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君も雪の行動が奇妙な点には気が付いてゐた筈だが雪は未だ「男」に対して無意識に感じてしまふ恐怖心をあの時点の自身ではどうしやうもなく、雪は「男」を目にすると雪の内部に棲む「雪自体」がぶるぶると震へ出し雪の内部の内部の内部の奥底に「雪自体」が身を竦めて「男」が去るのをじっと堪へ忍ぶといった状態で雪は君の顔を一切見ず君と話をしてゐたんだよ。
その点雪は私に対しては何の恐怖心も感じなかったのだらう、つまり、雪にとって私は最早「男」ではなく人畜無害の「男」のやうな存在、しかも
――この人の人生はもう長くない……
と、多分だが、私を一瞥した瞬間全的に私といふ存在を雪は理解してしまったと、そんな雪を私は雪の様子からこれまた全的に雪を理解してしまったのだ。
と思ふ間も無く私の右手は雪の頭を撫でる様に不意に雪の頭に置かれたが、雪は何の拒否反応も起こさずこれまた全的に私の行為を受け入れてくれたのだ。
さて、君も薄薄気付いてゐた筈だが、私が何故「黙狂者」となってしまったかを。それは私の生い先がもう短いといふこととも関係してゐたのだらうが、私が一度何かを語り出さうと口を開けた瞬間、我先に我先にと無数の言葉が同時に私の口から飛び出やうと一斉に口から無数の言葉が飛び出してしまふからなのだ。私の内部の「未来」は既に無きに等しいので私の内部の「未来」には時系列的な秩序が在る筈もなく、つまり、私の「未来」は既に無いが故に「渾沌」としてゐたのだ。私が口を開き何かを語り出さうとしたその瞬間に最早全ては語り尽くされてしまってゐて「他者」にはそれが「無言」に聞こえるだけなのだ。つまり、《無=無限》といふ奇妙な現象が私の身に降りかかってゐたのだ。
君は私が雪の頭にそっと手を置いた時私が口を開いたのを眼にしただらう。多分、雪はこれまた全的に私の無音の「言葉」を全て理解した筈だ。君はあの時気を利かせてくれて黙って私と雪との不思議な「会話」を見守ってくれたが、仮に心といふものが生命体の如き物で傷付きそれを自己治癒する能力があるとするならば、雪の心はざっくりとKnifeで抉られあの時点でも未だ雪の心のその傷からはどくどくと哀しい色の血が流れたままで「男」に理不尽に陵辱された傷口が塞がり切れてゐなかったのだ。それが私には見えてしまったので《手当て》の為に雪の頭にそっと手を置いたのだ。
それにしても雪の髪は烏の濡れ羽色――君は烏の黒色の羽の美しさは知ってゐるだらう。虹色を纏ったあの烏の羽の黒色ほど美しい黒色は無い――といふ表現が一番ぴったりな美しさを持ち、またその美しさは見事な輝きを放ってゐた。
さて、君はあの瞬間雪の柔和な目から恐怖の色がすうっと消えたのが解ったかい?
(以降に続く)
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