。この原理は、一定の論述や討論において概念の内容を変えてはならないことを意味し、同一原理の反面を提示する。最後の充足理由とは、事物の存在や真なる判断はそれを根拠づける十分な理由を要求するという、正しい思考の守るべき原理である。

   僕は、僕であり、僕ではない、このふたつはともに真ではないか?まず僕は、私でも私でないものでもないが、私と私の間にいる私ではありえない。僕は僕であり、僕でないものであることはできないのだ。そう、僕は、僕でしかない。僕以上にはなれず、僕以下にもなれやしない。

   「こうちゃん、こうちゃんは死にたくなったことある?」
   下着をつけながら陽子がつぶやいた。汗も拭かずに、僕らは、毎晩抱き合った。久子さんも来なくなり、ヨシ坊も来なくなり、僕らは二人きりの夜を、過せるようになった。ヨシ坊に殴られた腫れが引いた頃だっただろうか。世話女房気取りの小さなお嫁さんのお節介には閉口する。どうせなら、ヨシ坊の方にそうすりゃいいのにと、意地悪いひとことでも言ってやればよかったかな。静かな夜が、僕らに訪れた。それはいいことなのだろうと、僕らは悦んだ。だけど、それはいいことなんかじゃなかった。少なくとも陽子は、孤独にしてはいけなかったんだ。精神の安定を失っていた少女の、思いつく紛らす手立てなんて、そんなにありはしない。異性によって出来た瑕は、異性によってしか埋められない。たとえその瑕口が、より深刻な結果を招こうとも。事実陽子は、そうしようとした。
   「ないよ。なんでや?」
   「別に意味はないよ。ただね、そういうときがこうちゃんにもあるのかな、って思ったの」
   「にも、ってことは、おまえ、死にたくなるときがあるのか?」
   「うん、あるよ。今日ね、薬屋さんに、睡眠薬を貰いにいったの。それでね、これ何錠飲んだら死ねますか?って聞いたら、驚いて、売ってくれなかったの」
   「ふ〜〜ん、そりゃそうだろうよ。ましておまえは未成年だしな」
   「ねぇ、こうちゃん、ヨシ坊になにか聞いたの?アタシのこと」
   「いいや、なにも聞いてないよ。済まんな、喧嘩してしまった。だいじょうぶだよ、痛み分けだったから。あいつ、強くなったよな」
   額を指でつっつくだけで、びぇーーんって泣いてたヨシ坊は、もういない。いるのは、水商売を怖じることなく渡ってゆけるヨシ坊だった。半殺しにしようとして、されたのは寧ろ僕の方かも知れない。
   「怒らないの?アタシのこと」
   「どうして?」
   沈黙ののち、
   「ね、死のうこうちゃん。アタシと一緒に死のう」
   「理由は?」
   「理由がなければだめ?太陽が眩しいから?」
   カミュのような言い回しをする。まさか14の娘が「異邦人」を読んでいるわけがない。思いつきなのだとしたら、案外、陽子の感性はフランス文学的情緒に根ざしているのかもしれない。少し、格好良い。
   「死んで欲しいのか?俺でいいのか?」
   「うん、こうちゃんがいい。他の人なんか要らない」
   死にたくなるほどの苦しみなんて、あるのだろうか。僕には理解できなかった。何気なく流れの中に投影された一言が、全てを一変させることだってある。死とは、その最たるものではないか。どう仕様もないぎりぎりのところは、どう考えたって、終着点じゃないことの方が多い。なにかあるのだ、そこまで追いつめられない方法が。それを捨ててまで、短絡に死を選んでいいものか?心が騒いでいたが、ふたをした。どうしてかって?陽子が微笑ながら誘ったからさ。滅びって、そういうものでしょう。

   三千院を散策した後、僕らは早い夕食を摂った。給仕に宿を尋ねると、手頃な値段の民宿を勧められた。紹介料でもはいるのだろうか、給仕は異常過ぎる親切を見せ、自ら案内を買って出た。僕らは夕焼けを背中に浴びながら、導かれるまま草深い森を抜けた。蝉の声が、通り雨のようにふってきた。森全体の木々が騒いでいる。手はつながない。僕らはそれまでのように、なにひとつ変わることなく、一定の距離を置き、歩いた。戻ることはない、暮行く山道を。
   宿帳にどう書き込もうか思案していると、陽子がそれを奪って、兄、妹、と記入した。兄妹か、なるほど、とその機転に舌を巻いた。機嫌を躁鬱で二分化させるとしたら、僕らはどう分類されるだろうか。男と二人っきりで宿をとるなんて、彼女には初めてだったろう。十六歳と十四歳の少年少女が、泊まるのだ、宿主の怪訝な顔つきは我慢しなきゃいけないだろう。そう、僕らは、いろんなことを我慢する。そうしていろんなことをそこから学ぶ。それを経験と呼ぶのならそれでもいいだろう。だが、僕らが学ぶのは、倫理ではなく、境界だ。ボーダーライン。精神病と神経症の境にある境界的人格障害。
   愛情飢餓によって生じる、衝動的で見捨てられ感の強い不安定な状態のことだ。アメリカではボーダーラインは80%、親からの暴力虐待、性的虐待から生ずるが、日本では80%が過保護状態から生じ、虐待はわずかに6%であるのだそうだ。性的虐待は1%にもとどかない。治療はきわめて困難ではあるが、認知行動療法や力動精神療法を主に治療が行われているのが現状だ。町沢のデータでは、ボーダーラインは1年間治療が続けば約20%寛解に至る。そして30代の半ばを過ぎれば、大体ボーダーラインの症状は消失していく傾向にある。
投薬としては、カルバマゼピン、ハロペリドール、炭酸リチウム、SSRI(選択的セロトニン再吸収阻害物質)などが効果があるといわれている。
   しかし、精神医学会に診断基準が出来たのは二十年後のことだ。僕らは、だれもが孤独にボーダーラインをさまよい、だれもが自身でそれを克服してゆかなければ成らなかった。
   科学は正しいという迷信を払拭出来る時代がくるのだろうか。ただの数式に肉体ならまだしも、心が表わせる筈がないのに、精神医学、笑わせるんじゃない、おまえらみんな、ただの宗教団体の司教じゃねぇか。嘯(うそぶ)く僕の独白は、僕自身に言い聞かせているようだった。
   
   二組の布団が敷かれていた。僕らは兄妹に見えただろうか。陽子が布団を引っ張って、くっつけた。灯が閉ざされ、闇の中、衣服を脱ぐ音だけが散る。浴衣を羽織りながら、アタシ色黒いから、と日焼けを気にするが、だいじょうぶさ、なにも見えやしない。おまえも、そのからだも、そして、おまえの浮気心も。
  「こうちゃん、どれにする?」と陽子がトートバックから、錠剤を出した。
  「こっちが睡眠薬で、こっちが鎮痛剤」仕分けながら、「持ってきてくれた?ナイフ?剃刀?」
  「両方用意した。好きなの選べよ」
  「いいのね?本当にいいのね?」
  「くどいよ」
  「八重子オバサンに叱られちゃうね」
  「いいよ、気にしないで」
  「こうちゃん、アタシが好き?」
  「ああ、おまえよりね」
  「アタシだって大好きだよ」

  僕は、この瞬間、生の終わりではなく、恋の終わりを自覚していた。

  ちょっと散歩してきます、そう宿主に告げて、僕らは暗い庭に出た。紅染の三日月が夜空にあった。蝉の声は、やむことがない。陽子が、腕にしがみついてきた。少し、ふるえている。寒いのかい?と訊くと、首を左右に振った。真夏だった。風もない。なのに、僕らは、歯の根が噛み合わないくらいふるえていた。僕らは、まだ知らなかった。僕らがそうするために、まだひとつ足りないものがあるのだということを。
  十分ほど歩くと、呂川の川縁に出た。月明かりにせせらぐ水面が、蛍のように晦明(かいめい)する。その彩りを伴奏するかのように、かわつらを涼風が渡った。大原の起こりは定かではないが、西暦八百六十年慈覚大師円仁が、声明業の精舎を大原の魚山に建てたとの説があるそうだ。下ること百二十年あまり、天台宗の学僧で、浄土教の理論的基礎をきずいた源信が、妹の安養尼に阿弥陀三尊へ給仕させるため、大原に極楽院を建立したとの説もある。隠れ里、世捨て人がこの世の果てを見る終焉の地、大原三千院。恋に疲れた女がひとり、歌われるほどの情思がただよっているようには思えない。この世の果てに、僕らは辿り着いた。
  「睡眠薬を貰おうか」
  「ここで死ぬの?」
  「ああ、腹切って、川に入ろう」
  「それじゃ離ればなれになっちゃうよ」
  「手をつないでるから、それでいいじゃないか」
  「でも、苦しくて手をきっと放してしまうわ」
  「その時は、仕方ないじゃないか、人は二人のままではいれないよ」
  「こうちゃんはアタシのことなんか好きじゃないんだ」
  「それももうどうでもいいだろう」
  そう、僕らは、ここで、死ぬのだから。陽子はここに至っても、自身に起こった不幸を教えてはくれなかった。初めての夜、陽子は歓喜に酔いながら僕に抱きつき、脚を背中に絡ませた。初めてなのに、血が出ないね、と囁くと、返事はなく、痛くもなかったみたいだね、と更に呟くと、あ、少し痛くなってきた、と消え入りそうな声で返答した。返事を求めていたんじゃない。行為を確認しただけのことだったのに。
  あの時、僕は、悟ってあげなくてはいけなかったんだ。どうしてそんなかなしい嘘をつくのか、を。
  僕らはなにひとつ真実を知らず、虚実のまま、現実を錯覚する。
  「じゃ、飲むよ」
  「待って、アタシも飲む」
  「まさか、ビタミン剤じゃないだろうな?」
  「ひどい、こんなとき冗談言わないでよ」
  「水、ないな。咽、とおるかな。この川の水、飲めるかな」
  「汚いよ、きっと。飲んじゃだめ」
  「じゃ、腹切るね」
  「それも駄目、こうちゃんだけ先いっちゃうじゃない」
  「難儀なやつだな。入水するかこのまま?」
  「アタシ泳げるよ、こうちゃんは?」
  「泳げると思う。でも、ここじゃ、泳ぐも何も、深さが足りない」
  「ねぇ、もう一度最後に抱いて」
  「ここでか?」
  「うん、ここで」そう言い終えぬうちに、陽子は浴衣を脱いだ。十四とは思えない放恣な四肢が微風に香った。

  こうして僕らの夏は終わった。
  
  僕らは、死ななかった。捜索願まで出しかねない勢いだったらしいキミヨさんが、陽子の処遇をどうしたのか、僕には知らされなかった。大阪に戻った僕らが、二度と会うことはなかったからだ。逃げるように、陽子は、沖縄に帰っていった。四年後、陽子は静岡で結婚し、男の子をもうけたそうだ。だが、翌年に離婚、沖縄に帰郷した。キミヨさんは糖尿病を患い、闘病生活をいまも続けているらしいが、時折、母に近況を報告していたようだが、帰郷後の陽子の消息は杳(よう)として知れず、ただ、申し訳ない、とばかりの謝辞がいつも並ぶのだそうだ。
  母は言う。内面に「剣」をかかえた因の霊魂がある。因には、序列があり、陽子の性(さが)はその最高位にあるという。男はその性に惹かれ、胸を剣で貫かれたた後、地獄におちる。だけど、僕は死ななかった。そう反論すると母は、こう答えた。

  「それは奇跡なのよ。それだけあの娘は、おまえを好きだったのかしらね」

          

          ふりむきながら唇をちょっとなめ
          今日の私はとてもさびしいと目を伏せるあなたは
          気絶するほど悩ましい
          
          ああまだだまされると思いながら
          ぼくはどんどんおちてゆく

          ああ嘘つき女と怒りながら
          ぼくは人生かたむける

          うまくゆく恋なんて恋じゃない
          うまくゆく恋なんて恋じゃない

                                    
                      作詞 阿久悠

    呂川の川縁、浴衣を脱いで裸になった陽子の肢体が脳裏ではじけ、精一杯さようならという声とからだを、風がさらっていった。
    見上げる僕はさようならを、そうさ、云えなかった。





                                                                了
2006 05/07 09:22:18 | none | Comment(0)
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  最終章


   睥睨(へいげい)するウンテンさんの姿は、火花がおぼろな視界の中で勇壮に見えただろうか。僕は張り手一発で、部屋の中ほどまで吹っ飛び床に転がった。無防備なからだは、軽い衝撃でさえ耐えられないものだ。殴るほうにも事情はある、ひとことで悲しいという表現をあてるならば、きっと不正解なのだろう、その強面(こわもて)を、単一の感情でくくれるものではない、寂しさとか侘びしさとか切なさとか、どれくらいの形容詞をもってしても比喩しきれはしない。いつも物静かな男の怒りは、こんなにまで、雄弁で複雑なのだ。
   ウンテンさんは、少し前、こう言った。男は恥ずかしい真似はしてはいかん、ひとが承知しても、自分が承知しない。自分が承知する恥ずかしさなんて、この世にはひとつもない、と。
   含羞(がんしゅう)がなければ男じゃない。男はどんな時代も、恥によって生死を賭けなければいけない。時代がくだり、男と女がどれだけ平均化されても、男には男の性があり、
それを退化させることなどできはしない。まるでそう断じているような張り手だった。

   「こうちゃん、すまん。こいつからあらかたは聞いた。こうちゃんはどうしたい?こいつは俺と別れてもこうちゃんと一緒になりたいらしい。こいつとやっていきたいのか?」

   久子さんが赤児を抱えながら、散乱気味の真っ赤な視線を絞るように、起き上がろうとしていた僕にまばたきしながら焦点を定めていいた。本気なのか?そう問いかける僕に、本気よ、と応えるみたいに、唇がふるえている。いいや、そうではないのかもしれない。その緊張は、打擲(ちょうちゃく)された肉体的苦痛が癒えないからであろうし、これからの展開がどのように推移しようが、どうなってもいいというふてぶてしい諦念も見え隠れしていただろう。観えるだけの仕草、演技(じゃないかも知れないけど、本人にとっては)にくらまされてはいけないのだ。

   「いいえ、そういうつもりはありません」

   言い直さないように静かに応えたつもりだった。激しく高鳴る鼓動に邪魔されながらも、一語一語ゆっくり呟くように云ったつもりだ。小学生の時、テープレコーダに吹き込んだ自分の声を、どうしても自分の声だと信じられなかったのを想い出した。声はいつも、自分を裏切るものだ。情けない声だったかもしれない。

   「そうか……、おい、こうちゃんはこう言ってるぞ、おまえ、どうする?」
   問いかける視線が優しく見えたのは、ウンテンさんが、敗北を素直に認めさせるだけの器量をもっていたからだろう。そのなかにはもちろんだけど、かすかな希望にすがりつくめめしさもあっただろうに、それを隠そうとしない率直さもまた、器量の必須条件とされるだろう。男は強く、そして弱くなければならないのだ。
   「片思いでいいの。この子とふたりで生きてゆきます。別れて下さい」
   「おまえ、まだ、そんなこと言ってるのか?そうまでして俺と別れたいのか?」
   「はい」

   女は残酷だ。二文字で男を殺す。ためらいなど微塵もない。

   「久子さん、それはあかん。友達としてなら、これからも会えるけど、久子さんがそんなんだったら、もう会えないよ。ウンテンさんこそ、久子さんにふさわしいひとじゃないか。それが判らないのかい?」
   「判ってるよこうちゃん。こうちゃんはアタシなんか嫌いなのよね。でもいいの、いつか絶対振り向いてくれるまで、待ってるから」
   ウンテンさんの顔色が気になったけど、うかがうだけの余裕はなかった、
   「だから。どれだけ待っても、無駄だよ。はっきり言うね、俺はそういう女の人が嫌いなんだ。人妻は、そんなことしちゃいけない。別れて独身になったら?いいや、そう言う気持ちで独身になっても、俺は理由を知ってるだろう?知らないフリはできないよ。気持ちが延長するってことはね、受ける側にも伝わり続けるってことだろう?赤の他人として初めて出合うならともかく、出合ってしまった今はもうそんなの不可能だよ。出合いなおしなんてできないんだ。だから、断言するね、俺は久子さんの気持ちには永久に応えられないよ」
   「嘘よ、そんなの。陽子ちゃんがいるからでしょ?わかってるんだ。でもね、こうちゃん陽子ちゃんとはうまくいかないよ。あんな歳で尻軽な娘なんか、大きくなったらどうなるか想像できるでしょ?こうちゃん絶対にふられるよ。こっぴどくふられるよ。立ち直れないくらいボロボロになっちゃうよ」
   「それは久子さんには関係ないだろう?ウンテンさんにも関係ない。関係のない話は出しちゃダメだ、話をややこしくするだけだよ。いいかい、今、話し合わなくちゃいけないのは、久子さん自身の身の振り方だろう?ウンテンさんとの問題は、俺は関係ないから二人で解決してくれよ。俺とのことは、今、言ったよ。それが全てで、他はない。今日を限りにこの部屋にきちゃいけない。久子さんがそう言う気持ちを捨てない限り、友達にもなれない、判った?」

   僕は思っていた。人を説得するのは無理なんだと。その人の要望にそわない限り、不承不承にさえ受け入れれてはくれない。だから久子さんを説得できたとは思わなかった。旦那に知られても、旦那の前でも、こうして意志をはっきり言い切れるだけの度胸があるのだ、最低限、旦那と離婚しない替わりに、僕との関係も今まで通りっていう譲歩をみせないと、引き下がりはしなかっただろう。虚仮(こけ)の一念岩をもとおす、っていう言葉がある。愚者も一念のもとに仕事をすれば、すぐれた業績を残せる、とかいう意味だけど、この虚仮っていう言葉のそもそもの意味は、内心と外相が違うことで、転じて、虚仮にするとかいうふうに、バカにするような意をあらわす。その一念も達すれば、かたい岩でさえ穴を穿(うが)つ。
   女の情念の深さは、そう、大量の虚仮を帯びながらも、底なしで、自らを容易に焔と化するに躊躇しない。

  「こうちゃん、すまなかった。あとは俺等の問題だな、邪魔したな」
  帰りたがらない久子さんの不満な表情など顧みず、ウンテンさんは、彼女の腕を強引につかんで帰っていった。その背中は、いつものように、隆々とした筋肉できしんでいたが、久子さんを掴んだ右肩が下がっていた。
  不倫は切ない恋だと誰かが言った。本当にそうだろうか?僕は思っていた。本当に切ないのは、不倫しているひとじゃなく、不倫されたひとなんじゃないかって。ふたりがこれからどうなるのか、僕には判らない。単純明快な解決方法なんてないだろう、どれだけ話し合っても、妥協できるかどうかは、された者の我慢に委ねられる。それは、胃を破るほどの苦汁を舐めることに等しいだろう。どうか、仲直りしてください、ウンテンさんの背中に、僕はそう心で願った。


   「こうちゃん、ウンテンさんに殴られたの?」
   どれくらい呆けていたのだろうか、いつの間にか来ていた陽子に覚醒される。
   「あー。ほっぺた腫れてるよ、痛い?湿布しようか?」
   こいつの神経はいったいどうなっているのか覗けるものならぜひ覗いてみたいくらいだ。今日も陽子はヨシ坊とデートしていたのだろう。どこでなにをしていたのだろうか等と、想像するだにおぞましいのだけど、嫌になるのは、頬に残る、桜色の昂揚、それに、瞳の粘膜に明滅する光沢のゆるい鈍さ、そういったものが、今まで何をしてきたのかを、これでもかと呈示してくれる。やるせないったら、ない。それでも僕はこいつが好きでたまらないのだから。
   「どう?気持ちいいでしょ?」
   ひんやりした頬は、忘れていた痛みを思い出しかのように、再び、剥がされるうな苦痛を動悸にあわせて主張しはじめた。
   「ヨシ坊に抱かれて来たんだな?」
   「なによ、それ、そんなことしてないよ。いやだこうちゃん、妬いてるの?」
   ああ、妬いてるよ。妬かない男がこの世にひとりでもいるかい?いるわけないじゃないか。いるのなら逢わせてくれよ。そいつは人間じゃない。
   「嘘はもういいよ。なぁ、そういうことして、おまえ本当に俺が好きなのか?」
   「そういうことって何よ。好きだよ、こうちゃん」
   「ヨシ坊も好きなんだろ?ならどっちか選べとは言わない、ヨシ坊を選べよ。俺はもういいから」
   「なに変なこと言ってるの?わけ分んない。アタシはこうちゃんだけだよ、ヨシ坊なんか大嫌いだもん」
   「ヨシ坊にもこうちゃんなんか大嫌い、って言ってるんだよねおまえは」
   「やめてよ、そんなことないって言ってるじゃない。アタシをそんな女だって思ってるんだこうちゃんは」
   ああ、診てるよ。陽子、おまえは、そういう女だ。
   「じゃどうしてヨシ坊とデートしてるんだ?今日もどっか行ってたんだろ?大嫌いな奴に誘われて、おまえはホイホイついてゆくのか?」
   「無理矢理だよ、ホイホイだなんて、ひどい。力強いし、怖いし、抵抗できないよ」
   「じゃ、ヨシ坊が無理に連れていかなければ、ついていかないんだな?」
   「そうだよ、アタシはこうちゃんだけだもん」
   
   十六歳の暑い夏は、終りを迎えようとしていた。森昌子が「中学三年生」という歌をヒットさせていた。彼女の初めてのヒット曲だったろうか。陽子がたまに、歌詞を口遊(くちずさ)むものだから、耳にのこり、自然に覚えてしまった。いいとは思わなかったけれど、陽子にとっては、心惹かれるところがあったのだろう。汗ばみながら、湿った衣服で抱き合う僕らに、終焉の影は、本性をあらわすかのように急速に速度をまして襲いかかってきていた。足音は聞こえない。風も感じず、予感もなく、変わりのない毎日が永遠に連鎖してゆくような剥落感が絶え間なく収縮しているのにもかかわらず、そいつは遮二無二牙をむき、爪を立てる。まるで、覚悟しろ、と威嚇するかのように。

       ♪蛍の光がうたえない 涙でつまってうたえない あのひと卒業してゆくの さよなら言えなきゃいけないわ わたしも中学三年生♪

   陽子の裏の顔を僕はもう知っていた。好きになった瞬間は、そんなことはどうでもいいことだった。彼女がどれだけ負の顔をもっていたって、僕を好きだと言ってくれた迫力の前では、馬の耳になんとかだ。うるさい虫ほどの警鐘にもなりはしない。だが、嫌らしいことに負はそれだけでは収まらない。
   恋は希望に比例するのだろうか。いいや、絶望にこそ比例するといえるのではないか。加法ではなく減法、ここもだめ、あ、そこもダメ、あれもだめなんだ、引いて引いて、気づいたときには、大元までが陰極に傾いているその境目こそが、失恋なのかもしれない。
   では、加法に転じるものはなにもないのか?虚しいことに、僕らは、それを算出できはしない。善悪という観念があやしくなって久しいが、世のありとあらゆる交差は、どれだけ細分化し多岐にわたろうと、とどのつまり、善し、悪し、という昔ながらの対極に分けられてしまう気がする。けれどもそこまでどうしてなかなか極められないのかというと、そこに、情念という、僕らごときではどうにもならない生物本来の性癖が、必ず、迷わせる情報を与え横槍を入れてくるからだ。その穂先は鋭く、決意の影にひっそりと佇む怯懦(きょうだ)をひきずり出す。こと恋愛に於ける男の決意など、なんともろいものか。あなただけよ、そのひとことで、鉄腸も蕩(とろ)けてしまう。
   僕らは、幼い頃から情けと優しさと、そして強さを仕込まれて育つ。それは、許せるか許せないか、という判断力を肥やす。強くなれ、しかし優しくあれ。それを決めるのは硬い意志であり、信念であり、情愛である。だが、大人は教えてはくれない。決意に、人としての本能など必要ないって事を。冷血にならなければ、人は褒貶(ほうへん)などできるものではない。ましてそれより至難な決意をや。
   
   店がひけた真夜中のことだった。
   飲み物を取りに行こうとして階段を半ば降りたとき、母とキミヨさんの話し声が聞こえてきた。

   「産婦人科で検査したの?」母の声だ。
   「はい、連れていきました。よかった。妊娠してなかった」物静かにキミヨさんが応えた。
   「よかったわね、陽子ちゃんも可哀想に」
   「すみません、ワタシのせいなんです。ワタシがあのひとをほったらかしていたから…」
   「そうよ、あんたもいけない。せっかく所帯もったんだから、我慢しなきゃ。駆け落ちまでして一緒になったんだろ?大恋愛したのにどうして浮気なんかしたの?」
   「魔がさしたんです。むしゃくしゃして、優しく声かけられたら、止められなかった」
   「ちゃんと別れたの?」
   「はい。別れました。家も心配だったし、まだ小さい娘もいますから、それとなく様子を見に帰ってたんですけど、まさか…」
   「どうしようもなかったでしょうね、陽子は。不憫な子だ」
   「ワタシのせいです。あのひとをそうさせたのも、陽子があんな目に遭ったのも…」
   「自分を責めちゃだめよ。責めたからって、どうにか出来るわけじゃないでしょう?陽子は妊娠してなかったのね?」
   「はい、だいじょうぶでした。姉さんには、お世話になりっぱなしで、どうお礼すればいいのか…」
   「そんなことは考えなくっていいのよ。あなたは陽子のことだけ考えていなさい。ショックだったんだから、どうなっても不思議じゃないでしょう?叱っちゃだめよ。あの子は被害者。忘れられたらいいんだけど…」
   「ヨシ坊と付き合ってるみたいなんですよ。ワタシはこうちゃんがいいんだけど、姉さん、お嫌でしょう?」
   「ごめんなさいね、そうしてほしいの。恒吉は、思い詰める質だから、陽子の秘密知ったら、何仕出かすかわからないもの」
   「はい、わきまえています。陽子はこうちゃんを慕っているようだけど、片思いですよ。陽子にはヨシ坊がちょうどいい。安心なさってください」
   「陽子はどう?まだ心を開かない?」
   「はい、自業自得です。ワタシのせいだとあの子も思ってるでしょう。仕方がありません。時間をかけて、仲直りしてゆかないと」

   うすうす感じていた陽子のもう一つの顔。けっして語られない、暗部。僕は、その場をいつまでも動けなかった。慄えとともに来たるこの溢れるような愛おしさはなんなのだろうか。キミヨさんの浮気なんて知らなかった。留守中の陽子は、苦労しただろう。彼女は長女だ。妹たちの面倒をみなきゃいけない。健気な、陽子の面影が浮かんだ。母親の顔をした陽子が、その面影に投影される。ヨシ坊に愛撫されて希希とした面持ちをする陽子が、更に、みっつの顔を不斉合成した。優先的に生成されるのはどれだろうか。
   僕は、その時、陽子を初めて怖いと感じた。しかし、無償にも思えるその愛しさは、いつまでも、消えなかった。

   たくさんのことを至急に整理しなければならなかった。何かに向かって僕は奔りだしている。どこへ行くのか知らないけれども、僕は、もう、止まらない。散漫だとからかわれていた性癖は、いったん集中を試みれば、忘我のはざまに迷いこむ。時流が逆行しはじめると、しなければならないことが、姿を現す。
   陽子の言葉を信じはしない。だけど、騙されてあげよう。その嘘にお付き合いしてあげよう。おまえが怖いのなら、その元を断ってあげよう。この身がどうなろうが、構いはしない。先ずは、そこから、と。

   ヨシ坊は叔母のスナックで住み込みながらバーテンをしていた。不用心な店だ。営業していない昼間でも、鍵はかかっていない。ベルトをズボンから抜き、金具をオモリのように垂れさせ、手にその反対をぐるぐる3重に巻いた。階段の踏み板を、金具が、コトンコトン、鳴らせる。上がりきると、アルコールの腐敗臭とともに、散乱した屑の山となった机の向こう、センベエ布団にヨシ坊を見つけ出した。ひとりだ。陽子と付き合えたら、女を全部切ると宣言したのは嘘じゃなかったようだ。

   「ヨシ坊!!」
   声音を調整できなかった、甲高く響いたろう。
   「なんや、こうちゃんか。どうしたんや」
   「陽子と今日会うんか?」  
   「おお、会うで、こうちゃんには悪いけどな」
   「あいつが好きか?」
   「ああ、好きや。こうちゃんと一緒くらいにな」
   「陽子は何て言うてんねん」
   僕の右手のベルトを見て、ヨシ坊はムクッと起き上がり、身構えながら応えた。
   「好きやと言うてくれた。俺と一緒になりたい、て」
   「そうかぁ、良かったな。相思相愛やんか。で、陽子俺のことはなんて言うてる?」
   「さぁ、聞いてみたらええやんか陽子に、毎日会ってるんやろ」
   語気が荒くなってきている。
   「さぁてどうかなぁ。おまえみたいに毎日かなぁ」
   「どうせ俺のことも大嫌いて言うてるやろ」
   「どっちでもええやんか、そんなこと。好きやったら、好きでいてくれるだけでええやんか」
   「いいや、こうちゃんをアイツは好きや。オレでもそんなことぐらい分る。なぁ、こうちゃん、なんでや?オレに紹介したんは、こうちゃんやないか?」
   碧や赤が混じった口髭が立った。眼はもう、笑ってはいない。
   「陽子が望んだからや」
   「違うやろ、試したかったんやろ、アイツの気持ちを。オレはそれでもよかったんや。いつかオレに惚れさせたる自信もあった…」
   「なら、問題ないやないか。陽子とうまくやってけな」
   「ならそのベルトなんやねん?オレをしばく気か?」
   「これか?そうや、おまえをしばくんや今から」

   国鉄京都駅前の市営バスに乗り、大原バス停下車、三千院への参道を呂川に沿って上っていくと、しば漬け屋や雑貨の店が軒を連ねている。参道が尽きる辺りは魚山橋。左に曲がると、そこが桜の馬場と呼ばれる三千院の門前だ。厳めしく格調高い三千院の石塀に圧倒されるとガイドブックに記載されているが、観光でない者にとってのそれは、ただの石塀にすぎない。
   三千院を挟んで流れるふたつの川がある。右手の川が呂川、左手の川が律川だ。
   
   いかなる命題Pに関しても、「P」も「Pでない」もともに真ということはない、という矛盾律の原理へ挑戦したことがあるだろうか。形式論理学の基本法則には、同一原理・矛盾原理・排中原理・充足理由の原理の4つがある。排中原理とは、一般的には「AはBでも非Bでもないものではない」という形式をもち、Bと非Bとの間には中間の第三者はありえない、ということで、矛盾原理を補足するものである。未来事象に関する命題については真でも偽でもない第三の可能性を認めざるをえず、ここから記号論理学では多価論理学の特色として排中原理を認めない場合があるそうだが。同一原理とは、「AはAである」の形式で表されるもので、概念は、その思考過程において同一の意味を保持しなければならないということ。つまり矛盾原理は、「Aは非Aでない」または「SはPであると同時に非Pであることはできない」という形式で表す。この原理は、一定の論述や討論において概念の内容を変えてはならないことを意味し、同一原理の反面を提示する。最後の充足理由とは、事物の存在や真なる判断はそれを根拠づける十分な理由を要求するという、正しい思考の守るべき原理である。

   僕は、僕であり、僕ではない、このふたつはともに真ではないか?まず僕は、私でも私でないものでもないが、私と私の間にいる私ではありえない。僕は僕であり、僕でないものであることはできないのだ。そう、僕は、僕でしかない。僕以上にはなれず、僕以下にもなれやしない。

   「こうちゃん、こうちゃんは死にたくなったことある?」
   下着をつけながら陽子がつぶやいた。汗も拭かずに、僕らは、毎晩抱き合った。久子さんも来なくなり、ヨシ坊も来なくなり、僕らは二人きりの夜を、過せるようになった。ヨシ坊に殴られた腫れが引いた頃だっただろうか。世話女房気取りの小さなお嫁さんのお節介には閉口する。どうせなら、ヨシ坊の方にそうすりゃいいのにと、意地悪いひとことでも言ってやればよかったかな。静かな夜が、僕らに訪れた。それはいいことなのだろうと、僕らは悦んだ。だけど、それはいいことなんかじゃなかった。少なくとも陽子は、孤独にしてはいけなかったんだ。精神の安定を失っていた少女の、思いつく紛らす手立てなんて、そんなにありはしない。異性によって出来た瑕は、異性によってしか埋められない。たとえその瑕口が、より深刻な結果を招こうとも。事実陽子は、そうしようとした。
   「ないよ。なんでや?」
   「別に意味はないよ。ただね、そういうときがこうちゃんにもあるのかな、って思ったの」
   「にも、ってことは、おまえ、死にたくなるときがあるのか?」
   「うん、あるよ。今日ね、薬屋さんに、睡眠薬を貰いにいったの。それでね、これ何錠飲んだら死ねますか?って聞いたら、驚いて、売ってくれなかったの」
   「ふ〜〜ん、そりゃそうだろうよ。ましておまえは未成年だしな」
   「ねぇ、こうちゃん、ヨシ坊になにか聞いたの?アタシのこと」
   「いいや、なにも聞いてないよ。済まんな、喧嘩してしまった。だいじょうぶだよ、痛み分けだったから。あいつ、強くなったよな」
   額を指でつっつくだけで、びぇーーんって泣いてたヨシ坊は、もういない。いるのは、水商売を怖じることなく渡ってゆけるヨシ坊だった。半殺しにしようとして、されたのは寧ろ僕の方かも知れない。
   「怒らないの?アタシのこと」
   「どうして?」
   沈黙ののち、
   「ね、死のうこうちゃん。アタシと一緒に死のう」
   「理由は?」
   「理由がなければだめ?太陽が眩しいから?」
   カミュのような言い回しをする。まさか14の娘が「異邦人」を読んでいるわけがない。思いつきなのだとしたら、案外、陽子の感性はフランス文学的情緒に根ざしているのかもしれない。少し、格好良い。
   「死んで欲しいのか?俺でいいのか?」
   「うん、こうちゃんがいい。他の人なんか要らない」
   死にたくなるほどの苦しみなんて、あるのだろうか。僕には理解できなかった。何気なく流れの中に投影された一言が、全てを一変させることだってある。死とは、その最たるものではないか。どう仕様もないぎりぎりのところは、どう考えたって、終着点じゃないことの方が多い。なにかあるのだ、そこまで追いつめられない方法が。それを捨ててまで、短絡に死を選んでいいものか?心が騒いでいたが、ふたをした。どうしてかって?陽子が微笑ながら誘ったからさ。滅びって、そういうものでしょう。

   三千院を散策した後、僕らは早い夕食を摂った。給仕に宿を尋ねると、手頃な値段の民宿を勧められた。紹介料でもはいるのだろうか、給仕は異常過ぎる親切を見せ、自ら案内を買って出た。僕らは夕焼けを背中に浴びながら、導かれるまま草深い森を抜けた。蝉の声が、通り雨のようにふってきた。森全体の木々が騒いでいる。手はつながない。僕らはそれまでのように、なにひとつ変わることなく、一定の距離を置き、歩いた。戻ることはない、暮行く山道を。
   宿帳にどう書き込もうか思案していると、陽子がそれを奪って、兄、妹、と記入した。兄妹か、なるほど、とその機転に舌を巻いた。機嫌を躁鬱で二分化させるとしたら、僕らはどう分類されるだろうか。男と二人っきりで宿をとるなんて、彼女には初めてだったろう。十六歳と十四歳の少年少女が、泊まるのだ、宿主の怪訝な顔つきは我慢しなきゃいけないだろう。そう、僕らは、いろんなことを我慢する。そうしていろんなことをそこから学ぶ。それを経験と呼ぶのならそれでもいいだろう。だが、僕らが学ぶのは、倫理ではなく、境界だ。ボーダーライン。精神病と神経症の境にある境界的人格障害。
   愛情飢餓によって生じる、衝動的で見捨てられ感の強い不安定な状態のことだ。アメリカではボーダーラインは80%、親からの暴力虐待、性的虐待から生ずるが、日本では80%が過保護状態から生じ、虐待はわずかに6%であるのだそうだ。性的虐待は1%にもとどかない。治療はきわめて困難ではあるが、認知行動療法や力動精神療法を主に治療が行われているのが現状だ。町沢のデータでは、ボーダーラインは1年間治療が続けば約20%寛解に至る。そして30代の半ばを過ぎれば、大体ボーダーラインの症状は消失していく傾向にある。
投薬としては、カルバマゼピン、ハロペリドール、炭酸リチウム、SSRI(選択的セロトニン再吸収阻害物質)などが効果があるといわれている。
   しかし、精神医学会に診断基準が出来たのは二十年後のことだ。僕らは、だれもが孤独にボーダーラインをさまよい、だれもが自身でそれを克服してゆかなければ成らなかった。
   科学は正しいという迷信を払拭出来る時代がくるのだろうか。ただの数式に肉体ならまだしも、心が表わせる筈がないのに、精神医学、笑わせるんじゃない、おまえらみんな、ただの宗教団体の司教じゃねぇか。嘯(うそぶ)く僕の独白は、僕自身に言い聞かせているようだった。
   
   二組の布団が敷かれていた。僕らは兄妹に見えただろうか。陽子が布団を引っ張って、くっつけた。灯が閉ざされ、闇の中、衣服を脱ぐ音だけが散る。浴衣を羽織りながら、アタシ色黒いから、と日焼けを気にするが、だいじょうぶさ、なにも見えやしない。おまえも、そのからだも、そして、おまえの浮気心も。
  「こうちゃん、どれにする?」と陽子がトートバックから、錠剤を出した。
  「こっちが睡眠薬で、こっちが鎮痛剤」仕分けながら、「持ってきてくれた?ナイフ?剃刀?」
  「両方用意した。好きなの選べよ」
  「いいのね?本当にいいのね?」
  「くどいよ」
  「八重子オバサンに叱られちゃうね」
  「いいよ、気にしないで」
  「こうちゃん、アタシが好き?」
  「ああ、おまえよりね」
  「アタシだって大好きだよ」

  僕は、この瞬間、生の終わりではなく、恋の終わりを自覚していた。

  ちょっと散歩してきます、そう宿主に告げて、僕らは暗い庭に出た。紅染の三日月が夜空にあった。蝉の声は、やむことがない。陽子が、腕にしがみついてきた。少し、ふるえている。寒いのかい?と訊くと、首を左右に振った。真夏だった。風もない。なのに、僕らは、歯の根が噛み合わないくらいふるえていた。僕らは、まだ知らなかった。僕らがそうするために、まだひとつ足りないものがあるのだということを。
  十分ほど歩くと、呂川の川縁に出た。月明かりにせせらぐ水面が、蛍のように晦明(かいめい)する。その彩りを伴奏するかのように、かわつらを涼風が渡った。大原の起こりは定かではないが、西暦八百六十年慈覚大師円仁が、声明業の精舎を大原の魚山に建てたとの説があるそうだ。下ること百二十年あまり、天台宗の学僧で、浄土教の理論的基礎をきずいた源信が、妹の安養尼に阿弥陀三尊へ給仕させるため、大原に極楽院を建立したとの説もある。隠れ里、世捨て人がこの世の果てを見る終焉の地、大原三千院。恋に疲れた女がひとり、歌われるほどの情思がただよっているようには思えない。この世の果てに、僕らは辿り着いた。
  「睡眠薬を貰おうか」
  「ここで死ぬの?」
  「ああ、腹切って、川に入ろう」
  「それじゃ離ればなれになっちゃうよ」
  「手をつないでるから、それでいいじゃないか」
  「でも、苦しくて手をきっと放してしまうわ」
  「その時は、仕方ないじゃないか、人は二人のままではいれないよ」
  「こうちゃんはアタシのことなんか好きじゃないんだ」
  「それももうどうでもいいだろう」
  そう、僕らは、ここで、死ぬのだから。陽子はここに至っても、自身に起こった不幸を教えてはくれなかった。初めての夜、陽子は歓喜に酔いながら僕に抱きつき、脚を背中に絡ませた。初めてなのに、血が出ないね、と囁くと、返事はなく、痛くもなかったみたいだね、と更に呟くと、あ、少し痛くなってきた、と消え入りそうな声で返答した。返事を求めていたんじゃない。行為を確認しただけのことだったのに。
  あの時、僕は、悟ってあげなくてはいけなかったんだ。どうしてそんなかなしい嘘をつくのか、を。
  僕らはなにひとつ真実を知らず、虚実のまま、現実を錯覚する。
  「じゃ、飲むよ」
  「待って、アタシも飲む」
  「まさか、ビタミン剤じゃないだろうな?」
  「ひどい、こんなとき冗談言わないでよ」
  「水、ないな。咽、とおるかな。この川の水、飲めるかな」
  「汚いよ、きっと。飲んじゃだめ」
  「じゃ、腹切るね」
  「それも駄目、こうちゃんだけ先いっちゃうじゃない」
  「難儀なやつだな。入水するかこのまま?」
  「アタシ泳げるよ、こうちゃんは?」
  「泳げると思う。でも、ここじゃ、泳ぐも何も、深さが足りない」
  「ねぇ、もう一度最後に抱いて」
  「ここでか?」
  「うん、ここで」そう言い終えぬうちに、陽子は浴衣を脱いだ。十四とは思えない放恣な四肢が微風に香った。

  こうして僕らの夏は終わった。
  
  僕らは、死ななかった。捜索願まで出しかねない勢いだったらしいキミヨさんが、陽子の処遇をどうしたのか、僕には知らされなかった。大阪に戻った僕らが、二度と会うことはなかったからだ。逃げるように、陽子は、沖縄に帰っていった。四年後、陽子は静岡で結婚し、男の子をもうけたそうだ。だが、翌年に離婚、沖縄に帰郷した。キミヨさんは糖尿病を患い、闘病生活をいまも続けているらしいが、時折、母に近況を報告していたようだが、帰郷後の陽子の消息は杳(よう)として知れず、ただ、申し訳ない、とばかりの謝辞がいつも並ぶのだそうだ。
  母は言う。内面に「剣」をかかえた因の霊魂がある。因には、序列があり、陽子の性(さが)はその最高位にあるという。男はその性に惹かれ、胸を剣で貫かれたた後、地獄におちる。だけど、僕は死ななかった。そう反論すると母は、こう答えた。

  「それは奇跡なのよ。それだけあの娘は、おまえを好きだったのかしらね」

          

          ふりむきながら唇をちょっとなめ
          今日の私はとてもさびしいと目を伏せるあなたは
          気絶するほど悩ましい
          
          ああまだだまされると思いながら
          ぼくはどんどんおちてゆく

          ああ嘘つき女と怒りながら
          ぼくは人生かたむける

          うまくゆく恋なんて恋じゃない
          うまくゆく恋なんて恋じゃない

                                    
                      作詞 阿久悠

    呂川の川縁、浴衣を脱いで裸になった陽子の肢体が脳裏ではじけ、精一杯さようならという声とからだを、風がさらっていった。
    見上げる僕はさようならを、そうさ、云えなかった。





                                                                了
2006 05/07 09:22:18 | none | Comment(0)
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   大原心中(一)


            ジュリーの危険なふたりが大ヒットして、レコード大賞は間違いない(不可思議な審査で結局獲れなかったんだけどね)、っていう年、僕の周辺は相当に騒々しい事になっていました。

    まず、16歳だったんだけど、高2の1学期末テストが終わって試験休み(一週間くらいあったかな)中に、インター杯にむけて尻に火がついたようなサッカー部の猛練習中に腰を痛めて、休学に追い込まれてしまったことがある。80キロもあるもっと痩せろよ男を肩車して、立ったり坐ったり屈伸運動するのだけど、まさか、ぎっくり腰になるなんて思いもせず、始めは調子よかったんだけど(これでも腰のバネは天性って褒められてたんだ)、途中突如痛みが背中を下から上に走ったんだ。経験ないことだからそのまま病院に行かずに帰宅して何事もないように寝たら翌朝、下半身が動かない。ぴくりとも動かない。こりゃ大変だってんで、両腕使って、とにかく起き上がって坐ったら、激痛が背中の上から下へ駆け降りた。こりゃいかんと、母の肩を借りて、病院へ。腰が動かないと、下半身は汗かくだけのやっかいものにすぎず、やることったら、小説でも読むか、漫画かテレビかステレオかラジオか、皆受け身。精神的にも、どんより鬱屈してくる。鬱屈になれていない僕は、もう何をするのも嫌になって、何を見ても嫌悪ばかりで、テレビのお笑いなんかも疎ましくって仕方がなくなってきてしまった。2週間くらい治療して、ようやく痛みが和らぎ、歩行できるようには回復したんだけど、休み癖っていうのか、学校行かないってことに慣れきっちゃって、医者も最低ひと月は安静にしてなさい、などと嬉しいこと診断してくれるものだから、ついつい、そのデンでひと月、怠惰な生活をくりかえしてしまった。こうなったらかんたんに後にはもどれないんだよね。挙句に、中途半端がいちばんいかん、男やったら潔くリセットせんかい、と屁理屈こね繰り回す始末。
  で、出した結論が、休学。正直なところ、居心地よくないとはいえない倦怠病にまだまだ浸っていたかったのだろう。
  
  次に、田舎から、従妹がある暗い事情を抱えてやって来たんだ。14歳だった従妹にとっては、それはすごく切実な問題だったから、ここには記せないけど、母親とともに、昔から可愛がってくれたらしいうちの母を頼って上阪して来たんだ。それでとりあえず、店の2階、余っていた部屋に逗留することになったこと。僕の部屋は二部屋あって、一部屋しか使っていなかったんだ。

  三番目は、母が営むスナックの常連客だった港湾労働夫の奥さんが、赤ん坊抱えながら遊びに来はじめたこと。母親同士友達だったらしく、彼女の親から宜しくなんて頼まれたんだろうか、遊びに来なさいって母の方から声かけて、尋ねてきたらしい。住まいも近かったんだ。奥さんは、僕にとっては充分大人だったけど、まだ22歳の若さだった。初めにやって来た時、三人とも人見知りしない性分だったようで、調度田舎から来たばかりの陽子(従妹)やキミヨ(従妹の母親)さんとすぐに意気投合し、楽しかったのかな、毎日遊びに来るようになって、静かだった部屋がにわかに賑やかになったんだ。奥さん、田舎で見合い結婚して、すぐに大阪に出て来て、友達も親戚も親もいず、夫も朝早く出掛けて夜も遅いんだから、心底、心細かったのかもしれない。

  四番目が、担任の好意で休学届けが受理されてからしばらくのち、それどころじゃなかったのに、毎日が休日ってのは、なに思いつくのか、おびただしい数の手紙(ラブレターとは、素直に読む限り、絶対に感づかれないように比喩の限りを尽くたつもりだった)をクラスの女の子たちに出したのさ。返事が戻った中に、告白を読み抜いた女生徒が何人かいて、そのまま文通に発展してしまったこと。手紙毎日書くって、大変なんだよ、実際。相手もどういうつもりか、
まめに返事くれるから、こっちも応えなきゃならないだろう?そしたらさ、手紙の中にも、もうひとつ、世界が誕生したような気になってくるんだ。こりゃ、結構きついんだよ、現実と違うんだからね。しかもさ、複数相手だから、返事書く前に、それまでのやり取りを復習しなきゃいけない。あ、それ前にも訊いたよ、なんて指摘されたりしたら困っちゃうじゃん。

  5番目、これが最もきつかったんだけど、ある飲み屋界で、しようもないことでケンカをして、逆上した相手に、腹を刺されてしまい、入院しなくてはならなくなったこと。相手には、将来を誓い合った彼女がいて、その彼女が、事件を警察沙汰にしないで下さいと、なんと泊まり込みで看護してくれたんだけどさ、見た目はスケバン(古い?)だったけど、意外に気立てがよくって、細かいところにも配慮が行き届くみたいな、存外可愛らしい女性(2歳年上でした)でさ、個室でもないのに、補助ベッドを病院に借りて(有料だよもちろん)かたわらに設置、明け方まで、寝汗を拭ったり、咽の渇きを気遣ってくれたんだ。純粋かそうでないか、そんなこと疑う余地もないくらい、彼女の奉仕は徹底してた。もし仮にそれが嘘だとしても、信じきって完全に演じ切れば、それは、真実を超えることだってあるんだ。


             今日までふたりは、恋という名の
             旅をしていたと、言えるあなたは、年上の人、美しすぎる♪

  変な歌流行ったものだからまいっちゃうよね、世の年上女は、すわ!って浮き立ったのでもなかろうに、女、女、女の五つの要素がこの歌と混じり合って僕を雁字搦めにしてゆく。今でも、この歌聴くと、想い出してしまうくらいだよ。

       
  アンコと呼ばれたその職業は、港に着いた積荷を、文字通り担いで倉庫や運搬車まで運ぶ。肉体作業のなかでも、これほどキツイ職業はないかもしれない。疲れた身体は酒でしか癒せない。いつの時代も、男の行動パターンはコンサバさ。痛かった腰の痛みが、飲んだら、嘘みたいに消える。こんな魔法を、太古の祖先たちですら、麻薬とは認識していなかった。食うために、肉体を極限まで痛みつける。走り、投げ、担いで、歩きまわる。ウンテンさんは、中背で筋肉隆々、日に焼けて、端正なマスクをしていたから、飲み屋の女の子に騒がれていただろうに、梯子の最後には、必ず、母のスナックで締めるんだ。母に、それだけの魅力があるというよりも、酔えば郷愁の念がやまなくなるからなのかな。料理の下手な母のつき出し料理に舌鼓を打つウンテンさんは、いい男でした。
  毎晩、ウンテンさんの若妻は赤児とふたりっきり。無聊は、心に隙を生み、もうひとりの自分を誘い込む。誰でもそうだとは言わないけれども、その人の置かれた状況次第のところはあるけど、必ず、もうひとりの自分を認識しはじめちゃう。信じたくなくても、これが人間なんだ。従妹が母親と逗留するようになると、特にこの14と22の女ふたり、馬が合ったんだね、100年の知己を得たように、べったり、になっちゃった。

  慕われてはいないけど、嫌われてはいない僕を挟んで、なんとも奇妙な日々が続いた。朝9時になると、若妻は赤児をおんぶして、お弁当提げて従妹を起こす。なにせ、三人とも夜中の2時、3時に就寝するのだから、朝、目覚めるわけがない。若妻の活力はいったいどこから湧いてくるのだろうか。

  「こうちゃん、お弁当食べて、お腹空いたでしょ?よっちゃんも(陽子のあだ名)食べてね、たくさん作ってきたから」

  旦那に持たせるお弁当を作る間に、三人のお弁当も作ってしまうのだそうだ。面倒じゃないって謙遜するけど、手際の良さには、彼女の良妻ぶりを見るような気がした。ただし、家事全般がそつなくこなせたとしても、一番肝心なものが彼女には欠けていたんだけどね。

  クロンボとのハーフでちりぢり頭のヨシ坊(ひとつ上の従兄)が、田舎から少し前に出て来てて、叔母さんのスナックのバーテンをしてた。ヨシ坊も時々来るから、部屋は、男女が入り乱れた状態になったんだ。ヨシ坊は、嘗ての面影など微塵もなく、180センチを楽に超える身長と、黒い肌、当時流行りはじめていたアフロヘアー(パーマわざわざかけなくても、まんまアフロだからね)で、おまけに若いから、飲み屋の若いホステス達に受けがよかった。彼に、私と別れた13年間で何があったのかつまびらかにはしませんが、別人を見るようだった。昔日のおどおどした面は一切見せず、自信に満ちあふれた眼光と、怪力を備えた厚い胸板、腹が立つほど長い脚、しかもまだ十七歳、彼が声を掛ければ、きっとどんなホステスもついてくる。

  僕、従妹、ヨシ坊、若妻、赤児、日替わりの10代ホステス、6人で6畳、狭いよね、呼吸困難になりそうさ。

  毎日どんな話をしていたのか覚えていないんだけど、性ホルモン分泌過多の男女が集まっているのです、当然、そこには、浮いたはれたののっぴきならないものが絡みつく。

  触れる肩、短いスカートから見える下着、腿が震え、胸が波うつ。ヨシ坊は、した相手しか連れて来なかったから、もう、重油のようにへばりつくケバイ女達。僕は、右に従妹、左に赤児抱いた若妻を侍らせてる。変になってくるよ。露骨な会話は、露骨な発想を喚呼するんだから。

  「こうちゃん、こいつの胸でかいやろ?揉んでみるか?」ヨシ坊が訊いてきます。

  「いやや、なに言うのん、ヨシ坊のいけず!」ホステスA子が、媚(なまめ)かしくもない、いやんいやんしながら、ヨシ坊にしなだれかかる。手は、彼の股にある。

  「こうちゃんに見せたれや、おまえのオッパイ」

  「見せてもええの?妬けへん?」

  「阿呆か、なんで妬くねん、はよう、見せたれや」

  横で表情を曇らせている従妹のきつい視線なんか気にしない、脳味噌空っぽA子が、黄色いブラウスを脱ぎ、やがて、ブラジャーまでとる。大きな乳輪がふたつ、露出した。恥ずかしくないのか、この女は。歳は、まだ18だという。

  「こうちゃん、触ってみ、柔らかいんやで、マシュマロみたいに」

  「阿呆、触れるかいな、はずかしいやろ、君も、はよ下着つけや」

  「あたしが揉む」と従妹が彼女の胸に手を伸ばした。「ホント、柔らかい。いいな、あたしこんなに大きくないもの」

  十四に癖に、マセタやつだ。

  「こうちゃんは、あんな大きな胸が好き?」と若妻が訊く。

  「なんで、そんなこと訊くん?」

  「あたし、小さいから」

  「嫌いや、あんなでかいのは」
     
  「ほんと?」

  「ほんまやて、変なこと言うなや」

  「こうちゃんは、小さいオッパイが好きなの?」

  「ノーコメントや」

  「だって、じっと見てたもん。触りたかったら、あたしの触ってね」

  「何言うてんのん、そんなん出来るわけないやんか」

  「どうして?人妻は、ええって言うよ」

  「それ変やろ。そんな奥さんは、旦那に嫌われるで」

  「それも、そうね、あははは」彼女は、薄い唇を少し左右に引いて、白い歯が僅かにのぞかせて笑った。羞じらいのないA子のがははは、という下品な笑いとは次元が違うとでも、誇示するように、それは控えめだった。
         

  そうした、下品で、猥雑で、不潔なんだけど悪臭がするほどでもなく、知的ではないけれども痴的すぎるってこともない、奇妙に調和した日々は、お決まりどおり、長くは継続しない。


   ある夜更けのことだった。ベッドで眠っている僕は、誰かとキスしている夢を見ていた。舌をからめて、吸い合い、頬や、唇を舐めあう。女の両腕は僕の首にまとわりつき、僕の右腕は、彼女の股間に沈んでいた。

  「こうちゃん、好き、もっと、抱いて」

  リアルな夢だ。名前を呼んでいるのは?あまりの快さに、ふと眼が醒めた。

  「ひ、久子さん?え?どうしたん」

  「しゃべっちゃだめ、抱いて」

  「ちょ、ちょっと待ってって、どないしたん、こんなことしたらあかんやん」

  「したくないの?こうちゃんは童貞なの?ちがうでしょ?」

  「そんなこと関係ないやん、こういう行為が許されへん、言うてるんや」

  「あたしのことなら、気にしないで。ばれない自信あるんだ。ほら、胸触って」

  彼女は全裸だった。私も、彼女に脱がされていたのだろう、気づくと、何も着ていなかった。その裸の腕から滑り降りて手を握った彼女はゆっくりと、彼女のこぶりな胸に導いた。

  「待ってって言うてるやろ、どうしてそんなことするん?」

  「あたし、人妻も恋をして構わないと思ってるわ。旦那だって、毎晩ホステスといい事してるんだから、女だけ我慢するなんて狡いよ。そうでしょ?こうちゃんもそう思うでしょ?」

  「思わへん。そんなの間違ってるやん。旦那のこと、好きなんやろ?好きやから結婚したん違うん?」

  「見合いよ、恋愛結婚じゃないわ。親戚に紹介されて、両親が賛成するから、仕方なしに結婚してあげたの。結構いい男だったし、優しかったから。でも、こうちゃんは違うよ。こうちゃんは好き。たまらないくらい好きなの。こうちゃんがあたしを嫌いでもいいのよ。でも、こうちゃん男だから、したいでしょ?したい年ごろだものね。あたしが、させてあげる。好きなだけさせてあげるから、ねぇ、キスして、抱いて」

  「嫌やて、そんなんできへん、ウンテンさんに悪いやないか」

  「旦那のことは忘れてよ。絶対にバレないから。もしバレても、相手がこうちゃんだなんて絶対に言わないよ」

  「そういう話やないやろが。そもそも、そういうことがあかん、言うてんねん」

  「まぁ、お堅いこうちゃんだこと。こっちは、ずっと正直よ」

  と彼女はもう一つの手で握っていた物を、刺激した。そして、それに付随するかのように、悩ましくささやく頭を、下へ移した。

  驚いた僕は意志にひるんで彼女の肩をつかみ、力いっぱい引き揚げた。

  「何、すんねん!」
   
  「こんなことしたことある?」

  「ない」

  「教えてあげるわ」

  「要らん、そんなん、要らんって」私は、ベッドから抜け出して、脱がされた下着を探した。

  「抱きたくないの?あたしのこと、嫌いなんだ・・・」

  「違う、嫌いやったら、この部屋に入れへんよ。でも、こういうことは、あかん、って」

  僕は彼女を振り返らずに、パジャマの下を穿いた。

         

       十六歳の忘れられなくなる一年の幕開けだった。


(二)


   「来年、4月8日、必ず登校しろよ、アズマエ。いいか、その日は、おまえにとって試金石になるからな? 」


  「はい、必ず、登校します」
   休学に関する診断書やら休学届けやその他の書類を携えて、担任だった向田先生は、帰っていった。午前中だから、母はいない。替わりに、久子さんが冷たい飲み物を出し、陽子が冷たい果物を出した。
   甲斐甲斐しい二人を見て(向田先生は40代だったろうか)、先生は怪訝そうな表情を浮かべていたけど、同時に危ぶむような顔をなさっていらっしゃったのが印象的だった。先生は不安だったろう、どうして親ではなく、若い(ひとりは若過ぎるけど、妹じゃないし)女二人が、まるで同棲しているかのように、そこに同席するのか理解に苦しんだだろう。それは、最後まで彼女達の素性を問わない態度に、よく表れていた。
   季節は、ちょうど今頃だったかな。雨の印象が薄いってことは、きっと、16歳のこの年も、空梅雨だったのだろうか。毎日が、狂うように暑い、初夏だった。
   
   未遂に終わりながらも、久子さんは、臆せず毎朝、やって来た。お弁当抱えて、赤ん坊を背負って。大概、僕はダブルベッドで熟睡しているから、寝かしつけた赤ん坊を僕の横に寝かせ、ちゃっかり自分も、服を脱いで、下着姿のまま、寝て、何してるんだろうか、ごそごそしてるのは、覚えてるんだけれども、こういう時って、眠りを妨げるような行為以外は、無視できちゃうものなのかしら、僕は、無視して、そのまま眠り込んでしまう。
   二人が目覚めるのは、お昼前、陽子が、隣室から起きてきた時だ。キミヨ(陽子の母親)さんは、大阪に本腰いれて住む決意を固めたようで、母に借金して、僕の隣の部屋を借りた。今じゃ消防法にひっかかってしまうに違いない違法建築のアパートだった。二軒の店舗つき賃貸住宅(2階建て)の間に狭い路地があり、入ると左手に階段がある。そこを上ると、裏の陽の当たらないアパートが十二部屋左右に6部屋づつ向かい合っている。母のスナックは向かって右でその2階が僕の部屋。その隣が調度空室だったから、キミヨさんは母のスナックに勤めるのも便利だからと即決したんだ。ご亭主からの連絡は、あった筈なのに、彼女は断固として帰るつもりがないらしい。それくらいの、何かが、二人の身に起こっていたのだろうか。
   「ちょっと、久子さん、あなた図々しいと思わないの?その格好はなによ。恥ずかしくないの?こうちゃんも平気なの?変だ、ふたり」
   毎朝、この苛立たしげな声に、目覚める。下着姿になるのは、暑いからだと、久子さんは悪びれずに弁解しているが言い訳にもならないのだけれど、一方の僕は、無実なんだし(でもないね)、弁解なんかしない。しかし、陽子の目には、二人一緒に仲良く同じ分量の汗を肌に浮かせている情況そのものが、許せなかったのだろう、日増しに、批難は排斥へと昂じてゆくのも、仕方ないことかも知れない。
   ある日、私は陽子に訊いてみた。
   「おまえ、誰か好きなヤツいてるんか?」
   「いるよ」
   「誰や?言うてみぃ」
   「テツノリ」ヨシ坊の本名だ。アガリエ家の男は、ほとんど「哲」の字が名前につけられる。祖父の好みだったのだろうか。だったら何故、一番可愛がってくれたはずの私は、「ツネヨシ」なのだろうか、母もその訳は知らないらしい。
   それどころじゃない僕はどもりながら、
   「あ、あいつが好きなのか?」
   「うん、格好良いもん」
   「そうかぁ、そうやったんか、知らなんだわ、まさか、ヨシ坊とはな」
   「あ〜、ちょっと妬いてる?」
   「阿呆か、妬くわけないやろが。おまえまだ14やぞ。中学生、分ってるか?ガキ相手、誰がすんねん
   「妬いてる、妬いてる、わー、こうちゃん怒ってるもん、わーい、こうちゃんは、ようちゃんが大好きなのでした〜」
   正直に書こう。私は、こいつを好きになりはじめていた。だからだったろう、私は、その気持ちが望む展開ではなく、正反対の地獄を選んでしまった。
   「ヨシ坊に、言うといたろか?陽子と付き合ったれって」
   「うん」

    僕の微笑は曇っていただろうか。

     ヨシ坊に伝えると、喜んで付き合いたい、と即答した。真面目に交際する、と訊かぬのに宣言し、実際、彼は、真面目に陽子との交際を始めた。17と14の男と女、それだけのことだ、と僕は吐き捨てるように、彼らが交愛する想像をすぐにしてしまい、ハラワタがぐつぐつ煮えたぎってくるのを、どうしようもなったんだ。

    これは、凄く失礼なことなんだけど、十六歳のガキが精一杯大人ぶって思考していたことだから、大目に見てやって下さい。

    いつも傍にあるもの、いつでも触れて、いつでも甘えて、いつでも抱きしめられる、近しきものが、ある日突然なくなってしまう。それは、僕のものなのに。それは、これからもずっと僕のものである筈なのに。空虚なまでの喪失感を、僕はこの時、自覚していないまでも、悟りはじめていたのだろうか。
    これは、嫉妬だったのだろうかと、私は、あの夏を想い出すたびに、胃がきりりと痛む。こめかみを締めつけるようなあの感情を、私は、どうやって凌(しの)いでいたのだろうか。
    数日後のことだった。
   「こうちゃん、毎日何してるの?」と、危ないままの久子さんと赤ん坊と三人で、テレビを呆然と見ていた僕に、久し振りに上がり込んできた(私はこの当時、部屋の鍵をかけたことがない)陽子が訊いた。
   「なんでやねん?」
   「観たい映画があるの、連れてってくれる?」
   「いつ?」
   「明日、だめ?」
   「ええぞ、梅田?ナンバ?どっち行きたい?」
   「こうちゃんと一緒ならどっちでもいい」
   これなのだ。この一言が、この14のマセタ少女の手練手管なのだ。こいつは僕が嫉妬しているのを感づいている。いいや、絶対に知っている。知っているから、こういう一言で、僕を繋ぎ止めようとしているのだ。何のために?と冷静に考察できる余裕は僕にはないのだから、もう、降参するしかない状況なのだろうよ。
   翌朝、6時に目覚めた僕は、隣の部屋の扉をゆっくりとノックして、陽子を呼んだ。返事がない。眠っているのだろうか。ドアノブを回してみると、回った。鍵はかかっていない。不用心だな、と、暗闇のなかを、進んで、台所の隣の部屋の闇に眼をこらした。そこに、陽子が、眠っている筈だった、ひとりで。
   しかし、闇に浮かんだ人型は、ふたつ。長躯のヨシ坊の腕枕で、胸に寄りかかった陽子の眠る白い横顔が、茫と開いた。上半身は、裸で、腰はシーツに隠れていたが、剥き出しの、健康そうな二本の脚が、ヨシ坊の毛むくじゃらの汚い脚によって別けられていた。

    僕は、逃げ出した。そう、逃げた。その光景から、その衝撃から、一刻も早く、離れたかった。走った。懸命に走った。階段を一気に駆け降りて、通路を抜けて、大通りに出た。朝だ。まだ人も少ない。車も少ない。中央大通りを僕はそのまま弁天町まで走った。息が切れても、苦しくっても、ばかみたいに、どきどきしながら、恐怖に追われるように、痙攣しはじめた腱よ断つなら絶て、と、念じ、祈りながら、それでも、走った。考えるな、想い出すな、忘れろ、忘れるんだツネヨシ、叱咤しながら、胸をいっぱいに浸しはじめた切なさを、手で抑えるかのように、胸に手をあてて、走った。50メートル6秒フラットの速さで。障害物は、走り幅跳び6メートル40の跳躍力で飛び越えて。風が僕をなぶり、抜けたスカイブルーの青空が嘲笑い、鳩や烏や雀がからかい、心が、死にそうだった。

    国鉄環状線弁天町駅を左に折れて、友人の家に行く。理由はない。ないし、あるわけがないし、あってもらっては、救われない。救われる?僕は救われに走っているのか?逃げているのか?いいや、想い出すまい、それに拘っては、必ず、もっと、もっと、ひどいことになってしまうんだ。とにかく友人だ。彼に会わなくては。会って何を話すかなんて、この際、たいした問題じゃない。友人の顔だ、そうだ、アイツの、特徴が皆無な、のんべんだらりとした、能面を見るんだ。注視するんだ。そこに、そこに、そこに、僕は逃げ込みに来たんだ。

   どうやって時間が過ぎたのか、想い出せない事って、あるよね。時の流れはいつもいつも残酷ばかり、ひとに投げかけて、せせら嗤(わら)う。僕は、義妹の洋子を必死で思い出そうとしていた。黄昏時、沖縄のどこかの街の、どこかの軒先で、僕は、黒いビロードのワンピースを着た、髪が真っ赤っかの2歳の女の子の手を引いていた。小さな赤いエナメルの靴が、かちゃかちゃ、鳴っていた。女の子の名前は洋子。

         ”おまえの妹だよ”

   誰かのしっとりした声がした。妹?僕に妹がいたの?そんなこと感じただろうか、僕は、女の子をしげしげと見つめた。女の子は、白人種のように、真っ白な肌をしていた。なんか、なんか、なんか、こいつ、気色悪いぞ、笑ってやがる、なんでだ?僕がおかしいのか?あったまきたぞ、いじめてやる。僕は、女の子の手を引いて、物陰に連れてゆき、真っ赤っかの髪を思いきり強く引っ張った。女の子は、ギャーと、凄い悲鳴をあげて、泣き出した。ざまぁみろ、気色悪いやつめ。

   違うんだ。分ってたよ。気色悪くなんてなかったんだ。洋子はあの時から、際立っていたんだ。見たこともないような美を前にした、ひねくれた幼児は、それを素直に受け入れられなかったんだ。美なら、僕の方が上さ。自負のめばえもあっただろう。

   去年、僕は洋子に再会した。あいつの美しさはもう手がつけられないくらいだった。小学生だというのに、僕は一目惚れしたよ。変だろ?妹だぜ?義理とはいえ、父親は同じなんだ。その時、陽子にも逢った。親族会だかなんだか知らないけれども、盆だったから、一族の親戚が一堂に会したようだった。陽子の両親も来ていた。陽子と洋子は同い年で、顔は大違いだったけど、雰囲気は、同じ名前だからかな、よく似ていた。挨拶して、そのまま、洋子と縁側に出て、庭を臨みながらくっついて坐った。クッツキ虫だった洋子は、会ってから、最後まで、僕からは離れなかった。いじめられた記憶はないのかい?そう訊けない僕は、仲良く肩を並べて、どんなことを話しただろうか。

   その光景を、後ろから、陽子はじっと見つめていたんだ。どんな顔色してたか、僕には想い出せない。

   足取りが重いってのは、こういうことを言うんだ、って感心しながら、僕は帰宅した。何故、帰宅したのだろうか。1週間、連絡せずに部屋に戻らなくても、母は、心配もしない。つまりは、一日くらい帰らなくても、全然構わないわけだ。なのに、僕の口は、友人に別れを告げ、ご馳走になった友人の母親にお礼を言い、脚は、家路を急いでいた。そうさ、急いでいたよ。恐怖から逃げたくせに、その恐怖に戻ろうとしたんだ。どうしてだか、分るかい?そのときの僕には応えられないよ。でも今の私なら答えてあげられる。僕はね、確かめたかったんだ、その恐怖の正体を。

  正体は、椅子に座って待っていた。

  「どこいってたのよ」頬に涙の跡が数条。

  「どうしたんや?」

  「映画連れてくって、約束忘れたの?」

  「いや、忘れてへん」

  「じゃ、どうして、誘ってくれなかったの?ひとりで観に行ったの?アタシはずっと待ってたんだよ」机に俯して、嗚咽が洩れる。

  「朝、呼びに行った、6時過ぎだったかな」

  「……」

  「鍵かかってなかったから、中にはいった」

  「……」肩が揺れた。

  「観た、お前の、裸を」

  「見たの?」振り返った陽子の顔は、眉も睫毛も、なみだでぐしょぐしょだった。

  「決定的やったな。おまえ、14やろ?もうそこまでしてたんやな」

  「違う、そんなことしてないよ!」必死な嘘だ。

  「嘘つくな。あんなん観て、何もしてへんて、誰が信じるんや。たとえなぁ、全世界の男が信用したって、俺ひとりだけは、信じへん」

  「本当よ、本当なの、最後までは嫌だって、抵抗したの。テツノリも分ってくれたよ。大切にしたいから、しない、って約束したんだから、嘘じゃないんだって信じて!」

  もっと必死な嘘だ。

  「言い訳すんな。聞きたくない。テツノリとうまくいって良かったな。祝福するわ。おめでとう。二度と、この部屋に入ってくるな!!」

  「こうちゃん!!」

  「出てけ!!おまえなんか、二度と口きくかぁ!!」

  「こうちゃん、こうちゃん、こうちゃん!好きなの」

  「はぁ?」

  「好きなのよ、こうちゃんが。分らないの?ずっと好きだったのよ。去年から、忘れられなくって、恋しくって、切なくって、会いたくって」

  「また、嘘か」

  「嘘じゃないわ、あたしは嘘なんか言いません。嘘つきはこうちゃんじゃない!」

  「とにかく、出てけ、話もうせえへん」

  「こうちゃん、好きなの、ほんとよ、好きなの、おねがい、信じて」

  私の臓腑は、もう溶けていた。だらしなく、微笑ながら、嬉しさに、恐怖も、吐き気も、死んじゃった心も、溶けて、ごちゃまぜになって、冷えて、ガラスになった。壊れやすい、薄くてもろい、ガラスになった。

  「本当か?」

  「本当よ、信じて」いいながら、陽子は私に抱きついてきた。僕は、もう負けていた。恋愛が勝負なら、僕は全敗だよ。こうして、負けることが、ちっとも苦にならないのだから。

  激しい口づけを交し、僕は陽子を押し倒した。押し倒された陽子は、両腕を僕の首にまわして、腰を意識させた。

  「して」か細い声が、耳を震わせた。



           線香花火がほしいんです
           海へ行こうと想います
           誰か線香花火をください
           ひとりぼっちのわたしに

           風が吹いていました
           ひとりで歩いていました
           死に忘れた蜻蛉が一匹
           石ころにつまづきました

           なんでもないのに、

           泣きました。


                      古沢信子
           
(三)

    

    どろどろの底なし沼のようだった。

   毎日が、朝も夜もなく、僕らは、ベッドの中で過した。時間はゆるみ、脳髄の底から、嬉戯と愉絶にただれた。

  いつもの時間にいつものように赤子を抱いてやって来る久子さんが、悲しい目をしながら裸で眠っている陽子に気遣いながら云った。

  「こうちゃん、若い娘のほうがいいの?この娘はだめよ、知らないんでしょ?教えてあげるわ。この娘は淫乱よ。男だったら、きっと誰でもいいんだよ。こうちゃんが相手にするような娘じゃないよ。昨日だって、ヨシ坊といちゃいちゃしてたよ。わたしが見てるのに、これみよがしにキスしてた。平気なのこうちゃんは?」

  「平気じゃないよ、平気な訳ないだろう?」

  「だったらどうして、こんなことしてるの?そんなにこの娘上手なの?14だよ?フタマタはよくて、不倫はだめなの?どうしてわたしを抱いてくれないの?」

  赤子がむずがる。抱っこを嫌がっているのだろうか、それとも、母親の胸の内がぴったり寄せていた頬から伝わったのだろうか。母の血と肉と心を、二百八十日間、影響されつづけていたんだ、どんなささいな事柄でも、赤子にはかくせはしないだろう。切れ長の目が凛々しい。ウンテンさんに似て、この子は男前になるだろう。

  「まだ、そんなこと言ってるんだ。久子さんはこれ見て、平気なの?それこそ訊きたいよ」

  「わたしは平気だよ。嫉妬しないもん。私にだって亭主いるし、愛してもらってる。こうちゃんが誰とえっちしても、焼く権利ないもん。たまにでいいの、本当よ、たまにでいいの、わたしを愛してくれたら、それだけでいいの。わたしは上手だよ、陽子ちゃんなんか足下にも及ばないくらい。ねぇ、拘らないで。亭主のことは忘れてよ。こうちゃんと、わたし、それでいいじゃない」

  「だめだって、そんなことはできへんよ。ほら、赤ん坊、泣いてるやん、お乳じゃないよね、ママの嫌なところに反応してるんや」

  
        『そう、君は、神にもならぶ、生命の創造主なんだ、そのことを忘れちゃいけない』

  
  
   ヨシ坊は、ピタリとやってこなくなった。なにか含みがあるのだろうか。僕と陽子の関係を知らないはずがない。なにかが、そのうちに起こる、よくないことが、きっと起こる、予感が拭えなかった。なんにしろ、備えなくてはなるまい。

  その夏は、猛暑だった。道をゆらす陽炎がたつ中を、僕は、いつもひとりで歩いていた。めまいしながら、ためいきをくりかえし、ギラギラ燃える太陽を見上げては、この身を焼き尽くしてくれと、祈っていた。

  大宰は、「生まれてすみません」って云った。生まれてきたために、犠牲になったひとがいる以上、僕に、泉谷が叫ぶ「生まれたくて生まれたんじゃない」なんて言葉は使えない。

       命は、あきれかえるくらいに軽いってことを、僕は知っていただろうか。

    会いたかった。あのオマセな小学生に会いたかった。陽子と同い年だ。日が暮れて、夕暮れどきになると、ひとは切なくなるものらしい。手紙は出さないから、返事も来ない。かわいい、かわいい妹、オマセで、生意気で、小憎らしいったらないくせに、甘えん坊で、くっつき虫で、石英のように透明なあの笑顔を、僕は、いつも想い出していた。会えなくても、話せなくても、この想いあるかぎり、ふたりは、けっして、はなれない。

   切なければ、胸に景色がうかんでくる。かなしいものなのか、たのしいものなのか、そんなことどうだっていい景色が、おもむろに、左右たゆたいながら、結ばれて、象形されてゆくその刹那の痺れ、僕は、次第に魅されていった。それは、いつも、予期するいとまもなく現れる。僕は、お気に入りのプラチナの万年筆を手に取り、大學ノートに文字を連ねた。

      きらきら星のざわめきが

      もし空から落ちてきたら、

      手にすくえそうもないから

      眼をとじて、

      まなじりをただす。

      夢のはじめは慄えるばかり。

      なのに、

      夢の終わりは、

      眠くなるほど、しあわせだ。

   ざわめきだらけのただ中で、僕は、笑っているのだろうか。

  

    連れとスナックに、ある時、行った。未成年だけど、断られはしない。カウンター席に男二人座り、ビールで乾杯。

  しこたま酔って、店を後にする。女の子がひとり店の外までついてきた。

  「また、来て下さい、こうちゃん」

  「あれ?君、誰?」

  「覚えてませんよね、徳ちゃん、私覚えてない?」

  友人は、しげしげと彼女をすわった眼光で確かめる。

  「覚えてへんなぁ、アズマエ覚えてるか?」

  「俺も覚えてないんや、可愛い子やったら忘れるわけないのになぁ」

  その時だった。

  そのスナックは、八幡という飲み屋街にあって、夕凪と変わらぬくらい猥雑な空間だった。酔っているのか、ラリっているのか、人は背筋を曲げて歩く、麻薬や暴力や売春が、珍しくもなんともない最下層の街だった。

  通りの向こう、白いスカイラインが止まっていた。マフラーをいじっているのだろう、地を震わせるような低い音を、誇らしげにアイドリングさせていた。

  四人だったろうか、僕らと同年代、崩れアイビーの服装、敵意丸出しの視線を僕らに送っていた。見知らぬ顔、それだけで、喧嘩には充分過ぎる条件だ。

  僕と徳は、睨み返した。地べたに座り込んでいた彼らは立ち上がり、さらに激しく睨み返してきた。

  低能児のような睨み合いが数秒続く。僕らは睨み返したまま、心配げな知り合いらしいお店の女の子に別れを告げて、帰りはじめた。数歩歩いたろうか、友人が鈍い音とともに突然倒れた。ブロックが背中にぶつけられたのだ。飛んできた方向を観ると、メンチ切りあった連中の方角、大声あげてげらげら笑っていた。

  ブロック。後頭部に当たれば、死ぬことだってあるだろう。そうか、殺意があったんだな。これはもう喧嘩じゃない。僕は、友人を置き去り、彼らの元へ走った。驚く顔と、迎える顔、怯む様子はない。

  手前でジャンプして、ご自慢のスカイラインのボンネットに飛び移り、近くの男の顔を蹴り上げた。集団がばらけた。ばらけ方が、規則正しい。包囲するつもりだろう。喧嘩慣れしているに違いない。僕は、もう覚悟を決めていた。

   ”お母さん、ごめんなさい、僕は今夜、殺人者になるかもしれない”

  もうひとりの顔面を蹴り上げた時、僕は脚をつかまれて、引きずり下ろされた。五人いる。寝転がってしまった僕を彼らは蹴った。腹、背中、腰、腿、あらゆるところに激痛が走る。何度も蹴る脚を両手でつかんだ。それを支えに立ち上がり、バチキをそいつにたたき込む。生半可な頭突きはしない。鼻梁と両目の間、そこを狙う。ヘッディングと同じだ。肝心なのは、一発でやめないことだ。連続させて、勢威をそいでしまわなければならない。

  「こらー!!!」徳が復活したようだ。5対2、多勢に無勢に変わりはない状況だが、暴れてやろう。

  どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、僕は、病院のベッドの上に寝かされていた。腹が、燃えるように熱い。

  「強運だったね、君、あと1センチでも中に入っていたら、内臓に達していた、そしたら、命、危険だったな」

  僕を覗き込んでいる医師が云った。

  ナイフで刺されていたんだ。徳が連絡したのだろう、母と陽子と久子さんの顔が、閉めていない手術室の向こうにのぞいた。

  「こうちゃん!死んじゃ駄目!!」

  そう叫ぶ陽子を、母がジロリと睨んだ。

  
         


                三つのマッチを一つ一つ擦る夜のなか
                はじめは君の顔を一度きり見るため 
                つぎのは君の目を見るため
                最後のは君の唇を見るため
                残りの暗闇は今の全てを思い出すため
                君を抱きしめながら
 
                               ジャック・プレヴェール
(四)



     「なんでそんなにビンを振るんや?」

     「こうしたら、炭酸が抜けて、美味しくなるの」

     「コーラって、炭酸が命やで?」

     「よく云うよ、これ教えてくれたのこうちゃんだよ」

     「俺が?いつ?」

     「ホントに忘れたのね、信じらんない。テルヤ(沖縄県糸満市字照屋)で、そうやって飲んで見せてくれたじゃない。あたしが、コーラなんて大嫌い、って文句言ったら、洋子ちゃんも同調してさ、そしたら、こうちゃん、ビン、思いっきり振って、こうしたら、美味しい大人の味になるよ、って云ってくれたの、覚えてないの?」

     「知らない、忘れたよ」


      病院には、夕暮れになると決まって陽子がやってきた。告げ口の好きな久子さんによると、ヨシ坊とのデートの後に、来るのだそうだ。陽ちゃんはきっと手のつけられない淫乱になるわよ、と、意地悪そうに陽子の将来を予言する久子さんもまた、毎朝、赤児はどこに預けるのだろうか、ひとりでお弁当を持ってきてくれる。病院の食事はマズイ、と決めつけて、朝の早い、亭主のウンテンさんを送り出した後、亭主のお弁当とは違うオカズを作ってるのだそうだ。

      「わたしは、こうちゃんが大好き。ホントだよ。ウンテンさんよりも、ずっと好き。こうちゃんが受け入れれてくれるまで、あきらめないからね。はい、あ〜んして、卵焼き、美味しい?でしょう?わたし自信あるんだ。何が食べたい?なんでも作ってあげるよ。こうちゃんが食べたいものなら、どんなことしてでも作るんだ」

      病室は個室じゃなかった。六人部屋で、窓側のひとつのベッド以外は、全部埋まっている。四人とも男だ。だから、入れ替わり立ち替わり、女しか見舞いに来ない私を、どこか敬遠している節があり、四日目だというのに、未だ会釈程度の関係しか築けていなかった。毎日、談合でもしているかのように、かち合わずにやってくる五人の女。母、叔母、陽子、久子さん、それにもうひとり。

      久子さんは、看護婦に毎度叱られるのに、わざわざカーテンを閉め個室状態にして、私のベッドにもぐりこんでくる。抜糸が済んでいないから、身体をよじると、腹に痛みが走る。だから、僕はずっと仰向け、無防備なままだったから、久子さんにとっては、しめしめ、なのだろう、抱きついてきてキスしたり、胸や腿をさする。帰着点は解り切っているから、私の両手は、下半身のそこをガードしている。すると、久子さんは、首筋にキスしはじめて、こそばゆいからやめろと、小声で注意すると、シーツに隠れた下半身を両手に押し付けてくる。あ、っと、反射的に、両手を放してしまったら、もう、最期だから、いくらずりずり押し付けられても、死守しなくてはいけない。なんてスケベな女なんだって思うのだが、どうしても、きつく叱れないのは、それなりの気持ちを僕が抱きはじめていたからなのだろうか。

     驚くことに彼女は、長いプリーツスカートをたくりあげて、下着を押し付けている。ガリガリに痩せているからだからは想像もつかないふくよかな感触に、鼓動は最大電力で電磁をまき散らす。

     「こうちゃん、触って、ほら、なにしてるの?パンティのなかに手入れなさい」

     「え?なんで笑ってるの?可笑しいの?変なこうちゃん。わたしもう濡れてるよ」

     僕が笑ったのは、その頃知ったちょっとエッチな小話を思い出したからだ。

           ある幼稚園の先生の家に、幼稚園児が泊まることになって、その夜、

           ひとつの布団の中に、寝た。

           ごそごそしている幼稚園児に、先生は訊いた。

           「なにしてるの?眠れないの?先生がちゃんと抱いててあげますから、しずかにおねむりなさい」

           抱きしめられた幼稚園児がこう返事した。

           「先生、先生のおへそ、指で触ってもいい?」

           「うん、いいわよ」

           しばらくして、

           「あらあら、そこはおへそじゃないわよ、もっと上にあるんだよおへそは」

           「うん、知ってるよ、ぼくもこれ、ゆびじゃないんだ」

      ツボに入ってしまって、爆笑してしまった私に怪訝そうな顔色を見せている久子さんに教えると、彼女も、腹を抱えて大笑いした。

      「その園児、おチンチンで、先生のあそこを触っていたのね?」

      「うん、そうだよね、そうモロに云わないところが、粋なとこかな」

      「こうちゃん、月並みなもの、大嫌いだものね、わたしは平凡過ぎるから、嫌なんでしょ?」

      「何いってるの、久子さん、もし本当に平凡なら、凄いことだよ。平凡なひとなんてね、この世にはひとりもいてへんよ。どれくらい凄いことか、判る?完全無欠の合理主義者ってことなんや。感情を完全に統御しなきゃ、無理やもんね、それは。だからこそ、突き抜けて、凄いんや」

      「じゃ、わたしも月並みじゃない?」

      「うん、エッチなとこは、群を抜いてる」

      「云ったでしょ、わたしはエッチだって。人妻だもん。なんでもありよ。どう、試してみる気になった?」

      「ならん、って。彼女もちゃんと出来たし」

      「陽ちゃん?あんな娘だめよ、淫乱だもん。こうちゃん、騙されないでね。あの娘ね、ヨシ坊とも毎日セックスしてるの知ってるの?セックスしたあとに、こうちゃんのとこに来るんだよ、風呂にも入らずに、そのまま、こうちゃんに抱かれようなんて、最低じゃない」

      相変わらず、パンツを手の甲におしつけながら、久子さんが毒づいた。そこは、薄切れ一枚だけど、体温どころじゃない熱さだった。

      「見たの?してるとこ」右手で、頬杖つきながら、訊くと、

      「ううん、ヨシ坊が自慢気に吹聴してるの聞いたの。柄の悪い取り巻きに、胸がこうだとか、こうしたらよがり声あげるとか、しまりがいいだとか、聴くに堪えない内容なの。ヨシ坊の取り巻きもね、きっと陽ちゃん狙ってるよ」

      いきなり、パジャマの下に手を入れながら、久子さんが更に毒づいた。手を、大きくなったそれにそえている。久子さんが眼をつぶりながら、それをさすっている。

      「ふ〜ん、ヨシ坊がそんなこと吹聴してるんだ」暗い陰が、胸を心地よさの裏をかすめて、なにかに沈んだ。

      「こうちゃん、動けないんでしょ?わたしが口でしたげるよ、気持ちいいんだよ、旦那も大好きだもん、わたしの口」

      「ばかなこと、云っちゃ駄目やん久子さん。同じこと何度も云わせんといてや。俺は、そういうの嫌いなの、まだ解れへんの?」

      「怒っちゃいや、幼稚園の先生役、したげるから、こうちゃんは園児ね、いい?」

      「ばかだなぁ、俺はおへそしか触らないよ、指で」

      「いや〜ん、ちゃんと触って、興味津々?指じゃなくっても、怒らないから」

      などという、破廉恥極まりない、個室とは名ばかりの木綿のカーテンの中、睦まじくもないふたりの興奮は、二時間続き、看護婦に、「なにしてるんですか!!」と怒鳴られる羽目に陥る。

       昼一に母と、叔母が入れ替わるように見舞うと、もう夕暮れだ。陽が沈む頃、

      「こうちゃん、元気?」と目の下に隈が出来た陽子がやってくる。そして、決まって、

      「疲れてるから、少し横にならせてね」と、ベッドに潜り込み、寝息をあっという間に立てる。久子さんの告げ口は、
褒貶(ほうへん)ではないのかもしれない。

      短いスカートのなかに、手を滑り込ませる。陽子もそれに応えるように、窮屈そうに両腕を僕の首にまわした。

      「する?」そう眼をつぶりながら、囁く声が、酔うくらい、なまめかしいんだ。  


       面会時間が終わり、就寝を看護婦から告げられると、消灯、同室の4人は、それぞれ、身の回りを片付けて、眠りについてしまう。だけど、彼らは、知っている。だから、きっと、寝た振りしながら、聞き耳を立てているだろう。夜な夜なくりひろげられる、法悦な享楽を。 

      午前零時。足音を殺すように、彼女がやってくる。お寿司やら、お弁当やら、たこ焼きやら、オミヤゲ携えて。

      「先輩、お腹空いたでしょ?これ食べて下さいね」

      「毎晩、来なくてもいいんだぞ、もう怒ってないから、安心しいや」

      「いいえ、どれだけ謝っても、先輩の身体に傷ついたのは、消えません。先輩がお嫌じゃなかったら、アタシ、一生面倒観ます。一生懸命稼いで、先輩を養いますから」

      15歳の少女の言葉だと、年を聞けば誰も信じないだろう。彼女は、僕を刺した男の彼女で、あのいまいましいスナックで出逢った後輩だ。中学卒業して、すぐに、水商売に入った。家の事情もあるのだろうが、勉強なんかしたくない、っていう彼女の理由を信じている奴はいないだろう。15歳の少女にとって、恋とは、一生を賭けられるだけの価値があるのだろうか。僕にはよく分らなかった。

      陽子に対する気持ち、或いは、久子さんに感じている気持ち、この少女に観る気持ち、そして、いつまでも消えない記憶のなかにすくんだように怯える幻影への苦しさ。それら全部が恋なのだろうか?僕は多情なのだろうか?いいや、そんなわけがない、ってことに、その頃の僕はもう気付いていた。

      異性を恋する時、多数を同時に同じだけ同じ思慕を抱けるなんてことは、出来るはずがない。出来る、なんて自慢する奴は大嘘つきだ。嫌いじゃない人を好きだと勘違いするように、大好きな人が誰なのかを、探しだせないだけだろう。恋しくって、どうしようもなく、切ないためいきしかつけない相手は、ひとりしかいないんだ。

      それが分ったのは、嫉妬しているからだった。陽子が、本当に毎日ヨシ坊とセックスして、僕に抱かれに来ているのか、そんな突拍子もないことを、陽子はどんなつもりでバランスとっているのか、いいや、そうじゃない、僕が嫉妬したのは、ヨシ坊にじゃない。その相手は、彼女の処女を奪い、彼女の日常まで奪ってしまった、殺してやりたくなるくらい、残虐な男だ。13歳の夏、陽子は男を知った。いちばん身近の、いちばん親しい相手によって、人の本能を知らされた。

      初めて陽子を抱いた後、僕は彼女が処女でないことを知った。思いやりのかけらもない言葉を、それから、かけてしまったんだ。

      「すっと、入ったよね、痛くなかったの?」

      陽子はあわてたように、

      「今、痛くなってきた、どうしよう…」

      そんなわけがないことを、僕が判っていることさえ、察せないくらい、周章(しゅうしょう)していたんだ。

      一度だけで終わらなかった悪夢は、毎晩も続いたそうだ。陽子はそのことを、ひたすら隠し通したが、ある時、母親に知られてしまった。彼女の横で眠っていた小さな妹が獣のような交歓を見てしまったからだ。獣、そうだね、獣だよね、陽子。セックスは、愛の確認なんかじゃなくて、どんなときも、獣じみて、さもしい慾に駆り立てられた、男と女の、汚い行為だよね。どれだけ愛しあっていても、どれだけ想いあっていても、それは、寒い冬の朝のように、峻烈で、心がかじかんでいるよね。解っているよ、おまえがどんな気持ちで、ヨシ坊に抱かれて、僕に抱かれているのか。こんなもの、どうだっていいんだよね。ただ、気持ちよければ、それだけでいいんだよね。その瞬間だけは、獣に帰れる、忘却の狭間に、とどまっていられるんだよね。

      母と彼女の母が、ひそひそ話すのを、聞いてしまった僕は、後悔していたよ。そんなこと、知りたくなかった。でも、知ってしまった今は、知ってしまって良かったって、思い直しているよ。

      僕は燃え上がる妬心を、ひた隠しにしながら、陽子に対した。ヨシ坊なんてどうでもいい。退院したら、殴ってやる。半殺しにして、陽子と別れさせる。もう誰にも触れさせない。僕だけのものにする。陽子の抱えた全てを、受けてやるよ。正面から、ちゃんと、受け取って、こなごなにしてあげるよ、全部、残らず、陽子おまえもね。

      「先輩?どうかしたの?」

      「先輩はいいって、こうちゃんでいいよ」

      「服、脱ぐね」

      少女は、派手な真黄色のワンピースを脱ぎ、ベッドに潜り込んでくる。

      

                        
                 彼らにとって絶対に必要なものはお互いだけで、
                 お互いだけが、
                 彼らにはまた充分であった。            
                 彼らは山の中にいる心を抱いて、          
                 都会に住んでいた。               
                                    夏目漱石「門」より
(五)  Sprout

 

              人間は不安の中に浮かんでいる。その不安が時として言葉を黙させる。
              そして沈黙と同時にいっさいの存在物が遠ざかり、かわって無が立ち現れる。
              その薄気味悪い無の虚ろな静けさ。
              それに耐えられず、人々は、ただとりとめもないおしゃべりで
              その静けさを破ろうとするのだ。
                  
                    ハイデッガー


   救急病棟のベッドの空きは、その頃も少なかった。1972年頃の話だ。抜糸が済んだ軽症患者をいつまでも置いてはくれないのも、仕方がないだろう。僕は、二週間後、病院を追い出されるように退院した。

   機は熟している。女との約束を破るつもりはないが、腹の虫がおさまらない。目には目、歯には歯、鉄則を忘れたら、僕はとっくに、精神を病んでいただろう。抗うのだ、そうしてこそ、自分なのだと、僕はいつも信じていた。対象は変遷しても、基本は変わりはしない。存在意義を見出すための闘いだってあるだろう。

     男は女と同棲している。毎晩遅く帰ってくる女を、男は信じていられるのだろうか。何してきたのか、疑いもしないのだろうか。僕なんかには、理解できないそうしたことを凌駕しうるような間柄なのだろうか。女は、きっちりと14日間、毎晩、僕のベッドに一糸纏わぬ姿で潜り込み、僕を慰めた。事が終わると、身支度をそっとはじめて、何も語らず帰ってゆく。最初から最後まで、話す言葉は、傷の治り具合を、遠慮がちに尋ねるだけだ。女に、どうこうしようとかいう目論見なんて、きっとなかっただろう。人間なんて、想う通りに、感情を捩じ曲げることなんてできる筈がない。感情は、いつでも正直だ。説明なんか必要ない。建前は、思考で導き出せるが、情操だけは、思考でさえ制御できはしない。生の想い、とでも言おうか。からだが、欲するまま、本能だとか生理だとか、そういう言葉でさえそれを括(くく)れはしない。つまり、生だ。純粋とも、謂えるかもしれない。理性的な者ほど、実は、この生の想いに引き摺られて、とんでもない行動を起こしてしまう。理性を働かせれば働かせるだけ、相乗効果のように、それは増幅し、四肢を縛りつけ、意志とは裏腹の行為を強要する。愚鈍なものは、抵抗しない。しないから、従順であろうとする。従順な思考は、それをまったく妨げない。だから、生の想いのまま、屈託も無く、行為に勤しむことができるのだ。

   いったいに、女は、この「生の想い」に、敏感ではない。かといって、鈍感でもないのだが、男と違って、矛盾にはならない。それも本当だし、これも本当だ、という、不思議な思考回路が、瞬時に構築されて、虚偽も真実に換えてしまい、嘘も誠にすり替えてしまう。それでいて、後悔など揮毫(きごう)もしない。拘(こだ)わりがないのだ。拘泥という言葉がある。泥にこだわる、という、虚しいまでの執念を彷彿させる意味が含まれるが、その執念という一点に絞って鑑みれば、女は、執着という観念も、どうやら、自在に操れるものらしい。

   陽子は、同時に二人を愛していると、錯覚している。僕を愛し、ヨシ坊を同じくらい愛している、と嘯(うそぶ)く。だが、そんなことは、理論上も、感情上も、あり得ない。物事はいざ知らず、我々の心には、無意識に煩雑な他への重要度を分ける機能がある。順列を、自然にしてしまうのだ。同じ想いなどあるわけがない。一方を愛している瞬間、他を同時に愛するなんて不可能なのだ。他を忘れて、一方を愛し、また、他と相対する場合は、一方を忘れている。忘れなければ、愛せはしない。片時も忘れたことなんてない、っていう弁解も、嘘ではないが、真実ではない。

   女もまた、この狭間にいただろう。同棲している男に、隠れて私に抱かれる。そこに、犠牲の精神など、あるのだろうか。女はただ単に、犠牲という大義名分をかざしながら、浮気しているに他ならないのではないか。もし、心底、男を好きならば、どんなことがあろうとも、私に抱かれはすまい。女の中の順列機能が、かまびすしいくらい、作用しているだろう。僕に抱かれる時は、男を忘れ、男に抱かれる時は、僕を忘れる。陽子と違うのは、犠牲という、名分のあるなしだけで、実質はなにも変わらない。

   「なぜ、こんなことをするんや?」

   「赦してもらうためです」

   「君に責任はない、だから、そこまですることなんか、あれへんやろ?」

   「いいえ、傷ついた先輩の体を癒してあげるのは、償いです」

   女は、平気で嘘をつく。自らの「生の想い」を糊塗するかのように、都合よく何かに置き換えて、不義ではない、昇華させた言葉を、真実と捉えてけっして疑いはしない。女にとって、それはつまり、もう嘘ではなく、徹頭徹尾、真実なのだ。怖いほどの純粋さが、そこには宿っているだろう。

   女は、快楽の声を洩らす。腿を痙攣させ、胸を波うたせるほど、背を隆起させ、髪振り乱して、唇を噛みしめる。しかるに、償い、という、尊い奉仕の気持ちは、その享楽と矛盾してはいない。享楽は、単に結果で、名分は、最後まで、自らを包み、「生の想い」を騙しつづけているのだ。暗示、とも謂えるだろうか。自己暗示に於て、男は、女の比ではない。女は見事に、酔う。完璧に酔う。仕方がなかろう。それが、子供を産むために培(つちか)われた、種としての能力なのだから。

   徳を僕は誘わなかった。単独でやろうと、決めていた。自信はあった。僕は、刺された。殺意をもって、刺された。カッとなって、心神喪失状態だった、なんていうまやかしに、僕は耳を貸さない。あいつは、私を殺そうとした。その手段として、僕をナイフで刺したに過ぎない。他の武器があれば、ためらわずにそれを用いただろう。どうしたって、あいつは、僕の息の根を止めようとしただろう。

   女の家は、分っていた。女がスナックに出ている時間、その数時間で、事は決行されなければならない。あいつの無聊を突く。安心し切った、自らの安全地帯を急襲する。母親の体内を、男はいくつになっても恋う。それが家庭であり、家族であることは言うまでもあるまい。母親の体内、命は無防備で、無抵抗だ。どうしてやろうか、僕は、戦術を立てなかった。僕は恨みを長続きさせられない、損な性格をしていた。時が経てば、どんな口惜しさも、諦めてしまう性癖だったのだ。我慢、ということぐらい、僕が幼い頃から強請されたことはなかったからなのだろうか。この恨みが薄くならないうちに、一刻も早くやってしまわなければならなかった。卑怯か?自問は捩じ伏せた。

   退院した次の日の夜、僕は、その家を襲った。ドアをノックする。男の声がした。用件を告げた。男は無防備に、汗疹(あせも)でも不衛生な環境でこさえてでもいたのだろう、背中を掻きながら、ドアを無造作に開けた。僕の顔を覚えていただろうか。瞬間、虚につかれた表情を浮かべた。僕は、バチキをその鼻梁に入れた。骨の折れる音が、額に響く。手で抑える暇など与えはしない。続けて、眉間にバチキを入れて、抑えた手ごと、三発目を入れた。男の両手は、目と鼻を抑えている。鮮血が、ぼたぼた、その手の隙間から滴(したた)り落ちた。男の股間を蹴り上げる。爪先で蹴るのでは、力が半減する。足の甲で、蹴る。睾丸など、潰してやるつもりだった。背中を丸めて呻く男の、左耳をつかんで、部屋の外に引きずり出す。その耳をはなして、俯いている後頭部に、バチキを入れた。脳震盪を起こさせるためだったが、男は、不運だったのだろう、気絶せずに、呻きつづけ、血の海に膝を屈した。私は、その顔を蹴り上げた。何度も、何度も、蹴り上げた。首を蹴り、胸を蹴り、背中を蹴った。突っ伏して、攻撃に堪えていた男は、抵抗しない。屈折した男のアキレス腱を痛打する。これは爪先がいい。断裂させるためだ。横たわる男の傍に、ブロックがあった。掴みあげ、男の膝に落とした。先ず、右膝、次に左膝。悲鳴をあげる。とんでもない声だった。隣の家に達しただろう。だが、確かめてある、この階の住人は、この時間ひとりもいない。

  僕に殺意はない。だが、男を肉の塊にしてやるつもりだった。二度とまともに社会生活出来ない体にしてやる。それだけが、目的だった。だから、これだけでは、まだ、足りない。僕は、砕けている筈の膝を尚もブロックで砕いた。数え切れないくらい蹴り、そして、バチキを入れた。私は、冷静だった。男の一挙手一投足まで観察しながら、攻撃の手をゆるめなかった。中途半端はいけない。徹底的にやらなければいけない。喧嘩とは、そういうものだからだ。恐怖させ、死を意識させ、トラウマになるくらいの衝撃をその傷と心に刻みつけなければ、復讐心が必ず芽生える。これで終わりにしなければいけない。

  「これで終わると思うなよ、入院したら、見舞にいってまた殴ったるからな、おまえが自殺するまで、何遍でも襲ったる、ええか、おまえを殺しはしない、そやけど、不具にして、死ぬまでいたぶったる。俺を殺そうとしたな。それだけの覚悟があったんやろ。そやから、おれも覚悟を決めてる、警察に垂れ込むんなら垂れ込め。俺は、脱獄してでも、おまえを探し出して、おまえを完全に消してやろう。それが無理なら、一生涯、お前は怯えて暮さなあかんで、俺は、何十年もお前を追いかけまくったる。俺に親兄弟はおれへん。おまえみたいに、甘ちょろい家庭なんかあれへんからな、誰に遠慮することもない。ええか、人を殺そうとしたら、殺されるのはあたりまえなんや、それを肝に銘じとけよ」

  男の潰れた耳に囁いて、僕は、再び、何度も、何度も、その顔を蹴った。永遠という時間の観念は、心が生みだした幻だ。幻は、時に、現実を遥かに凌駕する。男が、動かなくなったのを確かめて、私はようやく帰路についた。

  次は、ヨシ坊だった。恋敵だ。情けないことに、僕は陽子を好きだった。何故、そんなことになってしまったのか、理由なんて、理解できなかった。浮気女だ。中学生のくせに、男を弄んで、何を考えているのか、悪魔のような少女だった、だが、僕は、もう、逃げられない。好きになるということは、その対象から、離れられなくなるということだろう。理性は離れたがっている。懸命に私に警告を発している。やめろ、あの女はやめろ、大変なことになるぞ。

  胡散臭い船員や労務者たちが、ヨッパライながら、店から店へはしごしている。着飾った厚化粧のお化けのような女達が、嬌声まじりに、彼らを誘う。尻を撫でられ、胸をもまれ、嬉しそうに鼻をならしながら、男の背に腕を回して、店へいざなう。ここは、そんな街なのだ。恋の街、そうさ、疑似恋愛、仮想の宴が、夜を徹して、憚ることなくおおっぴらに繰り広げられる、本能の街に、僕は育ち、埋もれてゆく。それでいい。それがお似合いだ。僕なんて、この街から一歩も外へは出られない。たくさんの友人がいた。徳もそうだ。皆、恋の街には、育たなかった。普通の街で生まれ、育ち、その精神を養われた奴らだ。私とは違うのだ。私には家庭はなく、親もいない。こうして生きているのさえ、奇跡なほどだ。羨むまい。妬むまい。それが、それぞれの、こなさなければならない、業なのだから。色とりどりのネオンが映え、流行歌が重なって、夜はまだはじまったばかりだ。さぁ、男共、性欲の限りを尽くして、女に群がれ。争いながら、女を食い尽くせ。それが、私達、この恋の街に起居する者の役割なのだ。売春、覚醒剤、非行に暴力、なんでもござれ。ここは、仮想天国、恋の街、夕凪新地。

  部屋に戻ると、いつものように、寝かしつけたばかりの赤ん坊を胸に抱いて、ベッドを背に坐っている久子さんがいた。

  「お帰りなさい、どこ行ってたの?あら、大変、こうちゃん、血がついてるよ、どうしたの?」

  「なんでもない、怪我してへん」

  「なんでもないことないやん、見せて、ほら、顔、血だらけじゃない、ちょっと待ってね、えーと、ハンカチは…」

  「いいって、ほんまに大丈夫やから」

  「どうしたの?怪我はしてないみたいやけど、どうしてこんなに血浴びてるの?」

  「なんでもないよ、心配せんといて。それより、家帰らなあかんやろ?」

  「ううん、いいの。陽子ちゃんは来ないよ。ヨシ坊とどっか行ったから、さっき」

  「………」

  「正直やなぁこうちゃんって。顔に書いてるよ、心配や、って」

  「別に、気にしてへん」

  「嘘ばっかり、なんであんな浮気女がいいの?二股かけられて、口惜しくないの?」

  「久子さんも、これ不倫やで、そう思わへんか?」

  「ううん、これは不倫やないよ。あたしはこうちゃんのことほんまに好きやもん。旦那よりも、ずっと好き。旦那は家族やけど、好きな人と違う」

  「変な理屈やな。なら、離婚すればいいやん」

  「それは出来ないの。だって、この子のために、旦那とはずっと家族でいなきゃいけないやん」

  「それが分れへんねん。旦那のこと、ほんまに好きなことないんか?好きでもないやつと、ずっと一緒にいれるんか?」

  「いれるよ、子供のためならね。でも、こうちゃんが一緒になってくれるなら、別れるよ。あたし、こうちゃん大好きやから」

  「それが本音やろ?つまり、俺次第、ってことやろ?それ、もろ不倫やんか」

  「違うよ、本気やよ。不倫なんかと違う。真剣なんよ、これだけ言っても信じてくれないの?」

  「人のもん盗ったら、人に盗られるって、知ってる?」

  「何、それ?そんなの分らない。あたしは、こうちゃんに抱いてもらいたいの、それだけでいいの、他に望みなんてないわ」

  いつの間にか、久子さんは、スリップ姿になっていた。赤ん坊は、座布団の上ですやすや寝息を心地よさげに立てている。

  「ね、一度で良いの、抱いて。陽子ちゃんだって浮気してるよ。こうちゃんだって楽しまなきゃ、ね、抱いて」

  「それはできへん、って言ってるやろ。ウンテンさん、可哀想やんか」

  「旦那のことなんか、忘れてよ。ふたりだけやん、あたしとこうちゃん、向かい合って、抱きあって、えっちする、それだけやんか」

  「いいや、俺はそんなことできへん。久子さん抱いたら、俺はもう終わりや。よりどころがなくなってまう。これは俺自身の問題やからな、気悪くせんといてや。俺は、人間であることを捨てとうはないんや。久子さん、正直に云うわな。俺は久子さんが好きやで。好きやけど、どうにもならへん。好き同志でも、これはしちゃいかんことやねん。不倫はいかんって。久子さんが独身で、俺に妻がいてたら、久子さん抱くかもしれん。でも、久子さんにはご主人も、子供もいてる。そんな相手、どれだけ好きでも、抱けない。抱いたら、畜生や。なんでもありなんて、俺は御免や。俺は、人間でありたい。手当たり次第、好きになったらする、なんて、どこに意志がある?本能のまま、やんか。へ理屈でもなんでもいいよ、俺はね、畜生にはなりたくない。旦那がいてる奥さん抱くなんて、いいか?最低のことやで?男として、絶対にやってはいかんことや。やってしもたら、人間やめなあかんようになる」

  「もう、理屈っポイんやから。そんなとこも好きよ、こうちゃん」

  久子さんは、もう、裸になっていた。その日も、私は、久子さんを抱きはしなかった。性欲はある。異常なくらい、私はそれが自覚できるくらい旺盛だった。自認しているからこそ、それがよけいに疎(うと)ましかった。性欲は、理性で左右したい。不可能でもなんでも、制御したい。そうでなければ、私は、私自身を必ず見失う気がしていた。

  僕は、久子さんに嘘をついた。分っていたんだ、もう、どうしようもないくらい、陽子を好きになっていた。どうしようもないってことは、他へは眼も行かないってことなんだ。僕は、いくつも恋をこなせるほど、器用じゃない。不器用さ、そんなことは、解っていた。僕には、ドンファンなんかにゃなれないってことを。性欲だけで女を抱くなんて、出来っこないってことを。陽子を想い、陽子を独占したい、それだけが、望みで、他のことなんか、考えるだけのユトリなんてなかったんだ。陽子に、そうさ、陽子に明日、訊こう。僕とヨシ坊と、どっちを選ぶのか?って。

  翌朝、日曜だった。あの頃の僕に曜日はなかった。毎日が日曜だった。確か、雨がふっていたっけ。夏の雨は、激しく、薄い。ギラギラぎらついた陽射しを背負いながら、滝のような雨を降らせる。後にたちこめる陽炎は、夢のように儚げだ。いつもなら、陽子が来ている筈の時間だった。だが、陽子は来ない。痺れを切らして、陽子の部屋を覗こうと、ドアを開くと、ウンテンさんが、気まずそうな表情を浮かべて、立っていた。後ろに、赤ん坊を抱いた久子さんがいた。申し訳なさそうに、よほど泣いたのだろう、眼が赤く腫れ上がっていた。

  なにかが、音を立てるように、崩れはじめた。そう、僕は、この日を境に、奈落の底まで、一気に、堕ちて行く羽目に陥ることになる。



                                          
           
 
2006 05/06 21:33:26 | none | Comment(0)
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栓抜きと林檎


荒城の月

  天守をもたぬ城跡に
  女連れで行ったのさ
  石垣だけのはだか城
  小高い丘は見晴らしがよくってさ
  デートコースになっていた
  S女学園の女の子
  髪はマッチャでハスッパだけど
  変な色気がどこからくるのか
  匂いじゃないし
  からだつきでもないんだけど
  なぜか妙に鼻先くすぐられてた
  ひっかけたのは
  国鉄環状線玉造駅
  ひとりで電車に揺られていると、
  後ろの車両からやって来て
  目の前に座った二人組
  ひそひそ内緒話にちらりちらりと
  こちらをうかがう仕草はシナだらけ
  無視していたら
  がらがらなのにひとりが立って
  横に座った
  まばたきしない視線が頬に
  やけつくような痛みがするのは
  その気があったからだろう
  そうして荒城の月
  観ようとこの街へきたのは
  3日後だった
  彼がいるって自慢してたくせに
  自分から誘ってくるなんて
  ふてぇアマだと舌打するが
  悪い気しないからはずかしい
  腕組み黄昏に影が重なる
  そのままベンチにへたりこみ
  夜空を見上げていたさ
  紅葉の赤がオレンジ色になずんでゆくさま
  恍惚と
  みとれている女の横顔を
  しげしげ視てると
  抱きたくなった
  肩に腕まわすと
  そっちもその気かよ
  ひかれるままに胸が胸にあずけられ
  しずしずかしげた顔に夕陽がさして
  閉じた瞳はかすかにふるえ
  唇が真っ蒼だった
  傑作なのは
  女が言ったこのことば
  彼もすきだけど
  あなたもすきなの
  嘘つくなよな
  独白は胸の内
  外に出してはなるまいぞ
  それがルールというやつらしい
  恋に素直ということは
  こういうことだと
  虚しさをまぎらわし
  性慾まみれの
  女を脱がす
  こころの中まで
  脱がしてやろう
  やらせたいだけなのだと
  教えてやろう

              秋陣營の霜の色
              鳴き行く雁の数見せて
              植うる劔に照りそひし
              昔の光いまいづこ
 
              今荒城のよはの月
              替わらぬ光たがためぞ
              垣に殘るはただかつら
              松に歌ふはただあらし
 
              天上影は替らねど
              榮枯は移る世の姿
              寫さんとてか今もなほ
              鳴呼荒城のよはの月

                        土井晩翠

1章

林檎が嫌いな男がいました。
あの甘い汁と、あの噛み心地が、
たまらなく、いやらしいと、男は云います。
女は、悩みました。
たくさん林檎を買ってしまったものだから、
どうにか、男に食べさせてやりたいと。
ミキサーもない殺風景な男の部屋の台所は、
申し訳程度の設備しかなく、小さな冷蔵庫と、
電子レンジだけしかありません。
何年も研いでいないような包丁はありますが、
果物ナイフはなさそうです。
皿だって、二枚しかなく、
何故だか、お箸だけが10対もありました。
ふと、窓に取り付けられた換気扇の傍に、
栓抜きを見つけました。
昔ながらの栓を抜く機能しかないシンプルなものでした。
林檎と栓抜き。
これでどうにかできないものか?
女はけんめいに考えました。
唯一男の趣味であるノートパソコンを借りて、
検索します。
栓抜きと林檎。
するとどうでしょう、
ヒットしました、1件。
さっそくクリックしてみると、
なーんだ、ただの画像じゃん、
でも、女は画像を凝視します。
写されているのは、
林檎と、CDと、裸電球(透明のやつ)と、ワイン用の栓抜き、鴨?
そうか、
女はあることを閃きました。
CDとか、余分なのある?
男に訊くと、あるよ、と返事。
借りて、さて、ここからです。
イマジネーションが女の脳裏をひだだてます。
CDと長い縄、
切れなさそうな包丁と、
栓抜き。



 2章

いやらしいことは
世の中たくさんありますね。
なかでもとびっきりにいやらしいものを
思い浮かべてみて下さい。
心理テストじゃありませんから
安心して最初に浮かんできたものを教えて下さい。
などといわれても
おいそれと浮かんでくるほど
自分の想像力がたくましくないことを
女は知っていました。
格好良い答えを造っていたら
”想像を選んではいけません
いやらしいもの
キーワードから発想されるものだけを
お応え下さい”
読まれているようだった。
アンティーク調の揺りイスに座らされて、
氏名、年齢、生年月日、住所、血液型、家族構成、職業
基本的なデータは惜しまないが
初潮年齢、生理周期、化粧品目、
おまけに
男性遍歴まで何故必要なのか
過剰だろうとは抵抗する気持ちが芽生えなかったわけではないが
相手は感情を表情に表わさない
人間なのか?サイボーグじゃないのか?
なんて男に対していると
答えることが義務なのではないか
などと思い直してしまうから不思議だ。
プロとはこういうものなのだろうか。
最初に?なんだったっけ
あそうだ
あたし、です
あなたご自身がとびっきりいやらしいのですか?
しっくいの壁のような顔に変化が看てとれた。
はい
あなたのどういう面にそう思えるのですか?
そんなことまで言わないといけないのか
男性遍歴まで訊くわけだ。
この男は聞き上手なのかしら
ままよ
出し惜しみはすまい、
洗いざらい告白した。
ひけよ
封印解いたのはあんただ
その責任をどうとるのか
見物だわ
函の底に残る「希望」とかいう
子供だましの解釈があなたにできるかしら?
希望はね、残っていた、のではないの、
飛びだせずに、かくれていただけよ。


  3章

こんな女がいていいのか?
男はそのような思考形態を
はなからもちあわせていないかのように
鼓動の高鳴りを抑え込みながら
女の話に相槌を打ち続けた。
栓抜きがあるとする。
そこに、1個の林檎が転がっている。
林檎をむくには、果物ナイフが必要だ。
女に問う、
ナイフを使わずに林檎をむく方法が解りますか?
女は即答した。
はい、やったことあります。
やはり、か。
男は嘆息した。
この女の精神鑑定を依頼された時から
いやな予感があった。
女の子宮的思考回路が
直感と副次感
2種類あるとしたら
この女は疑いなく
直感で動くタイプだろう。
理屈をこねないかわりに
反省もしない。
言い訳はすべてが虚偽で
とどのつまりに好きなようにしてよと居直る。
言行不一致をものともしない
精神力はみかけと異なるケースがおもだ。
実生活では苦手なタイプだが
逃げてはいられない。
男は女に手の平を表にして額にかざしてくださいと
命じました。
もういちど伺います
あなたは林檎を栓抜きでどうむいたのですか?
女は
今度も即答しました。
人差し指と中指でわっかをにぎり、
握るところを林檎に突き刺してねじりこむように押し込む。
林檎にいびつな穴が開く。
ほとばしる汁が
甘い匂いをただよわせるわ。
匂いに包まれながら
手首を右、左と
交互にひねり、穴を更におおきくしてゆく。
貫通したら
縄の先を穴に通す。
中程まで通したら
CDの穴を縄に通す。
30センチほど通したら、
縄の先をひっくり返して、
林檎の穴に戻す。
仕上げは、切れなそうな包丁。
栓抜きのわっかに包丁の先端を通して、
折る。
力が足りないから
右手で持ったまま栓抜きのそばに全体重をかける。
刀の構造は、横からの力に脆い。
名刀はたゆみやねじれについてゆくが
安物の鋼は
ねばりけがないものだ。
折れた刃先を林檎の頭に刺してCDの腹で押さえつける。
刃先は頭にのめり込んで
かくれる。
穴は残るがかまわない
隠せるからだ。
説明する女の目が光ったように見えた。
林檎の果肉は
きれいなピンク色だったわ、
紅や碧のフリルをつけて。

4章

あの女と出逢った日は
いつものように下痢して最悪の体調だったぜ。
5年前になるだろう。
よしゃいいのにすすめられるまま
パソコン買込んじまってよ
キーボード覚えるにゃここに入会して
とにかくキーボードになれろなんてぬかしゃーがる。
入ったのはメーリングリストとかいう、
出会い系なら興味あったけど
出会わない系とかいう信じられないとこだった。
そこは指定されたアドレスにメールを送ると
会員全部に出したメールが配信されるシステムらしい。
自己紹介をかねたメールを7日以内に出さなきゃならない、
でなければ退会処分にするとかなんとか
脅迫まがいだ注意事項だらけの規約を読んでる内に
眠くなってくらぁ。
短かったがなんとか作成できて出したら、
驚いたことに
ものの数分で返事がきた。
まさか読む奴なんかいやしめぇって高を括ってたら、
来たのさ。
女だ。
好意的なのは文面でわかった。
続いて男からも2通来た。
どっちも、先輩風ふかせたイヤミな文体だった。
返事をかかなきゃならねぇって、
面倒臭いかなと思ってたら
案外そうでもないようだ。
女相手なら書けるんだなぁ、これが。
何度か会員全員に読まれるメールを女と交していると、
あるとき、女がブログを書いているから読んでね、
とまたまた訳のわからないことを書いていた。
ブログ?なんだそれ。
どうすりゃそこへ行けるのか、
苦労したぜ、まだコピー&ペーストも知らなかったしな。
行ってみると、
なるほど、日記のようなものだということが
判ってきた。
コメントを入れると、すぐに返信してくる。
またコメント入れ直すと、即座に返信される。
そのうちに、女が、コメント欄にメールアドレス入れるとこがあるでしょ?
たしかにある、ここに、アドレスをうちこみゃーいいんだな、
コメント入れたら、今度は、なかなか、返信されない。
変だな、って待っていたら、やっと着た。
メールを確認してくれと。
メール?
確認したら、北吉佐和子という女からの新着メールだった。
だれだ?
開いてみると、女だった。
おまけに、Yahoo!とかMNSとか、goo?ライブドア?
自宅の電話番号から携帯電話の番号にメールアドレス、
この女いったいいくつアドレスもっていやがんだ
っていうくれぇいくつも並んでいやがった。
誰にも教えていないからメル友になろう、
メル友?メール友達ってことか?
歳もわかんねぇし、住んでる地域は郵便番号から解るんだろうが、
怪しい女だ、とは思ったが、
寄せてくる感心の深さには、
妙な迫力がある。
こうしてしばらく
女との個人メールのやりとりがひんぱんに続いた。
習慣ってのは
おかしなもので、
あるものがちゃんとありつづけるだけで
なくてはならないものになってしまうようだ。
そうなると現金なもので
夜がとても待ち遠しくなってくる。
夕方になると、
あともう少しでメールがくる、
なんて、年甲斐も無くわくわくしたりしてよ、
がきじゃーあるめぇーし、
こんなとこ誰にもみせられねぇな。
メッセンジャーとかいうチャット?みてぇなのもダウンロードさせられて、
まるでもう、電話で話してるような感じだった。
キーボードにもそろそろ慣れてきたころだろうか。
女が電話してもいいか?って書いてきた。
毎晩、メッセンジャーで話てんのに、どうして電話なのか、
よくわかんねぇけど、ああ、って返事したら、
番号教えて、いつかければいい?
すぐでもよかったが、
賎しいような気がして、
明日の午後4時でいかがですか?
女は快諾した。
電話、思えば、これが間違いのはじまりだった。

 5章

その男の存在に気づいたのはいつだったろうか。
課長に昇進して
すぐくらいだったろうか。
娘たちは受験前でぴりぴりしていたが
家庭は順調だ。
妻はまだ充分に若々しく
近頃ますます綺麗になったような気がするのは、
口に出しては言えないが
心底惚れているからだろう。
可もなく不可もない、
ひとは中庸こそが指針足る。
安定こそが順調を継続させる。
そう、信じていた頃が
遠い昔のようだ。
離婚はしない、
なにがあろうと、
しない。
裏切られたことを知った時、
ひとはどうするのだろうか。
憤りのあまり相手を打擲するか?
悲しみのあまりにその場に泣き崩れるか?
何も考えられなくなるほど茫然自失するか?
それとも
死ぬか生きるかの選択をおもいうかべるか?
いいや
復讐を誓うものだ、
自分自身の穢されたものに、固く。
非は
認める、ないとは言いはしない。
だが、そのことだけで、
家庭を壊す権利が妻にあるのか?
ともに維持するという義務を誓い合って結婚したのではないのか?
高校生時代好きだった泉谷しげるの「春夏秋冬」の歌詞は、
若かった自分のバイブルだったが、
よくそのことで友人に笑われた。
隣を横目でのぞきじぶんの道を確かめる
またひとつ狡くなった
とうぶん照れ笑いがつづく
汚いところですが暇があったら寄ってみて下さい
ほんのついででいいんです
いちど寄ってみてください
おまえどうしてこんな投げやりな歌詞に共鳴できるんだ?
そう友人は批判する。
彼らにはこの歌詞の意味を理解できていない
そう
その頃の自分は鼻持ちならないくらい高慢だった。
だが
本当の意味でそれを理解していなかったことに気づかされたのは
変わり果てたと嘆く自分自身だった。
投げやりを虚無と勘違いし
あこがれた自分は
刺激を欲していた。
欲しても手に入らぬものは
いつしか憧れでなくなり
少年の気負いだったのだと気恥ずかしさを覚える歳に達した。
急進的だった筈の少年は
見るも無残な保守的中年になりさがっていた。
虚無?
今の自分にはなんと縁遠い言葉だろうか。
ひとはつつましやかに
やましいことことなど考えず
つかねばならぬ嘘を方便と思い
妻と子を愛し
家庭を守ってゆくことこそが
人としての勤めであり定めであり
最高の幸福なのだと
いつしか
信じていた。
だが
信じていたのは、
自分だけだったらしいことを
自分はよりにもよって
大切な家庭のパートナーに知らされた。
はたと気づいたのだ、
自分があこがれたのは、
退廃なのではなく、
ましてつつましやかな幸福などでもなく、
ぼろぼろにすり切れるまで心身を病むような
剥落の境遇だったことに。

 6章

電話の声は若い女を想像させた。
若い筈がねぇ、
オレより年下だが少しの差でしかない。
1時間の長電話なんて久し振りだった。
何を話そうか決めてはいなかったとはいえ
よくもこれだけ話せたものだと述懐しきりだ。
電話を切ると、女からメールが来た。

どう返事していいか
分らずにしばらく考え込んでしまった。
出会わない系じゃなかったのかあのメーリングリストは?
たしか規約に会員間の単独メールを禁ずる、とかなんとか
あったんじゃねぇのか?
ってことはバレたらクビかよ。
あの女の度胸はただものじゃねぇ
そうただものじゃねぇんだ
そのときどうしてそう思えなかったんだろうか
なさけねぇけど仕方ねぇことかもしんねぇな
オレはそんときもう女に惹かれていたからよ
言葉と声だけだぜ
信じれるか?
だれに言ったって信じてもらえねぇよ
こんな世迷い事。
それからも毎晩、女とはメッセンジャーしまくって
メールは合間合間、おまけに携帯メールまで来だしてさ
もうオレの日常は女と離れていながら同棲しているようなもんだった。
女の手練手管はたとえばこうだ。
メールの中に必ず一文だけ気持ちを投影させやがる。
乗っちゃなんねぇから
冷静を装って普通に返すと
返事にゃ二文入ってるんだ、これが。
たまらずに本音を書けばよ
返ってくるのは気持ちのこもってねぇメールだぜ。
まいるよなぁ。
上げたり下げたり
女の思うままさ。
女は人妻だった。
旦那と娘がふたり。
受験前ってぇから、20歳まえだよな。
人妻ってのは暇があるのかね
それとも無理して作っているのかね
女のメールは機関銃のようにオレの
胸を蜂の巣にした。
痛くないんだ、これがまた。
むしろキモチイイくらいだからな
変になっても仕方あんめぇよ。
女が逢いたいって言い出したのは
半年後だったろうか。
写メとかいうよ
そのころ急激に流行りだした携帯電話の機能に写メールってのが出来てさ
それ送ってくるんだよ
おりゃ驚いたよ
聞いてた歳にとてもじゃねぇが見えねぇ
おれの女房とえらい違いさね。
女房ときたら女より年下のくせしやがって
まるっきしトドじゃねぇか。
喰っちゃ寝喰っちゃ寝してたら
だれだってぶくぶく肥るってもんだ。
おまけに化粧はおろか
着るものだってジャージにスェットばっかしさ。
抱く気になんかなれるわけがねえ。
だがな
娘は可愛くて仕方ねえんだよ。
一緒にお風呂入ってくれるしよ
オレなんかをパパって呼んでくれるんだぜ。
毎晩オレが女とメッセンジャーで話してる時
娘はオレの膝で眠ってるのさ。
頬撫でたり、髪の毛指で梳かしたりしてさ。
かつての面影のかけらものこってねえ女房と
愛くるしい娘
おれはきっと幸せだったんだ。
女に出逢うまでは。

7章

妻がパソコンを習いたいなどと言い出したのは
なにかの殻を破りたかったのだろうか。
それはつまり
飽きた、ってことだろう。
固定した日々の営みを
どうして飽きるなんてことが出来るのだろうか。
妻の言い分は理解できた。
娘たちも手が離れ
暇ができた
このまま老いてゆくのに
堪えられなかったのだろう。
妻は若い。
そしてきれいだ。
なにもしなくてもいいよ
君はそのままで充分きれいだよ
そう言ってやりたかったが
照れ臭くって言えない。
娘たちも私に似ないで妻に似たおかげで
美少女だ、親の贔屓目じゃない。
自慢の妻と娘。
私は幸せだった。
妻と老後をどう過すか
そんなささやかな夢に
悦に入ったものだった。
私は甘い亭主じゃないつもりだが
厳しい亭主でもないつもりだった。
妻は
あなたはあたしに関心がなくなってるのよ
などといじけるが
私は妻への関心をなくしたことなんかいちどもないと
神にだって誓える。
パソコンを買った妻は
予想に反して教室にまで通い始め
ローマ字入力とかいう方法でキーボードを毎晩たたきはじめた。
娘たちの手前、
寝室にはベッドをふたつ入れてあるが
私が帰宅する午前0時前でも
妻は私のベッドには入ってこなかった。
自分のベッドの上
電気スタンドの下でかたかた無機質な音を立てている。
いいかげんにしろ
言わない私はどうかしていたのだろうか。
物分かりのいい男になろうと思わなかった私は
消えていた。
私は老いを感じはじめていた。
もっと仕事を
もっともっと仕事を
もっともっともっと刺激を
私は求めた。
そうしてその日がやって来た。
いつも寝室でパソコンにつきっきりの妻が
その夜はダイニングで私を待っていた。
食事は?
済ませてきた。
風呂になさる?
うん。
風呂場で私は疑心暗鬼にとらわれてはいなかった。
いつになく優しい妻の対応に少々面食らいはしたが
なんかの記念日かなと思い出そうと努めるが
思い出せるわけがない
無駄だと諦める。
今夜は久し振りに抱いてやろうかな
などと普段より念入りに全身を洗った。
バスロープを羽織って
ダイニングに戻ると
妻が珍しく化粧をしていることを発見した。
この時間肌に悪いからと必ず化粧を落としてたくせに今夜に限って
どうしてだろう。
かすかになにかが狂っているぞと
私は警鐘を鳴らす不安に駆られていた。

8章

女と最初に逢ったのは
やっぱり腹の具合が悪い時だった。
女は
写真よりもずっと綺麗だった。
人妻だなんてとても思えない容姿に
惹かれない男なんているかよ。
オレは一発で惚れてしまった。
物にしなけりゃ
本能がうずいた。
女は何時間もかけてオレの住む街までやって来た。
カミさんにばれたらことだから
隣町にしようと説得したのだが
オレの住む街がみたい
だなんてさ
また殺し文句吐きゃーがって
げてぃげってぃややーひー
立ちくらみしそうなくらい
愛おしくなっちまった。
げてょげてぃややーやーやーや
うぃあれでぃままれーど
耳鳴りがしてきやがった。
女はメールと同じで
積極的だった。
どこかつれてってって言われてよ
とりあえず喫茶店にって誘ったら
嫌いとぬかしゃーがる。
じゃ映画でも観る?
って聞くと
疲れるからいやだ。
わがままもほどほどにしやーがれ
って言えりゃいいんだが
言えっこないよな。
惚れたが負けさ。
女はまだひとことも
オレを好きだとは言っていない。
オレだって言ってやしないが
どうみてもオレのほうが分が悪そーだ。
高校生じゃあるめーし、
明治維新の廃藩置県だとかで
天守閣を取り壊した城跡の公園に女を誘った。
あのS女学園の女とデートしたとこだ
やなこと思い出しちゃったぜ。
あれからトラウマになってしまってよ
オレは一度もきたこたねーんだ。
なのに女は城跡がいい
だなんてガイドブックでも調べてきたのか
オレを先導するいきおいだった。
ここだ
ここであの女を脱がしたんだ。
脱がしてさんざん弄んで
ゴムつけなかったな
どーなったんだろーかあの女
まぁ妊娠してりゃなんか言ってきたはずだろーから
それもないってことぉぁ
できてないってことだって解釈したけどよ
オレも悪だったな。
さいてーじゃねぇか。
あの女、泣いてたっけ。
こんどいつ会う?
って余韻にひたってるの邪魔されてよ
かっとなって
おまえみたいなパンパンにどと逢うかよ!
そーいったら
ぴーぴー泣きゃーがって
まいったぜ。
言い過ぎたな
ごめん、ってひとことが
あんとき、どーしても言えなかったなぁ。
ほんとうはよ、だきしめてやるだけでもよかったって
なんど思ったか、あの女に教えてあげてぇよ。
まぁ、いいさ。
もうとっくに時効だぜ。
とやかく後ろ指さされることだってねえ。
いけないいけない
そんな回顧してる場合じゃねぇ。
しかしこの女
どーしてこんなとこがいいんだ?
おいおいそのベンチはやめよーぜ
管理局はなにしてやがんだ
昔のまんまじゃねーか。
あたしにはね
姉がいたの。
女がひとりごとでもするかのように
空に向かってつぶやいた。
おねぇさん?
うんとっても意地悪だったけど
とっても大好きだった。
そっか、おねぇさん今どうしてるの?
あそこにいるよ。
え?どこに?
女の視線は空を見つめたままだった。

 
 9章

済みませんがもう一度ゆっくり説明していただけますか?
林檎を栓抜きでむく
そんなことは可能なことではない。
矛盾律の原理だ。
栓抜きは果物ナイフでも果物ナイフでないものでもない。
従って林檎をむくために必要なものは
果物ナイフを用意するか、むくのを諦めるかだ。
むけるわけがないのだ。
切れない包丁があるのに
無理すればむけなくもなかろうに
何故女はそれができると即答したのだろうか。
その説明たる難解きわまりなく
ゆっくり説明されても
とても理解できるような方法とは思えなかった。
切れない包丁、縄、そしてCD
画像に並べておきウェブ上で公開し
検索でヒットさせる。
1件しかヒットしないように確認済みだ。
形式論理学の基本法則には
同一原理・矛盾原理・排中原理・充足理由の原理の4つがある。
排中原理とは
一般的には「AはBでも非Bでもないものではない」という形式をもち
Bと非Bとの間には中間の第三者はありえない
ということで
矛盾原理を補足するものである。
未来事象に関する命題については真でも偽でもない
第三の可能性を認めざるをえず
ここから
記号論理学では多価論理学の特色として
排中原理を認めない場合があるそうだが。
同一原理とは、「AはAである」の形式で表されるもので
概念は
その思考過程において同一の意味を保持しなければならないということ。
つまり矛盾原理は
「Aは非Aでない」
または「SはPであると同時に非Pであることはできない」
という形式で表す。
この原理は
一定の論述や討論において概念の内容を変えてはならないことを意味し
同一原理の反面を提示する。
最後の充足理由とは
事物の存在や真なる判断はそれを根拠づける十分な理由を要求するという
正しい思考の守るべき原理である。
思考の法則は多岐にわたっているが
難解なことはなにひとつない。
だれにでも理解できるから法則なのであり
原理たりうるのだ。
しかるにこの女は
原理を根底から崩しかねない理論で武装しているのか?
女は説明を始めた。

 10章

もっともあわれな女はどんな女かな?
女が妙なことを訊く。
なんか聴いたことあったな
だれだっけ
そうそう加川良だったっけ
たしか病気の女より死んだ女より
もっとあわれなのは
なんだったっけ
ちきしょう、おもいだせねーや。
死んだ女より、そぅだ
忘れられた女だ。
そう答えると女は
唇を横にひくようにして微笑んだ。
正解かよ、どーなんだ?
待てど暮せど黙り込んじまって
相も変わらずなにがいいんだか
空ばっか観てやがる。
もういいかげんにしろよ
っていわなきゃって思ったら
様子に気づいたのか
ねぇあたしを好き?
っておいおい、ストレートだね。
うん、好きだよ。
答えると女は破顔した。
アタシもあなたが好きよ。
よくもまぁ照れずにここまではっきり言いやがるぜ。
林檎好き?
嫌いだよ。
どうして?
あの甘い汁が嫌いなんだ、君は?
大好きよ。
小さい頃おかぁさんがよくすってくれたの。
ぼくもだよ
ただし
風邪ひいたときだけだったけどね
なんせビンボーだったから。
それには返事せず女が話題をさっと変えたが
それがまたとんでもない話題だった。
ねぇ、アタシをどっかつれてってくれるんでしょ?
え?
喫茶店も映画も嫌だって言いやがったじゃねぇか。
食事する?
おなかすいたの?
いいやすいてないけどきみは?
アタシは胸がいっぱいでおなかすいてないよ。
じゃどーすんだよ
いくあてなんか
こんなおっさんにわかるかよ。
何年デートしてねぇって思ってるんだ?
オレはこーみえても真面目なんさ。
所帯もってよ
あんなトドみてぇーな嫁でも
愛してるんさ。
だからよ
浮気なんてしたことねぇぜ。
そりゃ何回かふーぞくは行ったけどよ
ありゃつき合いで仕方なしに
ってやつだから浮気にゃなんねーだろ。
その証拠に
オレの胸に手あててみろよ
どれだけドキドキしてるって思っていやがるんだ。
ね、あそこに連れてって。
女が指さした先には大きな河があり
川縁にラブホテルが並んでいる。
ホテル?
はぁ?
どぅ言うつもりだ?
あそこでゆっくりしよーよ。
なんて女でぇ、女にホテル誘われたのって生まれて初めてだぜ。
なんでぇ、格好つけてたって、
おめぇもやりたいだけかい。
人妻ってこんなに尻軽いのか?
ちょろいもんだぜ。
いいのか?って気後れが
年取ったってぇことだろーなぁ
かまうもんか
やられたいんだからやっちまえば。
女は顔色ひとつ変えず返事を待っていた。
綺麗だった。


 11章

あなたごめんなさい
あなたを嫌いになったわけじゃないの
いまも好きなの
でもね
怒らないでね
他に好きなひとができたの
ううん、あなただけよ
大好きなのは
でも
あなたには黙ってたけど
もう何年もそのひとと会ってたの
ゆるせないでしょ?
ううん、許して欲しくってこんなこと告白してるんじゃないの。
アタシはけじめをつけなきゃいけないの
罰はうけるわ
なんでもあなたのいうとおりにします
ですから
離婚してください。

薮から棒になにいってるんだ
本気か?冗談だろ?
嘘だろ
本気かよ
どうして
どうしてそうなるんだ
なんでなんで不倫なんかしたんだ
何故
黙っててくれなかったんだ?
教えさえしなければ
これからも夫婦でいれたじゃないか。
おまえは残酷だな。
私がおまえの不倫に気付かなかったと想ってるのか?
知ってたよ。
旅行嫌いのおまえが
どうしてちょこちょこ同窓会やら
研修会なんかに行くのか
バレっこないとバカにしてたのか?
私はおまえの亭主だぞ?
何年一緒に暮してたと想ってるんだ?

ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
アタシは最低な女です。

娘たちは知ってるのか?
まさか知ってるんじゃないだろうな?

ええ、知っているわ。
ママ恋してるの、だめよね
訊いたら
パパにばれちゃ絶対ダメだって
応援されたわ。
怒らないでね
娘たちはアタシとあなたがずっと仲良しでいてくれたら
それだけでいいのよ。
あなたがいてアタシがいる
それだけでいいのよ。

おまえたちは
おまえたちは
どうすればいいんだ私は?

離婚してください。

いいやそれはできん。

いいえ、離婚して下さい。
あなたのために。

私のため?
私のためなら
その男と別れてくれ。
許すから。

許されなくっていいわ。
あなた我慢なさらないでいいのよ。
叩きたかったら叩いていいのよ。
好きになさってください。
でも
離婚はしてください。


そんなにその男がいいのか?
私よりその男がいいのか?

ええ。

残忍なんだなおまえは。
そんなにはっきり肯定しなくてもいいじゃないか。
な、 娘たちのために
やり直そう。

いいえ、
娘たちにもがまんさせます。

何言ってるんだ
気は確かか?

はい。
意志は変わらないわ。
お願いします離婚して下さい。
ここに、印鑑押して下さい朱肉も用意しています。

こ、これいつ取ってきたんだ
離婚届じゃないか。
本気なんだな?

ええ、本気です。
お願いします
慰謝料が欲しければ
一生かかっても支払います。
アタシはなにもいりません。
身ひとつでいいの
あなたと暮したこの家を出れれば。

女はすがる夫と娘たちを振りきって家を出た。


 12章

林檎どうして嫌いなの?

え?何言ってるんだよ、説明したじゃんか。

そーだった?忘れたわ。

じゃそれでいいじゃんか。

アタシがききたいのはほんとうの理由。

なんだいそれは?

アタシが知らないとでも思ってたの?

なんだよ、それ、変だぞきみ。

家を出た女は男の街へ移り住んだ。
離婚しない男の家から
歩いて数分の距離だったから
男は猛反対したが
女は応じず強硬に賃貸マンションを借りて
住みはじめた。
時々でいーの
奥さん愛していいのよ
アタシは時々でいぃの
お料理作って
毎晩あなたを待っているわ。
思い出したら来てね。
そしてたくさんセックスしてね。
男は応えられない。
近所の目がある。
いくら注意深くしていても
どこかでだれかが見ているものだ。
いつか必ずばれる。
そうなれば地獄だ。
どうーしてなんだ
どーしてこの女はこんなとこまで来やがったんだ?
度胸どころか行動力まで人並み以上じゃねぇか。

アタシのおねぇさんね
お空の上から毎日あたしに微笑んでくれるの。
いいでしょ?
そしてねこう言ってるの
恋は林檎よ
甘い果汁にくらくらするけど
芯はすごくにがいって。
林檎の皮は食べられるけど
食べなくてもいいものなのね
どっちでもいいんだけど
食べるか食べないかで
その恋は決まってしまうのよ。

おいおいなんだよそれ、
そんなものひきずって。

あなたは皮食べないよね。
おいしいとこだけ食べるよね。
アタシもそうなの。
ほら
苺ショートケーキ
アタシは真っ先に苺をほおばるわ。
あなたもそうでしょ?
それってね
積極的なんだってさ
なんかに載ってたわ。
セックスのことよ。
大胆なセックスを強要するんだって、
そう思う?

なんだそれ?
林檎だろそれ?
変だな傘かぶってるのか?
あ、CDじゃんか、ひどいなぁ
もう聴けなくなるじゃないか。

いっぱいしたね
アタシたち。
気持ちよかったよ。
ありがとね。
忘れないからね
アタシあなたのこと絶対に忘れないからね。
だから

これ食べてくれる?
うん
あなたのためにアタシフラレテあげる。
怖いでしょアタシが?
わかってたよ
うまくいきっこないって
かなしいね。

ごめんね
大好きだよ。
でもぼくは別れられないよ
きみとずっとこうしていたかった
ごめんね
その林檎食べるよ。
でもどーして縄通ってるの?
変だな。

ごめんね
ごめんね
ごめんね
大好きだったよ
ほんとうに大好きだったのよ
一生にいちどの恋だって信じてた。
こうしてあなたと一緒に暮せるなんて
夢がかなったの。
だからアタシはもう後悔なんかしない。
あなたの想い出だけ抱いて
帰ります。
丸かじりしてね
食べにくいでしょうけど
そのほうがあなたらしくていいわ。
あなたの食べる姿も好きだったなぁ。
大好き。

仕方ねぇな
最後に頼みきいてやろぉーか。
しかし林檎なんてな
なんてぇ皮肉でぇ。
あの女の匂いじゃねぇか。
どーしてだろぅな
あんとき
あの女の涙は林檎の匂いがした。
ぐすんぐすん泣きゃーがって
だれにでもやらせるくせに
どーして泣くんだ
オレだけ特別ってか?
まさかな
あの女のことだ
すぐにまた男ひっかけて
やりまくってたろな。
あと2〜3回くらい
やってやったらよかったなぁ
惜しいことしたぜ。
でも、う
気持ち悪いぜ
この匂いなんとかならねぇーもんか
吐き気がしてたまんねぇーぜ
このCDどけてもいいかい?

だめよ
食べにくいでしょうけど
最後のお願い
そのまま下から食べて。

かぶりついた男の首に女が縄を巻き付けた。
好きだなぁ
男はそれを訝りもせず
いつもの愛撫をしてやろうと
あれこれ考えた。
女は更に縄を巻き付けて引っ張る。
閉まる。
林檎を半ば食べ了えた男の上あごが燃えた。
おびただしい血が口からほとばしる。
しかし首に巻かれた縄と一体となった林檎は口から離れない。
女が後方で男を見下ろしている。
両手で大きな石をかかえていた。
石垣のがれきだった。
あの城跡の。


栓抜きは?それじゃ林檎をむいたことにはならないでしょう?

いいえ、ちゃんとむけましたわ。

そこがねよくわからないんですよ、あなたの説明だと。

利口そうなのに、鈍感なのね。
栓抜きを男の割れた後頭部に押しつけるのよ
ぐりぐり
これでもかと。
そしたら窒息しそうな男の歯で
ちゃんと林檎はむけるのよ。

最終章

妻は罪を犯しました。
それでも私は離婚しません。
田舎に健在な両親に説教くらいました。
娘たちも受験前だというのに
可哀想なことをしてしまいました。
社内で噂になっていることも知っています。
上層部で私の処遇を判断されているでしょう。
転勤は間違いないでしょう。
隣近所のママさんたちの井戸端会議の格好の
ネタをていきょうしてしまったようですね
この家にもうすめません。
がらがらと崩れた私の社会的地位
しかし
それがどうした?
と言ってまわりたい気分なんです。
わかっては貰えないでしょうね。
私はまだ妻を愛しています。
ばかだとか情けないとか
なんとでもおっしゃってくださって結構です。
浮気された妻を心の底から許してあげる夫がいても
いいじゃありませんか。
あいつは私のつれあいなんです。
妻が私にこう訊いた事をこのごろよく思い出します。
結婚の先にはなにがあるの?
あのころの私には答えられませんでした。
妻の愛を盲目的に信じきっていたからでしょうか
いいえ
違うかも知れません。
私には信じるとか信じないとかいう言葉すら
必要ないくらいそれはありきたりなことだったのでしょう。
妻の姉は女子高生の卒業を前にしてこの世を去りました。
書き置きが見つからなかったために
自殺かどうか審議されたでしょう
結局事故として扱われ
姉のすべての苦悩は荼毘に付されました。
苦悩とはなんだったのか
私は妻のこの犯行でようやく思いついたことがあるのです。
姉は妊娠していたそうです。
その相手はだれなのか
推察の域をでませんが
妻の不倫相手である事件の被害者ではなかったのか
姉からなんらかのキーワードを
授かっていたのではないかと推察しました。
まだ幼かった妻にとって
姉の死は衝撃的だったでしょう。
死ということをまだ出来ていない少女の
生前様子の違う姉からもれ聴いた
途切れ途切れの単語達は
妻になにかをすりこんでいったでしょう。
妻は林檎が好きでした。
幼い頃から好きだったと聞いています。
他の果物にはない異常なほどの執着をみせる林檎
これが姉の遺した核心だったのでしょうか。
運命は皮肉だなどと申しますが
私はそうは思えません。
偶然か必然かなども
私は思ってみたこともありません。
結果をどう論じたところで
過去は変わらない。
未来を変えたいのなら

しかないのです。
今をどうすごしてゆくか
それが私達にとって重要なことなのではないでしょうか。
パソコンにはまってゆく妻は
オフ会とかいう
ネット仲間の懇親会のようなものに出掛けるようになりました。
友達同士、
初めて逢う恐怖なんて妻にはなかったようです。
私の知らない一面を看るようでした。
メールと言うひとつの連絡手段が
これほど発達し全国津々浦々の男女の距離を
一瞬にしてなくしてしまうと
いったい誰が予測したでしょうか。
妻はオフ会で出逢った男達との関係を深めていきました。
何人かと肉体関係をもったかもしれません。
まるで読んで下さいとばかりに
無神経に残された
妻の日記や手帳には
予定と結果だけが記されてありますので
想像するしかないのですが
妻とは別人の手記を読むような気になってしまい
胸が切なくなりました。
切ない
いいえこれも違うかも知れません。
嫉妬と言うありてえな独占欲は
どうやら風化するもののようです。
愛情の量に比例するとかいう輩もいるでしょうが
私はそうは思いません。
愛情のバランスによって
妬心とは重さを変えてゆくのではないかと思います。
寝耳に水で離婚を切り出され
有無を言わせず家をでた妻は
離婚届の用紙を残したままでした。
その狼狽を私は
そうまでこの家をでたいのか
と沸騰する脳裏で舌打しましたが
その憤りの正体は
離婚という眼前の事実ではなく
妬心という忘れかけていた感情なのではなかったでしょうか。
安定していると信じて疑わなかった愛情に
これほどの妬心は毫も芽生えたことはありません。
釣り合わない荷重の変化に
私はついてはいけませんでした。
立ちすくんでいただけなのです。
三ヶ月が過ぎ
半年を経て
一年があっという間に経ちました。
冷静を取り戻せたかどうかは
自信がありませんが
妻のいない娘たちとの生活は
もう破綻していました。
妻から不倫を打ち明けられたと言う
どうしようも腹立たしい事実を
私は消化しきれませんでした。
ぼろぼろです。
私は生きる気力さえ失いかけていました。
それでも毎朝
決まった時間に目が覚めて仕事に出掛けなくてはなりません。
家に寄りつかなくなった娘たちのいない
真っ暗な家に帰宅。
それまでもこれからもこうして
同じ毎日を続けてゆくのは
苦痛でしかないでしょうか?
戻らない日々を思いながら酒量が増えてゆきました。
飲まなければ眠れないのです。
私は脳髄に鉄槌をくらったくらい
悟るのですはっきりと。
何を?
心を、です。
まじりっけのない
純粋な心を、です。
私は愛しているのです。
こうなっても
こうされても
まだ妻を愛しているのです。
叫びだしたほど会いたくて仕方がないのです。
私は妻の行方を追いました。
手がかりは残されたパソコンのメールボックスや
メッセンジャーとかいうものの会話履歴でした。
妻と不倫相手との
会話の歴史は恐ろしいほどの量でした。
別人のような妻の愛の囁きを
私は心を押し殺して読みました。
歯茎から血が出るほど何かを噛みしめながら。
どこかを触ってしまったのでしょう
何かが画面に立ち上がり
歌がながれました。
モー娘。?
それくらいは知っています。
どんな笑顔見せても
こころのなかが読まれそう
おとなぶった下手な笑顔じゃ
こころかくせない
あなたのうでに飛び込めなくて
すねたり泣いたりして
くちびる見つめないで
心の中が読まれそう。
男の住所が判明します。
その近くに妻はいるのでしょうか。
もう一年です。
男は離婚したのでしょうか。
有給休暇をまとめて取って
妻のいると思しき男の町へ行く前日でした。
1本の電話が入ります。
事件の報せ。
妻が男を殺害したと告げられても
にわかに信じられず
なんども問い返しました。
本当に妻なのか?妻が殺人を犯したのか?
どうしてだ
愛し合っていたのではないのか?
愛し合っていればこそ
私と娘と全てを投げ捨てて
男の元へ行ったのではなかったのか?
妻がひとをあやめる
あのおとなしい妻にそんなことが可能なのでしょうか?
私は信じられませんでした。
裁判がはじまり
依頼した弁護士から犯行の動機がどうしても
わからない
なにかを奥さんはかくしていらっしゃるはず
心当たりはないかと訊かれました。
わかりません。
私が妻に不倫された私なんかに
妻のなにがわかるというのでしょうか?
こんな恥さらしの木偶の坊に訊いてもむだですよ。
投げやりにならないで下さい
奥さんには明確な動機があって被害者を殺害しました。
それさえ判明すれば奥さんの罪は重罪にはなりません。
調べて下さい、奥さんのためではなく
あなたご自身のためにも。
そう言う弁護士には何かを
既に嗅ぎつけているような節がみられます。
動機?
愛情のもつれじゃないのか?
たんなる痴話喧嘩の果ての衝動殺人ではないのか?
用意周到に計算された犯行だって?
あの妻が?
私は完全に妻を見損なっていたようです。
妻の日記や手記
メールの写しや電話の履歴
そのほかあらゆるものを弁護士に手渡しました。
そして尋ねてみました。
君はなにかもう知っているのではないか?
妻がどうしてあんな残酷な殺人を犯したのか?
弁護士は答えませんでした。
ですが、沈黙しても、
肯定するかのように、
くちもとに笑を浮かべました。
なにかがあるのだ。
私には嗅ぎだせなかった何かが。
弁護士は敏腕でした。
私でさえ知りえなかった事実が
次々に明らかにされてゆきます。
精神鑑定も有利に働いたのでしょう
妻は驚くほど軽い罪で裁かれました。
ひとを殺しておいてたったの5年か!!
傍聴席で叫ぶ男の妻を妻は振り返りませんでした。
退席する中途
妻は私を見つめ
首をすこしだけかしげて
かなしい微笑を浮かべます。
ごめんなさいあなた愛しているわ
まるでそう言うかのように
悪びれもせず。

私一人で面会に訪れた時のことでした。
思いきって妻に問いました。
どうして林檎を復讐に使ったんだ?
復讐じゃないのよ、あれは。
じゃなんだ?
愛情の先にあるものは
林檎なのよ。
林檎?
あなた林檎いまでも好き?
うん好きだよ。
おねぇちゃんも好きだった。
あたしも好き。
でもねあの男は嫌いだったの。
でもね、ごめんなさい
気を悪くなさらないでね
あたしはいまでも男を愛していたわ。
おねぇちゃんの替わりなんかじゃなくて
ほんとうに心底愛していたの。
私よりもか?
それには応えたくないわ
分らないんだもの。
分っているくせに、私はそう思ったが
口には出さなかった。
林檎の果汁はね
十波羅蜜の味なの。
布施・持戒・忍辱にんにく・精進・禅定ぜんじよう・智慧。六度
の六波羅蜜に
方便・願・力・智の
四波羅蜜をくわえたもの、菩薩の修業ね。
すべての業が混ざり合い影響し合って
最後には透明な甘い汁になるのよ。
男の果汁は真っ赤だったわ。
床に流れ出した血の海にただよう甘酸っぱい
十波羅蜜のかおり。
あたしたちは来たのねここまで
男の背中に抱きついて
そう言ってあげたの。
愛していたんだね。
うん愛していたわ。
これからどうする気だい?
言っとくけど離婚はしないぞ。
本当?ほんとうなら嬉しいわ。

席を立った私に妻が声をかけた。

「ねぇあなた、結婚の先にあるもの判る?」
「判るよ、今ならね。結婚の先にあるもの、それはね
愛憎を乗り越えた無心だよ」
「無心ってなんだい?」
「そのうちに解るわ、あなたなら」
「気持ち悪いなぁ、はっきり教えてくれよ」
「いいえ、その時まで、楽しみにしてて」
「分ったよ、なぁ、おまえアイツのこと本当に愛していたのか?」
「どう答えて欲しいの?」
「そうじゃなくって、本当のことを言ってくれよ」
「じゃ、正直に言うわね。ええ、愛していたわ、あなたよりずっとずっと、ね。このひとだって予感、あなたには感じなかった。ごめんね。あのひとには、感じたの」
「そうか、でも離婚しないぞ」
「うん、あなたは最高の夫よ、ありがとうね」

一月後、妻は自殺しました。







































































2006 05/06 05:39:45 | none | Comment(0)
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  4月、眉月のある夜、

  男はとどいていた手紙の封を切った。

  そこには爛れ果てた情事が描かれていた。

  非の打ちどころのない造形が、潰崩するきわのうめきは、

  半分が皮肉(シニカル)だ。

  煙草に火をつけありきりまで吸いこむ。

  吐き出された紫煙が、たまたま掩蔽が隠れて現れた紫の輪を

  いそがずに包んだ。

  おののくようにさだまらぬ手で、いまいちど、読みかえす。

  花羞じらいて月閉じる、

  魚沈みて雁落ちる、

  美貌の喩えを、ふと思い出した男は、苦く顔を破った。

  男には、この瞬間が見えていた。

  こういった虫の知らせを、

  男は単なる『勘』だと信じていた。

  妄想を真実だと悟ったとき、

  ひとはどうするのだろう。

  だいじょうぶ、冷静だ。

  終わりの鐘はまだ鳴り響いてはいなかったが、

  けたたましく空気をよどませる前触れはひしひしと

  暗い部屋を迷いあるいている。

  せせりさがしては、ならない、

  漂失する浮標を憑けてはならない。

  モノローグは闇を手まねく。

  桶の内側をけずりあげる鉋をうちぜんと呼ぶが、

  けずりおとされるのが、よごれたものだけとは、

  かぎらない。

  意識を集中しなければ、のみこまれてしまう。

  男は、そのまま、心が悲鳴をあげるまで、

  考え得るあらゆるものを想起した。

  思椎に限界はない。

  愉快なおとこたち、

  最高だったおんなたち、

  逢ったこともない親爺とお袋、

  やがて、
  
  鳩尾の辺りから鎮まってゆくような風の途が通る。

  男は、みずからに問うた。

  それでいい、

  みじかく返事して、

  ある場所へ向かった。

  まだ、桜が散らないある処へ。



  2章


  蜻蛉獲りだと噂された。

  ひとっところに居を構えたことはないせいかもしれない。

  あみかごは、見えないが、しっかりゆんでに握られている。

  男が追い求めるのは、季節にこだわらない蜻蛉だった。

  春夏秋冬、その生に終わりはない。

  存在には、自然的・物的なものと、意識的なもの、

  さらに超自然的で非感覚的なものとがあるだろう。

  超自然的で非感覚的な物象とは

  そこにあっても、なくても、存在すると信じている限り、

  あるものを指す。

  そんなだれもが聞いただけでややこしくなるものを

  かれはずっと追い続けてきた。

  その仕上げが今度の旅になるだろう。


  桜はもう散っていた。

  遅かったのだ。

  
  蜻蛉はまたもや彼の傍から逃げた。

  移り香だけを残して。

  どこへゆけば見つけられるのだ、

  男に初めて焦りがあった。

  焦の字は、火と鳥でできている。

  夢のある火の鳥ではない、火で鳥をあぶる意だ。

  自信があぶられる、そんな気分を彼は味わっていた。

  彼が追うものを、人々はこう言う、

  未練、と。

  桜は散った。

  だが、彼の、「未練」は、いまだ散らない。

  夜の宿の心配よりも、

  行方を探さなければならない。

  必ず見つけ出す、

  男はそう決意して雑踏に消えた。


 3章


  夢は、その全てを人に語り伝えることは出来ない。

  しかし、われわれは、その夢のすべてを知っている。

  あるいは、忘れ、或いは、説明する表現を知らない、

  あるいは、筋道立てられない。

  しかし、われわれは、それでも、その夢の全てを見た。

  男は、南へ下った。

  金沢城から石川護国神社の参道を抜け、

  聖ヨハネ教会をのぼりおえた高台にその病院はある。

  精神科、神経内科、心療内科、内科、歯科があり、

  金曜日の午前9時、奴は外来を担当している筈だ。

  診療時間が終わる午後一時まで、

  男は時間を潰す。

  厚生年金会館の前を通って小立野通りに出るところに見事な桜と木蓮の樹が並んでいる。

  この道を、男は、浪人時代、この坂をのぼったことがある。

  ここだったのだ、ここから、おれの旅ははじまったんだ。

  午後1時の鐘の音が鳴り響いた。

  受付に呼び出しを頼む。

  院内放送が流れ、待合室で男は待っていた。

  麻倉さんは?

  精神科医山根さとるが現れた。

  男は立ち上がり、彼を捜す山根とすれ違いざま、なにごとかを、告げた。

  山根の顔色が変わった。

  石引有料駐車場まで、男は振り返らずに歩いた。

  山根は、黙ってあとに続いた。

  泥だらけの白いRVの前で、男は振り返った。

  来られると思っていました、山根医師が観念するかのような、

  低い声で会話の口火を切った。

  どこにいる?いっしょにいるのか?

  男は、山根の目を見据えながら問うた。

  その前にお伺いしたい、あなたは、彼女のどういう知り合いなのですか―?

  言い終えぬ内に、彼の頬桁(ほおげた)が燃え、陥没した。

  話し合う気は無い、黙って案内しろ、

  男はさらに低い声で強要した。

  おまえの自宅になんか案内するんじゃねえぞ、

  高尾2丁目だったよな、そこに嫁も娘もいる。

  電話番号は、076ー×××ー××××。

  山根の顔色が一層蒼くなった。

  どこにも逃げられないんだよ、もう、おまえは。


 4章

  臨済宗南禅寺派の修業道場である京都円光寺は、紅葉が見事なのだそうだ。

  同じ地名をもつ町をさらに南へ下ると、

  山科という聞き慣れた町に着いた。

  ここか?

  蜻蛉獲りは頬を腫らした山根がうなずいた。

  ひところ流行った2階建ての鉄骨モルタル造りのハイツだった。

  1フロアに6室、全部で12部屋の扉がふたりに向いていた。

  どの部屋だ?

  2階の右端の部屋です。

  視線で確認し、

  建物の両脇にある階段の左側からのぼる。

  訝しげな山根の表情に、

  男は小声で応えた。

  足跡で、気づかれるだろうが。

  部屋の前、阿藤という木彫りの表札がかけられている。

  あいつが彫ったやつだ。

  チャイムを2度鳴らし、数秒後に、もう一回鳴らす。

  それが合図なんだろう、

  しゃらくせえやつらだ。

  男は声に出さず、扉の吊り元側、右に移動した。

  ドアチェーンをはずしていないのだろう、10度の角度しか開かない。

  まぁどうしたのその顔!!

  なつかしい声がした。

  夢にまで見た声がした。

  この扉の向こうにその声の持ち主がいる。
 
  とうとう見つけた。

  せきまえに閉じられた扉が今度は90度に開いた。

  まーちゃんごめん、

  山根が女に告げた。

  女は山根の傍らに立つ男に視線を奪われて、膠着していた。

  あ、麻倉さん・・・・・・。


  
 5章

  相変わらず分量の目利きが下手な女のたてた

  どろどろの珈琲が、座卓に運ばれた。

  卓の中央に濃紫・黄・白の斑をばらまいた三色スミレが萩焼の花瓶に挿され、

  ふたりとひとりをわけていた。

  窓から西日が差し込んで、視界が暗い。

  
  阿藤真砂子、

  45になるのにまだその美しさに陰りがない。

  目元の隈が所帯の辛さを浮き彫りにしているようだが、

  白磁器のような肌は健在だった。

  男が彼女と知り合ったのは、

  1年前の大阪だった。

  大學進学する娘の部屋を探しにきたついでだったろう。

  伊勢丹の進出に合わせて大改装を行ったJR京都駅、

  贅沢過ぎるほどの空間をおしげもなく使い果たしたような、

  長い長いエスカレーターに乗ると、

  空に浮かんでゆくような錯覚に陥る。

  昇りきった屋上に、

  女が立っていた。

  麻倉さん、少女のようだ、と男は女の声を

  眩しい印象を繊細に上書きされた。

  
  そうちゃんは気丈に暮しているよ、

  男がはじめて声をかけた。

  元気にしてる?あの娘、料理なんかできないから。

  元気だ、ときどき、電話が来る。

  鎖骨が目立つほど痩せた。

  青みがかるほど白いその顔は、

  陽を背にうけながらなおも白い。

  男は、目のやり場に困るように、

  壁の傷跡を見つけた。

  数ヶ所、右上から左下に3本の深い引掻き傷。

  床のフローリングにも、同じ傷があった。

  爪か?

  そのときだった、

  沈黙してうなだれていた山根の様子が気味悪く笑い出した。

  ひっひっひっひっひ・・・・・。

  肩が震え出す。

  細かく左右に揺れたかと思うと、

  激しく上下に振動しはじめた。

  麻倉さん、帰って下さい!!

  女が叫んだ。

  少女の叫びだ、しかし、その音色は、

  真摯さにまみれている。

  まーちゃん、どうしたの・・・・・、

  二の句を継ぐ瞬間だった、

  山根が急に立ち上がった。

  だが、その背丈は山根じゃない。

  その影も、山根じゃなかった。

  逃げて!!!!

  女が叫ぶのと同時だった、

  山根の影はさらに膨らんだ。


 6章

  個人にはプライバシーがあります。

  交際する男女にも、共有して守らなければいけないプライバシーがあるんじゃないのですか?

  それを公開されたら、

  死にたくなります。

  配る方は着衣姿で、配られた方は下着だ。

  それで並んだ姿なんだ。

  
  そんなことしないよ。

  どうしてそんなことしなければいけないの?

  
  山根さとるって誰ですか?

  どういうお知り合いなのですか?

  
  相談に乗ってもらったお医者さんです。

  助けてもらってたけど、

  もう連絡してないですよ、

  あなたとお会いしてお付き合いはじまってからは。


  変ですね、あなたがそのひとに出したメールが、

  自分のところに着てるんですよ。

  
  そんなばかなことあるわけないじゃない。


  そんなばかなことが起きたんですよ。

  転送してさしあげますよ。

  彼誕生日なんですかもうすぐ?

  そんな内容でしたよ。


  ひどい、だれがこんなことしたの!!

  ひとのメールぬすむのはんざいですよ!!!


  待って下さい、自分は山根さとるなる人物を、

  このメールで初めて知りました。

  このアドレス、

  やっぱりあなたのだったんですね?


  むすめのアドレスなの。

  ぜんぜんつかってないのよ。

  どうしてアタシだとおもったの?

  
  115って半角数字、あなたの誕生日じゃないですか。


  こないのわかってるから、だしたの。

  へんじのない一方通行のてがみ。


  抒情的ですね。

  ひろびろとした丘の上で桜がさみしく散ってゆくようだ。


  かくしてなんかいないわ。

  いわなかっただけよ。


  

  学会?

  彼がここに来るのですか?


  しょうかいしてあげるね。


  結構です。

  それよりも、その連絡は?


  メールがきたの。


  そうですかメールがね。


  あ、かんちがいしないでね。

  ひさしぶりにあうだけだから、

  あなたもいっしょよ。

  
  逢いませんから、あなただけ、お会いください。

  自信がないです、自分を抑えられるかどうか。


  へんなの、じゃあわないわ。


  いいえ、あなたはお会いになる、必ず。


  あわないわよ、あなたがかなしむもの。


  おすきになさってください。


  しんじてね、あわないから。


  
  会いに行ったんですね?

  あれほど会わないって言ってたくせに。

  そこまでして会いたかったのですか?

  そこまでこだわらなければならない友人なんですか?

  メル友っていうのは

  それいがいの全てを犠牲にしても、

  だいじなひとなのですか?

  電話、出てくれませんね。

  このメールにも返事はないでしょう。

  山根さんてひとから、メールが来ていました。

  ここ数日のあなたと交わしたメールやメッセが貼付されていましたよ。

  説明してもらいたかったけど、

  返事もしてもらえませんからね、

  誤解されたままで平気なあなたが自分は羨ましいです。

  今夜、また会うのですね。

  身辺は潔くありたいと、

  自分は決めています。

  これがあなたの別れの言葉と受け取ります。

  ありがとう、いままで、あなたを好きでした。



  麻倉が呼ばれたのはトシオが失踪する前の晩だった。

  数年ぶりに会う彼は、憔悴しきっていた。

  心が病むと、肌も病む。

  肌が病むと、外見が変貌する。

  別人のようだった。

  トシオの依頼を麻倉はこころよく承諾して、

  安心して行ってこい、骨はひろってやる、

  細くなった背中を押した。


 7章

  世阿弥の能にも記された妖かしがいた。

  源頼政が紫宸殿上で討ち取った、

  頭は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似た妖かしも、

  同じ、

  鵺(ぬえ)と謂う。

  妖かしとはいえ、ひどい描写だ。

  ひとではない形相に、ひとではない体躯、

  ひとは変化(へんげ)しないと信じられているうえでの剪定(せんてい)だろう。

  きつねつきの女の形相を観たことがあるだろうか。

  ヒステリーの一種だと解説されても、にわかに信じられないほどの変貌ぶりだ。

  その顔は、きつねそのものだからだ。

  情に偏執した顔は、どうだろうか。

  憤怒の顔、それも、違うのだろうか。

  ひとは、心の顔をごまかせない。

  感情が激すれば、なおさらだ。

  純粋な意味で、ポーカーフェイスなどありえない。

  心の起伏は、その肌にまで現れるし、

  吐息にまでこもる。


  
  訥々怪事。


  ひっひっひっひっひ、

  山根の呼吸補助筋の強直性痙攣(つまり、しゃっくり)めいた声が止まった。

  やりたい放題、やってくれたよな。

  その声は、山根の声ではない。

  さとるちゃんやめて!!!

  女が絶叫する。

  麻倉は、異様な圧迫を山根の影から受けていた。

  影をとりまく大気が圧縮されて飲み込まれるような、

  異様、と形容したい緊迫だった。

  がちゃり、がちゃり、と重厚な金属音が2度響いた。

  影の形容が変わっている。

  手だった部分が、鋭い鉤爪をはやした熊手のようだった。

  こいつはいったいなんだ、

  麻倉は瞬時に攻撃を予感した。

  あいつもはじめは威勢がよかったぜ。

  おまえトシオに何かしたんだな?

  おなじところへ送ってやるよ、感謝しな。

  殺したのか?

  まーちゃん、そうなのか!!

  逃げて麻倉さん!!

  一瞬男の気がそれた。

  虚の間は、容易に危機をさそう。

  影の爪が右から飛んできた。

  寸前でよけた、つもりだった。

  だが、爪は男の衣服と胸の肉片を奪い去っていた。

  あの鉤爪は、のびるらしい。

  まいった、避けようがない。

  かっと熱くなる胸にを抑えると濡れている。

  血が噴き出ているらしい、それを確認するひまはなかった。

  じわじわと、死を予感させられる間合いがつめられる。

  あの手の内側に飛び込まない限り、勝機はない、

  覚悟を決めた男は、左に跳んだ。

  影がそれを追う。

  男は跳ぶと同時に、右に跳躍した。

  影に肩をぶつけ、その頭部を両手でわしづかみ、

  頭突きを鼻らしき箇所に3度いれた。

  ぐしゃり、と骨のつぶれる音がする。

  そのまま襟らしき箇所を両手でにぎり、
 
  背中を胸に合わせ、しゃがむように、腰に乗せた。

  背負い投げ。

  影が鈍い轟音をたてて床にたたきつけられた。

  受け身は取らせない。

  たたきつけたのだ。

  しかし、投げられながら影は、腕を一閃させて男の腿を裂いていた。

  ひるまぬ男は、顔面に蹴りをいれ、

  めまいをこらえながら肘打ちをつづけて落とした。

  抵抗されては、負ける。

  男は、2度、3度と、肘内を入れる。

  どこにいれているか、感覚がない。

  勝てるかも知れない、そう思った瞬間だった、

  後頭部を衝撃が貫いた。

  がしゃん、ばらばらと、砕けこぼれる鈍器の音が衝撃を押した。

  ま、まーちゃんなにするんだ・・・・・・

  ふりかえった男の目に、泣きながら佇む女が見えた。


 8章
  
  懈怠(けたい)の内に巣くうものは、

  どこからやって来たのだろうか。

  女は、幸せではなかったのかもしれない。

  夫と娘たちがいて、家があり、親族がいた。

  魔が差したのだ、とは、とても思えないくらい、

  その熱波は衝撃だった。

  量子力学で、空間の中に有限の拡がりをもつ波動関数のことを、

  波束(はそく)とよぶ。

  この波動関数が代表する粒子は、空間のその有限の部分でだけ存在の確率を有し、

  粒子のおおよその位置がこの部分の中にあることを示す。

  われわれは、有限の世界で生きている。

  そう、

  なにげないひとことから、

  すべては、はじまった。

  女が山根と知り合ったのは6年前だった。

  衝撃は直線でやってこない。

  波である。

  波動を少しづつ受けて、

  やがて、堰が切れるように、

  心を一変させるほどのつみかさねた事実をつきつける。

  どの時点が波の頂点で、どの時点が底部なのかは、さぐれない。

  事実、つまり、「愛情」を自覚する時点が、

  最後の最後の、瞬間だ。

  面白いものだ、最後の瞬間が、同時に愛情の発露の瞬間なのだ。

  女は、山根に逢った。

  逢い、抱かれ、なにもかも忘れて、

  磁気嵐のような情感に身をまかせた。

  この時間があれば、自分は、生きてゆける、

  とまで、確信する。

  家に帰れば現実が待っている。

  ならば、これは、夢実なのだと確信する。

  それから6年、

  女と山根の不倫は続いた。

  

  過酷な現実への代償が必要だった。

  身近で即応できるほど好ましい。

  男はごまんといる。

  だれでもいいわけではないが、

  女の嗜好はうるさくない。

  優しい、それだけでもいいくらいだった。

  そのひとりが、倉木俊男だった。

  麻倉と倉木は、高校生時代からつるんでいた。

  傍若無人と敬遠されていた麻倉は、

  倉木と知り合い、友好を深めるに従って変わった。

  蜻蛉は追うが、地に足をつけられるようになった、と、

  倉木を通じて増えていった友人達の眼の鱗を落とさせた。

  麻倉は、人がましく、なった。

  俊男が女を紹介したのは、

  自慢したいだけではなかったろう。

  女は、麻倉の携帯電話の番号を知り、

  ふたりで逢おうと、連絡してきた。

  少女の声だった。

  このまま年老いて、こんな声だいじょうぶなのか?

  要らぬ節介やきたくなるくらいだった。

  女は麻倉と違い、人見知りしなかった。

  麻倉のことを知りたがり、

  麻倉の警戒心は溶けた。

  だからといって、興味を抱いたわけではない。

  麻倉の感情はそれほど短絡ではない。

  女には、そうなるためのなにかが、欠けているように思えた。

  俊男も同じことを感じているのか聞いていなかったが、

  一筋縄じゃいかない印象を強めた。

  腹蔵のない女は、こういった接近を好まない。

  窒息、糜爛(びらん)、血液ガスに襲われたような即効性はないが、

  覚醒剤などの麻薬系でもない、

  しかし、染まれば、必ず身を滅ぼすであろう危険な匂いがした。

  少女が、みずからを少女と思わないように、

  悪女は、自分を、悪女だとは思わない。

  俊男は、からめ捕られるように、街から消えた。

  ふたたび連絡が来た時、

  声の変わりように驚いたものだ。

  なにかが起こる、

  麻倉はそれを危惧していた。

  こういう予感は、いやなことに、よく当たる。


  俊男から最後の電話が来た時、

  麻倉は彼を止めなかった。

  ひとりで行ってこい、

  そう背中を押してあげたつもりだった。

  そうしなければならないし、そうしなければいられない筈だから。

  だが、

  俊男は、消息を絶った。

  消えた女を追うように、俊男も消えた。

  女の家族に会い、

  女の友人達を軒並み訪問して得た情報をまとめると

  山根、という名前が浮かび上がる。

  俊男からは、女の過去を聞かされていた。

  普通の恋は、不倫に負けた。

  現実が夢に敗れたのだ。

  それを俊男に言ってやりたかった。

  選ばれなかった恋は、紙屑以下だ。

  拠所になりはしない。

  それまで築いた全てをおまえは喪失したのだと。

  だが、激昂もせず、話をつけるてくる、

  そうしなければならなくなった、と、

  決意の程を聞かされて、麻倉は何も言えなくなった。

  恋愛に騙し騙されたはないと、人は言う。

  だが、麻倉は傍観者の立場に立っている。

  彼にとっては、敵か、味方か、そのふたつがあるだけだ。

  一歩でも敵の陣地にいるものは、敵とみなす。

  ややこしいのはごめんだから、揉事はシンプルにしなくちゃいかん。

  やるかやらないか、我慢できるかできないか、

  それだけでいい。

  麻倉は、動いた。

  山根が、この失踪の中心にいることは分っている。

  だが、動機が解明できなかった。

  山根にも家族がある。

  俊男から女を奪ったとしても、女を家族以上に愛せはしないのだ。

  山根にとっては、適度の距離を保っていた、

  それまでの関係が、都合いい。

  逢いたいとメールに書けば、女は会いにくる。

  抱きたいと書いただけで、女は抱かれにくる。

  それで、良かったはずだ。

  だから6年も続けられたはずなのだ。

  女の気持ちなんて、分りたくはない。

  どろどろした情念なんぞごめんだ。

  山根の意図はどこにあったのだ?

  どういうつもりで女に接近したのか、

  あるいは、どうして女が山根を選らばなければならなくさせることができたのか、

  麻倉は、それを確かめたかった。


 9章


  北陸鉄道石川線どうほうじ駅と県道157号線に挟まれた

  安養寺に不当たりを出して閉鎖された小さな町工場があった。

  債権者たちによって、機械は運び去られ、

  残されたものは、

  塵埃(じんあい)と、錆びた螺子(ネジ)、

  年代物の薄いモルタル床の亀裂の錆色と、埃だらけのスレート壁だけだった。

  人のいない建造物は、老いる。

  まるで、吸収する人間がいないために、

  自由自在に立ちこめる澱んだ気が、

  異臭とともに内部を侵食していくかのようだ。

  スレートの留め金具の隙間から、

  陽光が差しこみ、モノクロの埃を映しだす。

  気がつくと、後ろ手に縛られていることを知った。

  麻倉は、ここに運び込まれた記憶がなかった。

  身動きしようにも、

  ご丁寧に、両足まで縛っている。

  誰もいない。

  少なくとも、一晩はここにいたのだろう。

  後頭部に激痛が走った。

  女がどうしてあんなことをしたのか、

  それほどまでに山根を庇いたいのは、

  失踪された理由に基づくのだろうか。

  考える時間はたっぷりありそうだ。

  意識に霞がかかり遠のくさなかに、

  麻倉は女の顔を見た。

  俊男もこの顔を見ただろう。

  裏切る顔は、醜い。

  愛するものの裏切る顔は、まして、醜悪だ。

  俊男はその顔に絶望しただろう。

  女の目尻の隈が、その顔を決定づけた。

  悪女とは思わない。

  これがもしかしたら女と言う種族の「素」なのだ。

  俊男は知り合った頃から女にもてた。

  少しだけワルで、たまらないほど優しい接し方に、

  容貌が加味されて、女達は夢中になった。

  その俊男をしても、女を御しきれなかったのだ。

  山根がそれほどいいのか、

  6年と言う歳月は、それほどの価値をもつのか、

  女にも答えられないだろう。

  車が停車する音がして、エンジン音がやんだ。

  がちゃがちゃと、鍵だろうか、施錠を解く音が響いた。

  音にも、埃たちは、反応する。

  こころなしか、咳を誘発された。

  開け放たれた通用口に、人が立っていた。

  逆行でシルエットから女だと認められる。

  影が近づいてきた。

  どうして麻倉さんが来るの?

  来ちゃいけなかったのよ。

  あなたまで犠牲にしたくなかった。

  女が抑揚のない声でしゃべった。

  俊男をどうした?

  知らない方がいいわ。

  生きているんだろうな?

  それも知らない方がいいわ。

  君も共犯なのか?

  変な訊き方ね、共犯?まるであたしたち犯罪者みたいじゃん。

  じゃ、俊男は生きているんだな?

  あなたにも同じところへ行ってもらうわ。

  どこだ?

  そんなに知りたい?

  ああ、教えてくれ。

  女は白衣を着ていた。

  ナース服だ。

  右のポケットから注射器をとり出した。

  麻倉さんは、なにもない世界って好き?

  なんのことだ?

  いまから案内してあげるわね。


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2006 05/06 00:44:57 | none | Comment(0)
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