2007年 11月 の記事 (1件)


  春秋時代の中国、
  紀元前598年、
  陳国の大夫の夏微舒(かようじょ)というものが
  主君を殺して自立した。
  中国屈指の美女に数えられる彼の母、
  夏姫(かき)はもと鄭国の公女で夏微舒の父親に嫁してきたが、
  その美貌は傾国の域をはるかに超越していたそうだ。
  実は夏家に嫁ぐ前、
  夏姫は実家で兄の霊公とその弟の子公と同時に通じてしまい、
  兄の霊公は嫉妬に狂った子公に殺されてしまった事件があったが、
  夏家には親族の恥と内緒にしていただろう。
  陳に嫁してきてからしばらくは良き嫁を務めていたようだが、
  夫の死後、
  陳主の平国に言い寄られ、これと通じた。
  よほど淫奔な女であったのか、
  気が弱くて男の誘いを拒みきれない性質だったのか、
  次には大夫の孔寧(こうねい)という者とも、
  儀行父(ぎこうふ)という者とも通じた。
  三角関係どころか四角関係だ。
  三人の情夫の間には格別な問題が起こらなかったようだ。
  それぞれがそれぞれの家庭をもっていただろうから、
  どう話をまとめたのか、仲良く、また平和に情交がつづいた。
  平和というところがいかにも、異常でいかがわしい。
  あるとき、いかめしい儀式が政治堂で催され、
  正面に座していた平国がにやにやほくそ笑みながら大夫席を見て、
  ちょいちょいと襟元をくつろげて見せた。
  すると二大夫もにやにや追従笑いしながら揃って襟元を広げて見せた。
  三人とも夏姫からもらった女物の下着を着ていて、
  それを見せびらかし合ったという次第だ。
  神聖なる政事堂の百僚有司の列座するおごそかな儀式の場で、
  兄弟講をやったのである。
  これで、どろどろの関係を薄々は知っていた世間が
  はっきり事実と知れるところとなり、
  ぱっと高い噂が巷をはしった。
  当時の中華思想は、嫁を共有しあう遊牧民族独自の民法を最も野蛮と蔑すむ。
  つまり不倫関係もひとりの女を二人の男が共有するのだから、
  野蛮で汚いものを見るように蔑視されてしまう。
  もう青年になっていた夏微舒にとっては、屈辱だっただろう。
  亡き父への操も守らず、こともあろうに三人と通じる母。
  それでも情夫のひとりが主君であるからには、どうすることもできない。
  歯をくいしばってこらえた。
  歯噛みする歯茎は破れ、腸は煮え湯を飲み続けただろう。
  翌々年の夏、
  夏微舒の家に慶祝事があって、多数の賓客が集まった。
  その席で、平国は酒興に乗じて、二大夫に言った。
  「見ろよ、微舒はその方ども二人に似ているぞ。
   眉のあたりは孔寧に似ており、姿は儀行父にそっくりだ」
  その方どもの胤(たね、種)ではないのかという意味だ。
  二人は笑いながら、
  「とんでもございません、顔も姿も君公そっくりでございます」
  とやりかえした。
  微舒の父をあわせて五角関係だったのだから、
  誰の胤かわからないという冗談だったろう。
  微舒はもう我慢ならず、
  その夜、平国が乱酔して辞去し、
  車寄せで侍臣がさしだす松明の灯をたよりに
  馬車に乗り移ろうとするところを、
  暗闇の中から弓を引き絞り、一矢に射殺してしまった。
  夏氏は一族のひろがりもあり、家臣も多い。
  世間の同情者も多かった。
  堅固な備えを立てたので、
  姦夫のかたわれである二大夫の力ではどうしようもなかった。
  一目散に隣国の楚に出奔し、荘王に訴え出た。
  荘王は兵をくりだして自ら征伐し、
  夏微舒を殺し、夏姫をとりこにした。
  少なくとも四十になっていた夏姫は、おどろくほどの容色だったという。
  年を感じさせないほどの化け物じみた若々しさと
  艶冶(えんや)をもっている。
  さすがの豪傑王とあだ名された荘王も恍惚として魂を奪われた。
  枕席に召して寵愛し、数日の間、われを忘れた。
  連れ帰って後宮に入れようとすると、
  「夏姫はこのたびの大乱の基、希代の淫女であります。
  かかるものを寵愛なさっては、
  天下の望みを集めてやがて天子たらんとする大王の大目的を
  敗ることは必定であります。
  ご反省を促したてまつります」
  と大夫の巫臣(ふしん)が諌言した。
  荘王はおおいに未練を残したが、
  さすがに賢君の名に恥じぬ、
  いさぎよく断念して、将軍の子反(しはん)にくれてやった。
  子反が大満悦でいると、巫臣はその子反のところに来て、
  「夏姫は不祥の女でござる。
  彼女のあるところ、必ず不祥事がおこり、
  彼女に関係したものは皆不幸な死をとげています。
  天下に美女は多いに、
  なぜによりにもよって、
  このような不祥な女を得てよろこんでおられるのです?」
  と、忠告した。
  巫臣は楚で賢人の名の高い人物だ。
  子反は反省し、夏姫を返上した。
  かわりに大夫の襄老(じょうろう)が荘王に乞うて、夏姫をもらい受けた。
  それから間も無く、
  楚は晉(しん)と大合戦して大勝利を得たが、
  この戦いで襄老は戦死し、その遺骸は敵に持ち去られた。
  葬式もできないのは、この時代、大変な不忠にあたった。
  「不祥な女をめとった報いである」
  と世間では身の毛をよだたせた。
  夏姫は未亡人として、その家で暮していたが、
  今度は、襄老の長男の黒要という者と密通し、
  それが世間の高い噂となる。
  容色は男を狂わすに足る。
  狂わされる男は、溺れ、沈み、気骨を溶かされてしまう。
  
  巫臣はこれを聞いて、たまらなくなった。
  彼が夏姫を寵愛する男のあるたびに諌言忠告してやめさせたのは、
  彼自身が夏姫に恋情を抱いていたからだった。
  一目惚れだったろう。
  この女こそが我が畢生の伴侶たりうると、感嘆しただろう。
  巫臣は冷静で、頭のよい人物であったから、
  その恋情は素直な形では出てこず、これを毛嫌いする形で出、
  自分でも嫌っていると信じていたのだが、ここに至り、
  自身の本心を知ってしまった。
  頭の出来の善し悪しは、恋愛道には関係ない。
  どんな高説のたまう学者も、色事に関しては、
  瞬時に子供と化す。
  嫉妬なんていうものは、
  幼児期の名残に過ぎない。
  名残をいつまでも統御できない野郎は、大人ではない。
  真に大人足りうるものは、
  自身の潜在意識に巣くい根をはりめぐらせた、
  蜘蛛のような欲望を制御できるものだけだ。
  無論、子供返りした巫臣は気も狂わんばかりとなった。
  
  巫臣は夏姫(かき)を訪問して、自分の恋情をうちあけ、
  「実家の鄭(てい)に帰りなさい。
  そうしたら折を見、拙者が求婚して、
  夫人として迎えるでありましょう。
  鄭に帰られる工作は拙者がします」
  と説いた。
  夏姫は承諾した。
  義息の黒要と関係を続けながら、である。
  不謹慎だが、
  これだけしたたかで純粋な奔放さには却って純情ささえ覚えてしまう。
  襄老の死骸を晉(しん)が返してくれることになり、
  夫人である夏姫が引き取りに来れば今すぐにでも返す、
  という通知が来た。
  夏姫は荘王に願い出て許され、鄭に帰った。
  楚は斉(さい)と通謀して魯(ろ)を挟撃する策を立てた。
  その戦期の打ち合わせのために、
  斉に送る使者に巫臣が選ばれた。
  思惑通り、時は、きた。
  彼は一族郎党をひきつれ出国した。
  もとより戻るつもりはない。
  巫臣の家は、名流で富み栄えており、
  巫臣自身も楚国の賢大夫として
  最も有用な人物として世に仰がれていた。
  王の信任も厚かった。
  だが、
  彼は夏姫を求めて、これら全てをすて、
  国をすてた。
  愛欲の情熱は時として一切の計算を忘れさせるもののようだ。
  これも二千四百年後の現在とさして変わらない。
  価値とは、それだけのものだ。
  巫臣は鄭にゆき、夏姫と結婚した。

  この事件を調べて驚くのは、
  この時夏姫の年はどう若く計算しても
  五十近くになっていたはずだ。
  妖怪じみた美しさであったと言えようか。

  この後、巫臣は、
  かなった恋に耽溺するだけではなく、
  夏姫や族人達と共に一度は斉に入ったが、
  斉が鞍の戦いで晋に敗退したのを受けて、
  亡命先を晋へと変更した。
  そこで「快男子」と天下に名の聞こえた郤至を頼り、
  ?の大夫として正卿の郤克や晋の重臣達に重用され、宰相にまで栄達する。
  巫臣の晋での評判を聞いた当時の楚の重臣である子反、子重(公子嬰斉・荘王の弟)は、
  「晋へ賄賂を贈って巫臣を用いられないようにしましょう。」と共王に献策したが、
  「無能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられず、
  有能であれば賄賂の有り無しに関わらず用いられる。無用である。」と退けられた。
  しかし、狙っていた夏姫を巫臣に横取りされたと怒っていた子反は子重と共に、
  楚に残っていた屈氏一族を殺害した。
  これを知った巫臣は、子反と子重へ
  「あなた達は邪悪な心で王に仕え、数多くの無実の人達を殺した。
  私はあなた達を奔走させて死ぬようにさせる」との復讐の書簡を送った。
  その後、晋公(景公)に呉と国交を結ぶ事を進め、自ら呉に出向いた。
  これにより晋は中華(この場合は周王朝と言う意味)の諸侯で初めて呉との国交を結んだ。
  当時、呉は中華の国とは認められておらず、蛮夷として認識されていた。
  古代中国とは不思議な社会通念をもっていたようで、
  匈奴や鮮卑など(わが倭もそうだが)近隣諸国を、
  人種の相違で別けず、風俗や言語によってのみ、
  未開人と認識していたようだ。
  たとえば周を建国した一族は髪が赤かったらしい。
  金色の髪をした夷狄もいたって不思議ではない。
  あれだけ史実に命を張ってまで忠実な歴史編纂者たちも、
  異民族の肉体的特徴を記していない。
  現代においてさえ、どの先進国もなしえていないこの極上の社会通念を、
  ごく自然にもち得、しかもなんらの疑念も抱かないその高邁さをみるにつけ、
  現代の中国とは、人種そのものが違っているような気がするのは、
  私だけではあるまい。
  
  巫臣は用兵や戦車を御する技術を伝え、
  子の屈狐庸を外交官として呉に仕えさせ、晋に帰国した。
  この事が後に呉国が強国になった一因となった。
  そして子反と子重は、巫臣の目論見通り晋や呉との両面戦争に奔走させられ、
  その後子反は紀元前575年の?陵の戦いでの失態を子重に責められて自害し、
  子重もまた、呉との敗戦による心労で紀元前570年に死去し、
  巫臣の復讐は果たされた。呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、
  遂には楚が呉によって滅亡寸前に追い込まれるな
  その功により、巫臣は呉に招かれ宰相に就任した。
  子反にとっては泣きっ面に蜂か。
  恋敵に女をさらわれ、ついには国も敗れ去る。
  歴史を大きく変える復讐の策だったとも言える。
  その後、巫臣と夏姫との間に生まれた娘が、賢臣として名高い叔向の妻となった。

  巫臣、姓は?(び)、氏は屈、諱は巫、字は子霊、
  呉が強国となる事で楚にとっての脅威となり、
  遂には楚が呉によって滅亡寸前に追い込まれるなど、
  歴史を大きく変える復讐の策だった。
  

  喝采をうける復讐劇が、正義だと私は思わない。
  だが、復讐を生むなにがしかを他に対し行う者は、
  覚悟なしには為しえないことを、我々は意識しない。
  怨みは、恐ろしいものだ。
  刃傷沙汰に陥るのは不思議でもなんでもない。
  覚悟もなしに、我々は、他を讒言してはならないのだ。
  関ヶ原で封土を削られた毛利家は、維新倒幕で怨みをはらした。
  維新に乗り遅れた細川家は、昭和に総理大臣を送り込んだ。
  復讐は何世代にわたってはらされるものである。

  しかし、夏姫、
  ぜんたい何人の男を狂わせたのか?
  げに、
  恐ろしきは魔性の女か。
  いいや、
  老いを知らぬその容色こそが、
  魔の魔たる所以であろうか。
  
2007 11/07 14:27:37 | none | Comment(0)
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