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William Blake著
《THERE IS NO NATURAL RELIGION》の拙訳
「如何なる理神論も在り得ない」
[a]
論証。人間は教育を除く如何なるものからも道徳の適合性に関する概念を持ち得ない。本来人間は感覚に従属する単なる自然器官である。
一 人間は本来知覚する事が出来ない。自身の自然乃至身体器官を通さずしては。
二 人間は自身の推理力によっては。単に自身が後天的に理解(知覚)した事を比較乃至判断出来るのみである。
三 単に三つの感覚乃至三つの要素のみで構築した知覚から如何なる人間も第四の乃至第五の知覚を演繹出来なかった。
四 仮に人間が器官による知覚の外一切を持たないなら如何なる人間も自然乃至器官による思惟形式以外持ち得る筈もない。
五 人間の希求は自身の知覚によって限られる。如何なる人間も自身が知覚し得ないものを希求することは出来ない。
六 感覚器官以外では如何なる事象も知り得ぬ人間の希求及び知覚は感覚(客体)の対象に対して制限されなければならない。
結語。仮に詩的乃至預言的な表現が此の世に存在しないならば、哲学的及び試論による表現は即ち全事象の数学的比率となり、及び陰鬱な単一反復回転運動を繰り返す以外不可能故に立ち尽す(停止する)のみである。
[b]
一 人間の知覚は認識機構によって制限されない。人間の感覚(どれ程鋭敏であらうとも)が見出す以上のことを知覚(認識)する。
二 推論乃至吾吾が後天的に認識した全事象の数学的比率は。吾吾が更に多く認識すると想定された存在と同じであることはない。
三 欠落
四 枠付けは枠付けした者に忌避される。宇宙の陰鬱な反復回転運動でさへ、即ち車輪複合体たる水車小屋に変容するであらう。
五 仮に多様が単純に還元されると看做す場合、そしてそれに取り憑かれたとき、もっと ! もっと ! は迷妄なる魂の叫びであり、直ちに全事象は人間を満足させる。
六 仮に如何なる人間も自身で持ち得ないものを希求することが出来るとするなら、絶望こそ人間の永劫に亙って与へられし運命であるに違ひない。
七 人間の希求が無尽蔵なら、それを持ち得るといふことは無限であり自身もまた無限である。
応用。全事象に無限を見るものは神を知る。単に数学的比率しか見えぬものは自己しか知り得ない。
それ故、神は吾吾が存在する限り存在し、即ち吾吾は神が存在する限り存在するのであらう。
《ALL RELIGIONS ARE ONE》の拙訳
「全ての宗教は一つである」
荒野の一嘆き声
論証。真の認識法が試みであるなら、真の認識力は経験の能力でなければならない。この能力について論ず。
第一原理 詩的霊性が人間の本質である。及び人間の肉体乃至外観の様相は詩的霊性から派生する。同様に全存在物の形相はそれら自身の霊性から派生する。古代の人々はそれを天使及び霊魂及び霊性と呼んだ。
第二原理 全人類が形相に於いて同等であるなら、即ちそのことはまた(及び等しく無限なる多様性を持つならば)全人類は詩的霊性に於いても同等である。
第三原理 如何なるものも自身の心の深奥から思考し乃至書き乃至話すことは出来ないが、しかし人間は真理へ向かはなければならない。何故なら哲学の全学派は全個人の羸弱さに応じた詩的霊性から派生したものである。
第四原理 既知の領域を見回したところで如何なるものも未知を見出すことは出来ない。即ち後天的に得た認識から人間はそれ以上獲得出来なかった。故に全宇宙型詩的霊性は存在する。
第五原理 あらゆる民族の各宗教はあらゆる場所で預言の霊性と呼ばれる詩的霊性を各民族が多様に感受したことから派生する。
第六原理 ユダヤ教徒及び基督教徒の聖書は詩的霊性から本源的に派生したものである。このことは肉体的感覚の限界性から必然である。
第七原理 全人類は同一(無限の多様性が見えてゐるにも拘はらず)である故に、全宗教及び全宗教的類似物は一つの本源を持つ。
真の人間は自身が詩的霊性であることの源である。
以上、当時のMemoのまま――表現が稚拙で誤訳ばかりであるが――ここに書き記しておく。当時の雰囲気が香ってくるのでね。
さて、君に話し掛けられても私を微笑みながらじっと見続けてゐた雪の顔は、目はフランツ・カフカかエゴン・シーレのSelf-portraitの眼光鋭い眼つきに一見見えるがよくよく見ると雪の目は柔和そのものであった。
(以降に続く)
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