2007年 04月 の記事 (1件)

女は言った。
   「あなたの瞳はいつも真っ暗だわ」
   瞳は対象をとらえるために開く。

                   ジム・モリソン

俺はちびで醜い。
団子っ鼻で、
3段腹の脂っこい中年男だ。
俺みたいなのが女にもてるわけがない。
そんなこたぁ、わかっていたさ。
この世の中は、金で動いている。
終戦後、
金のためならなんだってやってきた。
生きるために、どんな卑劣なことだってやってきた。
学歴のない俺がこの世で学んだたったひとつの哲学は、
人も金のために動く、ってことだ。
初老を迎える俺に縁談があった。
倒産寸前の取引先の社長の一人娘らしい。
資金援助が目的なのは判っていた。
揉み手で、良縁でございますと勧める父親の額には、
金を貸してくれ、と書いてある。
一人娘と見合いしてみると、
驚かずにはいられなかった。
まさか、と見間違うほどの美しさだったのだ。
こんないい女が、俺なんかと結婚したいはずがない。
親に言い含められていたのだろう、
一人娘夏子は、
俺のプロポーズをその場で承諾した。
結婚生活は、とりとめのない猜疑心の日々だった。
俺は俺の全てを知っている。
俺なんかを、妻となった夏子が愛してくれる訳がない。
興信所を何社も使って、
夏子の浮気を調べさせた。
だが、どの興信所も尻尾をつかめない。
皆、シロ、だと報告した。
そんな馬鹿なことがあるか、
俺は意地になって、更に十数社の興信所を使った。
夏子は夫の私に尽くす完璧な妻を演じていた。
風呂場では必ず背中を流してくれ、
毎夜の肉欲にも堪えて、愉悦をかくさない。
しかし、尽くせば尽くすだけ、
美しさがより美しく磨かれてゆくだけ、
疑惑は募る一方だった。
こんな女が俺なんかを愛してくれるわけがない。
下品で学歴もなく家柄もない、
でかっ鼻の中年男を愛してくれるなんて、
甘ったれた夢を俺は信じなかった。
人はだれでも金のために動くのだ。
そんな俺のたったひとつの哲学を覆されそうな
夏子の笑顔の下の嘘を、
あばく日がやってきた。
突然姿を消したのだ。
信州のある山の付近でガイドや山小屋の番人をしている南條という若い男と夏子が同棲していると、
興信所が報せてきたのは、一ヶ月後のことだった。
俺は、
みずからの哲学を証明するために、
妻の嘘をこの目で見るために、
俺の目が狂いなかったことを自ら証明するために、
いいや、
金で買った愛情なんて紙切れよりも薄っぺらくもろいってことを
確かめるために、
南條に偽名でガイドを頼み、
彼らが同棲する山小屋での宿泊を予約した。
夏子の旧い友人だという南條は、
若く、国立大卒の美男子だった。
そうだろう、
この男が、夏子の彼氏だったに違いない。
世の中には釣り合いという、
自然の天秤がある。
学歴のない男に学歴のある女は惚れない。
美男美女はしばしばくっつくこともあるが、
醜男と美女は正常な関係を保てない。
分相応、家柄なんて関係ないなどという、
しょうもないハッタリがまかり通るのは、
少年少女の青臭い夢物語であることを、
どうして大人たちは語らないのだろうか。
真実を知らせることこそが教育の原点ではないのか?
学のない俺には理解できないが、
南條は、俺の偽名を疑いもせず、
険しい山を案内した。
国立大出身のくせにどうしてこんな仕事を選んだのか、
頭の好いヤツの考えることなんか俺にはさっぱり分からない。
さっぱり分からんヤツが、冬登山は危険だという。
そんなこと知るかよ、
俺は趣味らしいものをひとつももっていない。
登山なんてド素人なんだ。
ガンジキを履き、
ピッケルを使って、
登山は中途まできた。
頂上付近から、小さな石ころが転がってきた。
「雪崩です」
南條が表情を変えて、俺に指示した。
津波のような雪の波が空を覆うくらい巨大に咆哮しながら
押し寄せてくる。
よかったな、南條、
これで俺が死ねば、
財産はすべて夏子のものになる。
俺には親も兄弟も親類もいない。
天涯孤独の捨て子だったんだ。
夏子の嘘を証明できぬことが心残りだが、
仕方があるまい、
これも運とあきらめて、
死んでやろう。
大きな石が額に直撃した。
一瞬に、視界が朱色に染まった。
もう、これまで、
と観念は一瞬だったろう。
だが、南條は、俺をサポートして、
数メートル下の巨大な岩の陰にひきずり、
雪崩をやり過ごした。
俺を本気で助けたのか?
俺はたまらずに、いきさつを白状した。
だが、南條はそれを否定した。
夏子は、あなたを愛していると。
頭部に岩を受けて流れ出た血が視力を奪っている。
遠のく意識に、
南條が必死で励ましていた。
「しっかりしてください、
夏子さんの真実を見てあげてください。
彼女は一ヶ月前、
私にしばらくここに置いてくれと頼みました。
事情があることは、
様子で知れましたが、
訊かずに一緒に過ごすことにしました。
彼女は、よせというのも聞かず、
毎日、炊事洗濯まき割りに、登山者の世話まで焼きました。
無理がたたったのでしょう、
寝込んでしまったこともある。
その時、彼女は何故山小屋を来たのか理由を語り出しました。
結婚して三年、
本当に幸せだった。
しかし夫はわたしに心をいちども開かなかった。
わたしも女だから、
夫の愛を確かめたかった。
もし本当にわたしを愛してくれているのならば、
夫はどんなことをしてもわたしを捜しだして
連れ戻しにきてくれるだろう。
でも、そうでなかったら、
わたしは一生山を下りるつもりはない、と。
あなたが偽名で僕のガイドを頼む手紙を見て、
夏子さんはすぐにあなたの筆跡であることを見抜きました。
どんなに喜んでいたかあなたにわかりますか?」
そんなことがあろうはずがない。
証拠はどこにもないじゃないか。
ろれつの回らぬ舌は、
それでも意思を伝えてくれた。
「それじゃ、あの声はなんなのですか?」
声?
たしかに何かを呼ぶ声が遠くから聞こえた。
女の声だ。
夏子の声だ。
「あなた!!あなた〜!!」

俺はこの世の最後に、初めてこの世の真実を知った。

遺骨を胸に家に戻る夏子に南條が訊いた。
「失礼とは思うけど教えてくれ、彼のどこに惹かれたんだ?」
すると夏子は、
目を細めながらこう答えた。
「あのひとの瞳、あのひとがどんな生き方をしてきたのかわたしには判らないけれども、
あのひとの瞳には、一生懸命に生きてきたひとだけがもっている光があった。
どんなに苦しくても精一杯頑張ってきた光があった。
その瞳を見た瞬間、
理由もなく胸がつまったの」

高校3年生の秋、この漫画を読んで感動した私は、
当時交際していた彼女に読ませて感想を訊いた。
彼女はこう応えた。
「夏子は結局夫を殺したのよね。ほんとに愛していたら、そんな危険な賭けに出るわけがないわ」と。

なるほど……。
2007 04/19 22:34:31 | none | Comment(0)
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