私の育った小学校には、戦前の建築としては珍しい鉄筋コンクリート造りの校舎が残っていた。 原爆にもめげず、石造りの日銀と共に廃墟の街に聳えていたらしい。
5年生の頃、流行った遊びが「狐の野球」。テレビでやっていた「コンバット」を真似た遊びだが、戦争物の名前を使う事が憚られたため、コンで狐・バットで野球と呼び変えたのだ。 みんな手作りの「銃」を持ち、大きさによって射程と球数を決め、二組に分かれて敵陣を目指す。 大きい銃は射程が長いが、次弾を撃つまでに大きな声で五つ数えないといけない。場所はばれるし機能性に欠けるが、木っ端とパイプを組み合わせて色も付けたりした力作である。 口で「バーン」と言いながら「○○ちゃん、死んだ」といえば、その子は死んだ事になり以降の判定役となる。 ゲームより苦労し作り上げる工作の面白さと、みんなに披露し「すっげ〜」の声を聞くのが主な楽しみであった。
ある日、その遊びが担任の先生にばれた。 次の日、全ての授業が中止となり、被爆建物である旧校舎の地下教室へと連れて行かれた。 薄暗い湿った地下教室。 「ここで、あなた達と同じ小学生が何十人と死にました。」 「被爆後、この校舎は病院として使われ、毎日何十人と死んでいきました。」 「私は主人と息子を戦争で亡くし、残った家族も全て原爆で亡くしたんです。」 と先生が静かに話し出した。 「この校舎の壁には、尋ね人の落書きで一杯でした。誰も消す事が出来ず、今では板を張って保護してありますが、写真があるので見に行きましょう。」 それでクラス全員、原爆資料館・原爆ドームへと連れて行かれた。
道すがら「ここには私の友人が住んでいた。」「ここは魚屋だった。」等々と話す先生。
改めて被爆直後の写真を見ると、 廃墟だ… 誰もいない。 存在した証拠も記録も何も残っていない。 日記も写真も服も茶碗も…
現在の平和公園しか見た事のない私たちに、 ここには人が暮らし、笑顔や包丁の音などの生活音に溢れていた事を知らされた。 自分だけ離れた工場に行っていたために残された悲しみ。 主人や息子を戦いの場に送り出してしまった悔恨。 泣き濡れて、立ち直れる事ができなかった数年間。 そして、二度と過ちを繰り返さないと誓い、教師となった事。
「どんな事があっても、人が人を殺してはいけません。」 「どんな理由をつけようと、人に人を殺させてはいけません。」 嗚咽しながら話す先生… クラス全員が泣いた…
私の息子も高1となった。 そろそろ伝えなければならない。 それが私の義務だから…
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