2009年 11月 の記事 (2件)

”ほら、良い天気だね、暑くなるよ”
空を指さしながら、
真冬でもTシャツ姿の運転手が挨拶してくる。
”日陰は寒いですよ”
そう応えるのが習慣になった。

広島11月海田町、
あと数日で満月だ。
勤め始めてもう1年と4カ月。
無遅刻無欠勤だ。
月曜から金曜まで、
盆正月祭日
関係なく週の平日5日勤務する。

社員1600名の企業だ。

ここにはたくさんの奇人がいる。
たとえば髭顎蔵さん。
何とか勉強堂という複写用品を扱う下請け商店の店主。
ワゴンRを4台乗り継いでいる。
ワックスで固めたようなリーゼントに、
鬢から顎までたくわえた髭に白いものが混じっている。
”今日は暑いね”
そう言いながら敬礼してくる。
こちらも愛そう笑いを浮かべて敬礼する。
肩幅が広い。
若い頃はさぞヤンチャだっただろう。

犬そっくりやんさんは、大型トラックの運ちゃんだ。
横顔、とくに鼻から口あごにかけての稜線がとても人間とは思えない。
見上げるような座席からおりると借りてきた猫のように、
視線が下がりきょろきょろ辺りを警戒するように内またで歩く。
内またといえば、
内又男くん、嘘やろ!ってくらいの極端な内股で歩く。
下請け業者の営業マンだが、
よく社用車をぶつける。
内股は運転に支障を来すのだろうか。

品質管理部の検査場から、
ヤンキーねーちゃんが長い栗色の髪を風になびかせながら、
モンローウォークで会釈しながら通り過ぎる。
とても愛想がいい。
新入社員で、18歳。
最近の嗜好のトップ5に入っている。
帰り道信号待ちしているときに、
ヤンキーねーちゃんを見た。
その前を2歳くらいの歩みの覚束ない男の子がいた。
ねーちゃんは不安げに男の子を見守りながら
ゆっくりと横断歩道を渡っていった。
弟じゃないだろう、少し驚いた。
それ以来、無性に気になってしまう。

気になるといえば、
魔女がいた。
黒魔術の魔女なのだと同僚が真剣な顔で怯える。
なんでも彼女を叱った男性社員はほとんどが不慮の事故に遭うのだそうだ。
松葉杖くらいならマシなほうで、
命の危機に遭遇するのが普通なのだという。
死んだ人間が、だれとだれ、と、
同僚は姿を見るたびに顔色を変えた。
美貌である。
この企業一といっても言い過ぎじゃない。
40代半ばでこの美貌は考えられない、
その点では確かに「魔女」の域にある。
氷の微笑だ。
もう退社してしまったが、
彼女を見ることが入社そうそうの愉しみだった。

見ることは、
かならず相手に届き余韻を残す。
だから相手もかならず見返し余韻を残す。
余韻は距離なんか関わらずに絡み合うものだ。
絡み合うことは
たがいになにかを惹きあってゆく。

大型コピー室の鍵を貸し出す早朝、
興味がむせびながら
ふたりにふりかかる。

ここは広島11月海田町、
4畳半、Yの城。
2009 11/30 19:54:45 | none
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3歳の頃,
沖縄、
記憶の中に漫画はない。
3歳の記憶が鮮明であるかどうかは自信がない。
けれど、たとえ幽かではあっても、
ちゃんと覚えている情景や会話、
接した人たちの温もりは覚えている。

白黒テレビと抱っこちゃん、
ピストル型のライターにぜんまい式のブリキロボット、
それらが今現存していないことを踏まえなくても、
興味が失せた玩具はいつしか
記憶から消える。
欲しくてたまらなかった欲望の熱は、
満たされた瞬間から
醒め、
喪失がはじまる。

さて、何故3歳なのかというと、
その年に少年サンデーが創刊されたからだ。

内地に移り住んだのは1960年。
叔父の住む兵庫県宝塚市中高松町は、
武庫川沿いに開けた田舎町だった。
翌年の春、宝塚市立良元小学校に入学した。
半年間だけの高松町の記憶にも、
まだ漫画はない。
書店があったかどうかさえ覚えていない。

その当時の少年サンデーの値段は30円。
子供のお小遣いは、日に10円あっただろうか。
しかし高嶺の花は子供たちを惹きつける。

本格的に漫画に接し、
読み耽ったのは大阪に来た1961年の秋からだ。

横山光輝の「伊賀の影丸」や赤塚不二夫の「おそ松君」、
藤子不二雄の「お化けのQ太郎」などが
少年サンデーの紙面を飾っていた。

それから2度転校して、
大阪市港区寿町へ引っ越し、
大阪市立波除小学校2年1組に編入する。

1963年春、
急性肺炎に罹り小学校の正門真向かいの病院に緊急入院。
生死をさまよったはずなのだが、
苦しかった記憶がないのが不思議だ。
この入院生活で、
本格的に漫画を経験することになる。
白戸三平だ。
毎日見舞いに来る母が、
途中にある貸本屋で白土作品を借りてきてくれた。
白土三平を知ったのは母と肺炎のおかげだと云える。

「狼小僧」、「忍者旋風」、「シートン動物記」、「忍者武芸帳」など、
一ヶ月以上にわたるながい入院は、
8歳の感性を雷撃に踊らせた。

白土三平がなぜいいのか、
8歳の感性のどこを刺激し魅了したのか、
きっとそれは、
残酷で冷徹で諷刺と諧謔と反体制と虚無に満ちていたからだとおもう。
大好きなキャラクターが報われぬままバタバタ死んでゆく。
正義が負け悪が勝つ、
巨大な不条理が不自然なまま成立した閉鎖的な社会における個人の限界は、
はかないまでに狭く、
不合理なまま非業に倒れゆく命は紙切れほどの価値もなく、
勧善懲悪の世界などこの世には存在しないのだと言わんばかりに。
それは、
昨日入院して隣のベッドに横たわる患者が翌日いなくなる。
家族の数人が泪で顔を真っ赤にしながら、
荷物を整理する情景に重なった。
死を感じ理解するには私はまだ幼すぎたのだろう。
漫画の中に何を見いだしたのか、
私の自我の形成に与えた影響は少なくない気がする。

忘れられない出来事があった。

最後に同室となった患者さんは老人で、
奥さんが毎日朝早くから夜遅くまで看護をしていた。
いつからか会話するようになり、
退院の日、
おばあちゃんが私になにか記念の品をくれた。
お返しに得意だったロボットの絵を描いて贈った。
月刊誌少年に連載されていた手塚治虫の「鉄腕アトム」、
その最高傑作と思われるストーリーが「史上最強のロボット」だった。
世界最強ロボットたちを次々に倒し、
最後にアトムと壮絶な死闘を繰り広げる。
近年、浦沢直樹がこのストーリーをアレンジして「プルートー」の題名で連載している。
8歳の私はこのプルートーが大好きだった。
完全なる悪でも完全なる正義でもない存在、
それがプルートーだった。
私が描いたのは、彼だ。
おばあちゃんはひどく喜んでくれた。
「おばあちゃん、ぼくが大きくなったら医者になって不老不死の薬を発明してあげるからね、
おじいちゃん長生きするんだよ」

退院して3ヶ月後、
おばあちゃんから手紙が届いた。
おじいちゃんが亡くなった、と。

私は泣いた。
ひとの死を初めて理解した涙でもあったろう。

人は生き、そして死ぬ。
不変の摂理はなんと呪わしいのか。
全てを水銀の海に沈められたような絶望感に、
8歳の私はうなだれ、
ただ泣く。
空には
まぶしいくらいに青雲がひろがっていた。

最後に、
私がこれまで読んだ全ての漫画雑誌名を記します。
みなさんは、何冊ご存知でしょうか?

少年サンデー、少年マガジン、少年キング、少年チャンピオン、少年ジャンプ、
ぼくら、冒険王、少年、少年画報、少年ブック、漫画少年、少年コミック、
ガロ、月間マガジン、月間ジャンプ、スーパージャンプ、
ヤングジャンプ、ビジネスジャンプ、ビッグコミック、ビッグコミックスピリッツ、
漫画アクション、リイドコミック、ヤングコミック、プレイコミック、漫画サンデー、
ヤングアニマル、イブニング、
ビッグコミックオリジナル、モーニング、ビッグコミックスペリオール、
少女フレンド、少女マーガレット、少女コミック、なかよし、りぼん。








2009 11/08 22:25:49 | none
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