2007年 12月 の記事 (2件)


  3歳
  サンタクロースは来なかった。
  5歳
  サンタクロースは私の靴下にだけプレゼントを入れ忘れた。
  7歳
  サンタクロースは神戸屋のキャンディシューズの右足を枕元に置いた。
  10歳
  サンタクロースは同じ神戸屋の右足のキャンディシューズを置いた。
  15歳
  サンタクロースは現金を枕元に置いた。
  18歳
  サンタクロースは手編みのひざ掛けを手渡してくれた。
  20歳
  サンタクロースは「愛しています」と手書きしたカードを配達した。
  24歳
  サンタクロースは天国から届けられた手紙を配達してくれた。
  33歳
  サンタクロースは稚拙な文字のカードを添えた毛糸の手袋を贈ってくれた。
  47歳
  サンタクロースは27年ぶりのひざ掛けを編んでくれた。
  49歳
  サンタクロースは写りの悪いDVDを化粧箱に遺してくれた。

  12月24日深夜、
  北欧・北米の気象観測所は毎年おきまりの行事に胸をおどらせる。
  北極から飛び立つ小さな未確認飛行物体をどこまでも追跡するのだそうだ。

  サンタクロースはいない、
  なんて醒めた子供たち、
  君たちはやがて知るだろう。
  サンタクロースは今もそしてこれからもずっといるのだと。
  だいじょうぶだよ、
  サンタクロースは相手を選ばない。
  きみたちがこれから愛する全ての人たちを訪れてくれる。
  なぜならば、
  君たちこそが、サンタクロースになるのだから。

  皆様、
               
        ・*:.。. .。.:*・゜メリークリスマス・*:.。. .。.:*・゜

  
2007 12/24 07:01:21 | none | Comment(0)
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  風林火山は久し振りに見応えがある大河ドラマです。
  通常の放送は、配役がどうにも好きになれず、
  観ていませんでした。
 
  井上靖の原作は読んでいませんので、
  なんとも批評しづらいのですが、
  今回の番組における武田の軍師、山本勘助の描かれ方は
  説得力に富んでいるように感じました。
  主演の俳優にも慣れてきたことにも要因は求められるでしょうが、
  実際、この「慣れ」は大事なんですよね。
  初対面の人の声も、
  慣れなければ、何を云っているのか解らないことが多いのです。
  適当に返事するのも失礼だから、
  なんどもなんども訊きかえしてしまう。
  隻眼跛行の醜悪な男が、
  ようやく仕官したお館さま、武田晴信の描かれ方も、
  まぁ理解できる範囲だと感じました。

  戦国時代、
  数々の英雄が攅立しましたね。
  甲斐、信濃、越後の
  武田信玄と上杉謙信、伝説の人伊勢新九郎こと北条早雲のながれ北条氏康、
  東海の覇者今川義元、
  戦国時代最高の大才織田信長、中国の覇者毛利元就、四国の覇者長宗我部元親、
  東北の覇者伊達政宗に三河の徳川家康、そして天下を布武した豊臣秀吉。
  
  だが、憧れるのは、
  小さき頃より、ただのひとりだった気がします。
  長尾景虎ことのちの上杉謙信。
  
  生きたいという根源より発する慾が、
  他国を攻め、自国の領土を広げる。
  ひとよりももっといい暮らしがしたいという
  現代でも充分許され奨励される慾に駆られて、
  よき家臣を召し抱えまたぞろ他国へ攻め込む。
  いつしか心中に芽生えた野望はふくらみ、
  その先にあるのは天下統一です。
  慾に限りはなく、
  秀吉に至っては朝鮮にまで攻め込んでしまいました。
  朝鮮史によると、
  現在の日本に対する悪感情の源はどうやらこの出兵に起因するようです。
  嘗ての敵だった新羅も半島統一後は、日本と誼を結びたがったらしい。
  天智・天武・持統天皇の律令政治発足時代の両国の関係は、
  現在からは考えられないほど親密であったといいます。
  大義と小義の違いは明確であるようでいて
  見分けはむつかしいですね。
  善悪ほどの区分けがつかないからだとも云えるでしょうか。
  だからこそ、
  誰しも大義は大善であると胸を張り大声で叫び吹聴する。
  悪事は堂々と明るくやってのけるのがコツらしいです。
  明るい悪事は、正しいような錯覚をもたらせるようですよ。
  扇動家には、詐欺の才能が必要ですね。
  人はみかけにコロリと騙されます。
  第一印象とかいう錯覚の巣窟ですね。
  立派な服に身を包み、
  笑顔を絶やさず、慈愛に満ちた物言いに、
  寸分の落度もない礼節、
  しかるべき免許皆伝の証書をもち、
  ついでに世間に名前が売れていれば、
  もうそれだけで畏敬の念を抱きやすい。
  
  要は、いかにそのような来歴を偽装するかに依るのでしょう。
  節度をわきまえる人物の名が世にとどろくはずがなく、
  立派な衣服に身を包むものが金を欲しがるはずがない。
  よく考えてみればなにかがおかしいのですが、
  聖人たるものの名は世間で噂になり、
  立派な衣服に身を包むものは偏執的に金を欲しがる。

  マルチ商法もそのなりの果てでしょう。
  威厳ある箱を彼らは探し出し根城にします。
  次に清潔で貧しさを感じさせない衣服に身を包み、
  話すことは明るい未来。
  こうすればよくなる、こうすれば悩みは失せる、
  こうすれば救われ、こうすれば健康になれる。
  
  高名さに目がくらんだやからはやっぱりコロリと騙されてしまう。
  この高名というのが大いに曲者なのです。
  たとえば、ここに高名な占い師がいます。
  このものの占いは奇跡的に当たるという。
  そこでワタシが占いを乞う。
  生年月日を訊かれ、応える。
  顔を見、名前を訊かれ、ついでに手相を観る。
  よく云われるのは、水子の霊がついている。
  お母さんにそういうことがありませんでしたか?
  ないのだけど、あるかもしれないと応えると、
  ニヤリ、
  意地汚くほくそ笑んだ口から、
  あなたはこうこうこうでこういう宿命を背負っているから、
  これからはこうして生きていかなくてはいけない。
  般若心経を写本しろだとか、このお札を買い求めよとか、
  先祖の墓を清め、ちゃんと供養し、
  家内のお祓いを至急しなければ大変な凶事に遭うなどと脅される。
  そういう星の下に生まれたのだからその宿命を変えるのは並大抵ではない。
  
  そこでワタシはこう言い添えます。
  実はワタシの生まれたのはその日でもその年でもその月でもないのです、と。
  ここからの反応が面白いのです。
  戸籍に記載されて40年以上その生年月日で世間を渡ってきたのだから、
  もはや本当の生まれなど関係ない、とか、
  正確な生年月日を教えてくれないと占えません、とかとか。
  摩訶不思議、
  水子の霊はどうなったのでしょうか。
  先祖の供養はどうなったのでしょうか。
  ワタシの宿命とかいうのはどこへ行ってしまったのでしょうか。
  その程度で、何万も何十万も金銭を要求する行為は、
  はい、詐欺です。
  大衆扇動においても
  ペテンの才能に秀でていなければなりません。
  なにもしない、したいと思ったこともない人たちに、
  何かをさせるのですから生半可な扇動は通用しません。
  思想というものは宗教的熱狂と紙一重なものですから、
  信じ込ませれば強いのです。

  悪いヤツは滑稽なことに見るからに悪いカッコウをしたがります。
  存在しもしない会社の名刺、
  偽造した免許の証書、
  勝手に拝借した有名タレントの写真を合成しこの会の仲間です、
  いつも飲み食いの支払いは奢ってくれ、
  親身になって相談に乗ってくれる。

  もうこの辺りで相当の人が騙されてしまいますよね。
  まぁ、いい。

  凶作によって明日食べるものもない、
  ならば、隣の村を襲って食料を奪うのだ、
  隣の村だって凶作だったかもしれない、
  ひとにぎりの食料を奪い合う浅ましさは人事ではありません。
  国の当主が積極的にそれを奨励する、
  ありもしない太鼓判を押された百姓たちは武器を取り、
  隣国に襲いかかる。
  慾とは、かなしいものですね。
  潔く餓死するひとなんているでしょうか。
  いないでしょうね。
  いないとしても、それをわれわれは責める権限をもっていません。
  何故なら、それは、生きる、という人の本能に由来するからです。
  慾を利用すると人々は踊る。
  油を注げば踊り狂う。
  ならば扇動すれば富を得るのも夢じゃない。
  麻原ショウコウも織田信長も、
  別物に見えて、やることはよく似ています。
  でも、信長は本物ですからまだいいほうでしょう。
  ニセモノに躍らされ、
  偽りの大義の前に命を落としたら悔やみ切れません。
  
  信長がやった比叡山焼き打ちや一向宗門徒の大虐殺、
  秦の兵士10万人を生き埋めにした項羽、
  亜米利加が戦争終結のためという大義を掲げて広島長崎へ投下した原爆、
  沖縄戦では一般市民の死傷数が日米の兵士よりも多かったのです。
  南京虐殺を今なお責める中国だってかつて南京以上の虐殺をわが日本に行ってきました。
  南京南京というまえに、自分がしたことは過去のこととすっとぼけてしまうのでしょうか。
  問うなら、問われるべきなのです。
  その覚悟なくして他人を毀誉褒貶してはなりませんよね。
  自分の姿は、鏡にてらさねば見えないものです。
  人を責める前に先ず自らを糺す態度こそが
  大義なのかもしれません。
  
  大義名分。
  勝てば官軍、
  ひとりを殺せば殺人者だが、
  100万人を殺したら英雄だ。
  ほんとうに、そうなのか?
  そんな屁理屈が大手を振って
  まかり通らせてかまわないのでしょうか?

  今の亜米利加さんもそうですが、
  我々の欲望は、昔も今も全く克服できていません。
  統一されることによって争いはなくなり、
  全ての人民に平和と安息がもたらされると
  本気で信じる英雄もいたでしょう。
  現在もなお罪のない人々が大義の名の元に虐殺されていることは、
  皆様ご存知のことでしょう。

  違う、のです。
  人殺しに大義などがあってたまるものですか。
  人殺しになんの善が宿りうるのでしょうか?
  ひとり殺しても100万人殺しても、
  人殺しなのです。
  数の多い少ないじゃ絶対にありません。

  だが、謙信は少し違いました。
  彼の戦は、正義でしか発されない。
  正義、
  現代において尚気恥ずかしさなしには語れないこの定義は、
  謙信の時代においては一層希有であったはずです。
  清濁合わせ持つ器量こそが人物であり、
  英傑であったことは、現代も変わりません。
  だが、現代よりももっと露骨な強欲が奨励され、
  許されていた戦国時代においてその潔さは驚愕に値するでしょう。
  
  天下は望まない。
  領地も増やさない。
  ただ、他国を攻め盗るものを誅伐する。
  強欲に鉄槌を下し続ける。
  毘沙門天への祈願に、
  女犯を戒めと誓言し、
  ストイックなまでに守り通す。
  関東管領家から救援を求められれば、
  自前の兵糧で関東に乗り込み北条を討つ。
  見返りの恩賞など求めもせず、授かろうとすれば断固拒否するのです。
  世にこれほどのバカヤロウがいるでしょうか。
  好敵手信玄を親を追い出した非道なるものとひとことで切って捨てる鮮やかすぎる審判には、
  開いた口がふさがらなくなるくらいです。

  無論、
  謙信も人殺しです。
  正義があっても、
  人を殺せば人殺しです。
  この絶対法理は今の法律の根幹をなしていますよね。
  つまり、
  殺しても、殺されても、
  死なねばならない太古よりの掟がある筈なのですが、
  殺したほうには、生き残れるチャンスが与えられます。
  そこに死者は立てません。
  物言わぬがいいことに、
  被告弁護人が死せる魂を、
  冒し、穢しぬき、あげくの果てには、
  全く別人の像を創り上げてしまう。
  それだけ殺されても仕様のない人だったと証明する。
  弁護士とは、因果な商売ですね。
  依頼人を守るためには、
  殺人行為そのものを正当化して行かなければならない。
  偽りの像を示された判決は、
  被告を救うでしょう。
  人を殺しておいて、自分は生きのこります。
  情状酌量の余地、
  これは正義であるかないかと置き換えてもかまわないでしょう。
  殺すには殺すだけの理由があるという非常に曖昧な論証が展開されます。
  だから悪である殺人行為もその理由が重要になってくる。
  
  なるほど、とうなずかないでください。
  これは、よく考えてみてください、
  殺す理由さえあれば殺しても構わないという
  子供のような屁理屈の立場に寄りすぎていませんか?
  殺されたものは、生きられないのです、死んだのですから、生き返れないのです。
  殺されたものを抜きにして殺したことの理由がどうして重要になるのでしょうか?
  罪は理由ではなく結果に対して罰を定めるものではないのでしょうか。
  結果に理由なんて関係ありません。
  殺したか殺していないか、それだけです。
  どんな理由があろうとも、絶対に殺してはならないのです。
  殺しても理由さえあれば生き長らえる、
  それがまかり通る世の中に、殺人はけっしてなくならないでしょう。
  法律とは、
  生きるもののためにあるのでしょうか。
  死んだ人も死ぬまでは生きていたのです。
  生きているという現在進行形だけで判定する行為はいかがなものでしょう。
  生きていたという過去完了形もどうして活かされないのでしょうか。
  活かされるのならば、弁護士に対する罰もあってしかるべきではありませんか?
  死者を冒涜し、蔑み、悪を生き長らえさせた罪は万死に値しませんか?
  これは刑事でも民事でも同じです。
  
  正義、という自己基準を心棒として正邪を別けることは難しい。
  そこに、純粋な観念がなければかないますまい。
  正義のためならば人をあやめても許されるのかという議論は
  ひとまず置いておきましょう。
  少なくともその行為は慾に発してはいないことは確かです。
  アイツを殺せば自分は得をするという手合の
  損得勘定は存在しません。
  憎悪は濃厚にあったでしょうが正義ではないという確信があらねばなりません。
  だからこそその征伐は苛烈を極めました。
  正義、
  難しいその判定を彼はおのが心身を毘沙門天に捧げることによって、
  内なる葛藤(疑問)に辻褄をくらわせ、
  善なるものの存在を疑わず、
  絶望することなく(高野山へ逃げ出したこともあります)、
  邁進させました。
  
  戦国の世に彼のような人物が現れたことこそ、
  空前絶後であり奇跡なのです。

  ワタシとは正反対、
  真似しようにも
  あまりの険峻ないただきを仰ぎ見るようで、
  登る前に気力がしぼんでしまいました。
  だが、だからこそ
  ワタシは彼に憧れました。
  オノレと正反対の対象に憧憬をもつのは自然ではないかもしれません。
  しかし、これは気質である以上どうしようもない。
  
  絶対正義を振りかざし、
  一切の慾を断ち切ってこの世の悪を懲罰せしめる、
  そんな雄姿はためいきつくほど潔い。
  ひとたるもの、
  すべからく潔くあるべし、
  いつしか意識の底に沈殿してゆく、
  意志とは真反対の意志、
  それがことあるごとにワタシを突き上げ、
  糺します。
  不道徳に対する異常なまでに噴きあがる憎悪、
  いい加減なことへの苛立ち、
  私利私欲のために闇を蠢く魑魅魍魎然とした政治家や企業家、
  憲法、法律、倫理、道徳、
  律するというのはどういうことなのか、
  ワタシは今も苦悩する。
  ワタシはアナーキーだとか、
  ゲリラ気質だとかよく評されてきました、
  けれども、
  ワタシの行動の根にはいつも上杉謙信の生き様がありました。
  なりたいものとなりつつあるものが、
  正反対でもいい、
  矛盾したままワタシはここまで育ちました。
  そして、
  矛盾したままこれからも老いるでしょう。
  ワタシの言動から感じる思想のようなものを、
  どうか誤解しないでいただきたい。
  ワタシは人殺しになりたくない。
  人殺しを創りたくもない。
  ワタシがしたいのは、
  創ってみたいのは、
  殺し合わずに慾を制御できる社会です。
  感性、感度、価値観、
  それは気質だけに所以するのではありません。
  われわれがもつ偉大な無意識の中にこそ詩藻は存します。
  詩藻こそが、
  行動を潔くするものであるならば、
  ワタシは悦んでそれに殉じたい。
  
  最後に、戦国最強の英傑は誰か?
  
  ワタシは、織田信長だと思っています。
  かれの次元はケタ違いの高みにあります。
  最盛期の謙信でも信玄でも、
  信長と真っ向勝負すれば大敗したでしょう。
  私のいう勝敗とは、
  局地戦の勝敗ではありません。
  たとえば劉邦は宿敵項羽に
  100戦して99敗しました。
  ですが最後の最後の闘いに勝利し、
  漢を建国しました。
  読み流さないでくださいね、
  99敗もしているのにどうして死ななかったのか、
  どうして最後の最後に勝てたのか。
  それを逆に考えると、
  項羽は99勝もしながら、
  劉邦を殺せなかったのです。
  運とか宿命だとかで片づけないでください。
  これは、劉邦だからそうできたのです。
  いくら喧嘩が強くとも世界はおろか、
  この日本ですら征服できません。
  所詮、武力とはその程度のものに過ぎません。
  では、なにが勝敗を決めるのか、
  それは、やはり、その人に拠るのです。
  宮本武蔵、上泉伊勢守、塚原卜伝、
  彼らは伝説の剣豪で敵するものがいませんでした。
  ですが、彼らはやがて必ず悟る。
  天下を布武するのは、
  肉体ではなく心なのだと。
  いくら不世出の剣豪であれ、
  たったひとりの建国者には敵わない。
  多勢に無勢とかを言っているのではありません。
  なぜ、肉体において秀でながら無勢となるのか、
  なぜ、打ち合えばものの数秒で討ち取られてしまうつたない剣技に、
  多勢が可能なのか。それを書いています。
  項羽は肉体において圧勝し、
  心において大敗したのです。
  謙信も信玄も、その肉体は不世出でした。
  肉体のみに於ては、信長など赤児同然です。
  ですが心に於ては、逆転します。
  
  生まれたところがよかったとかいうのは、
  何百もある要素のひとつに過ぎません。
  三段構えの鉄砲陣、神を否定するだけの自負、
  部下を道具として観る冷酷さ、徹底的能力至上主義、
  古き風習の安心感に虫酸を走らせ雷鳴のごとく憤怒する気質は、
  天才としかいいようがなく、
  日本によくぞ生まれてくれたと賛辞を贈りたい。
  千年にひとりの才能だと信じています。
  合理主義とは、かくなるものである、と、
  よくそう言われる亜米利加さんに学んでもらいたい。
  あんたらのは合理主義ではなく、
  ずっこい利己主義なんですよと。
  まぁ、信長も人殺し、ですけどね。
  
  2番は、はい、太閤秀吉です。

  3番は武田信玄、4番が上杉謙信、

  だいぶ離れた5番が毛利元就、

  あとは十羽ひとからげ、かな?
  徳川家康は後ろから勘定したほうが早いでしょう。
  はい、ワタシは、
  彼が大嫌いです。

  真田幸村・昌幸親子も嫌いじゃないけど、好きでもない。
  ワタシは死ぬために戦する人間が嫌いです。
  生きるためにする人間も嫌いじゃないけど好きでもない。
  ワタシは、
  だからこそ謙信が好きなのです。

  Gacktはどうかとおもうのですが、ね。
  
  
2007 12/16 02:50:00 | none | Comment(0)
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