『波紋』のところで横書きと縦書きについて少し触れたが、文字を手にした人類は何を措いても肉筆が森羅万象を表現するのには一番である。
先づ縦書きと横書きについてであるが、横書きは頭上に坐す一神教の神の信者以外の者にとっては使い捨ての文(ふみ)でしかない。『波紋』で「神の視点」といふものを述べたが横書きは一行書くごとに下方へ一段下る。文を認(したた)めるといふ作業もまた周回運動に変換出来、それが綺麗な螺旋運動になってゐることに気が付く筈である。
「神の視点」の神とは『時間の神』、日本で言へば滋賀県大津市にある「天智天皇」を祀る近江神社が「時の神」の神社として有名だが、ギリシア神話で言へば「クロノス」(英語;Chronos、ギリシア語;χρόνος

のことである。一神教、例へばユダヤ教ではヤハウェ、基督教では基督、回教ではアッラーフ(アッラー)に「時の神」は統べられてしまってゐるが……
以上のことから唯一神不在若しくは無信仰の人間の横書きが如何に虚しい作業かは言はずもがなである。
さて、本題の肉筆だが、仏教徒であらうが神道信者であらうが、更に言へば無信仰ならば尚更であるが、日本人ならば先づ縦書きが基本で、『浅川マキと高田渡と江戸アケミ』で述べたやうに文を記すことは現代理論物理学の実践である。ハイデガーのいふ「世界=内=存在」でありたいならば「道具存在」である筆でも万年筆でも鉛筆でも何でもよいが筆記用具を手にして紙に記す行為こそ「世界=内=存在」であり得る。そこでだ、現代理論物理学を実践するならば肉筆に限る。文字を記すときの一点一画を記す行為は「時間」を紙上に封印する行為である。それが肉筆であるならば「個時空」を紙上に封印することである。紙上に肉筆で封印された「個時空」は既にこの世に唯一の「顔」を持ってゐて唯一無二の存在物になるのである。
肉筆原稿が嘗ては活字、今はComputer入力の写植に変貌してしまったが、それでも肉筆で今でも原稿用紙と格闘してゐる作家の文は迫力が違ふのである。これは私だけのことかもしれないが文芸誌などで何某かの作家の作品の一文を読めばその作家が原稿用紙に肉筆で書いたかComputer入力かがたちどころに解ってしまふのである。私にとってComputer入力の作家の作品は其れだけで既に読むに値しない愚作である。今でも肉筆で原稿用紙に書いてゐる、例へば本人には申し訳ないが、私は嫌いである大江健三郎の作品を文芸誌で見つけると嫌いにも拘はらずその作品の一文を読んでしまふと最後まで読んでしまはないと気が済まなくなるのである。写植になっても肉筆で書いたといふ「個時空」若しくは作家の「言霊」が私の魂を鷲摑みにして作品を最後まで読ませてしまふのである。
――何故、現代人はComputer入力で文を認める、つまり己を『のっぺらぼう』にしたがるのかね……
――へっ、己のことを自然を「超えた」若しくは神を「超えた」存在だと錯覚したいだけのことさ、ふっ。