思索に耽る苦行の軌跡

パスカル著「パンセ」(筑摩書房:世界文学全集11〜モンテーニュ/パスカル集:)より





五七一



 なぜ象徴かという理由。――



(略)



 かくして、敵という語は最後の目的いかんにかかっているので、義人はそれを自分たちの情欲と解したが、肉的な人々はそれをバビロニア人と解した。それゆえ、これらの語は不義な人々にとってのみ曖昧であった。イザヤが「律法をわが選びたる者のうちに封印すべし」と言い、また、イエス・キリストのことを躓きの石となるであろうと言ったのは、このことである。しかし、「彼に躓かぬ者は幸いなり。」ホセアはそのことを完全に言いあらわしている。「誰か知恵ある者ぞ? その人はわが言うことをさとらん。義人はそれをさとらん。神の道は正しければなり。されど悪しき者はそれに躓かん。」





人間といふ生き物は、其処に躓きさうな石があるのを知りながら敢へてその石に躓く生き物のやうな気がする。二足歩行を選び取った生き物である以上、人間といふ生き物は、何度も何度も石に躓かなければならぬ宿命を生きるやうに定められてしまったのであらうか。人はそれを修行等と呼んで人間たる者斯くあるべしといふやうに自ら追ひ込む不思議な生き物のやうに思へるのだ。勿論、そんな石は御免蒙ると言って避けて通り過ぎる利巧な輩が殆どであるが、何百人に一人かの割合で必ず敢へて石に躓き其処で立ち止まり呻吟しながらも何とか一歩の歩を進める者が存在する。先づ初めにして終りの躓きの石でもあるのが《私》なる奇奇怪怪な存在である。





パンセより



四七六



神のみを愛し、自己のみを憎むべきである。



 もし足が、自分の身体の一部であり、自分に依存している一つの身体がある、ということをつねに知らずにおり、自己認識と自己愛だけしか持たなかったとして、ひとたび、自分が身体の一部であり、それに依存していることを、知ったならば、その足は、自分の過ぎ去った生活について、また、自分に生命を吹きこんでくれた身体に対して何の役にも立たなかったことについて、いかばかり後悔し、恥ずかしく思うことであろう! 足が身体から離れた場合もそうだが、身体が足を棄て、足を切り離したならば、足は死滅したことであろう! 身体につらなったままでいることを、足はどんなにか祈ることであろう! 身体を律している意志の支配に、いかに従順に足は自己をゆだねることであろう! やむをえない場合には、自分が切断されることにも同意するにいたるであろう! そうでないならば、足は肢体の資格を失うことになるであろう! なぜなら、すべての肢体は、全体のためにあえて滅びることをも欲しなければならないからであり、全体こそすべての肢体がそのために存在する唯一のものであるからである。





《私》は必ず自己憎悪といふ針の筵に座らされる。其処で幾ら苦悶の呻き声を上げようが《私》は《私》から遁れられない。人間とは何と哀れな生き物であらうか……。



――許して下さい。



と《私》に訴へたところで《私》は嘲笑ふのみである。《私》が《存在》してしまった以上、《私》は《私》であることを強ひられるのだ。



――そこで《神》に救ひを求める? 



それも一つの方法であらうが、それでも矢張り針の筵は遁れられない、と思ふ。



――それでも許し給へ。



さう訴へたところで《私》は斯くの如く嘲笑ふのみである。



――へっ、この底無しの深淵の中でもがき苦しみ、それでも自滅せずに生き残るには、《汝自身を知れ》あるのみ、だ! 生き残れ、何が何でも生き残れ、この下衆野郎めが、はっ! 

















































2008 02/18 02:50:20 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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