この頬を掠め行く風の群れの中にもしや鎌鼬達が身を潜め今直ぐにでも私の頬を切り裂くやうな朔風が断崖絶壁のこの崖の壁面を這ふやうに登って来る中で、多少高所恐怖症気味の私は崖の際に打ち付けられた手摺りに掴まって漸く下界の景色が味はへるのであったが、その下界はといふとすっかり冬支度を始めた木々達の紅葉が誠に美しかったのである。一方この朔風の上昇気流を上手く利用して鳶達が天空をゆっくりとゆっくりと輪を描きながら上昇し悠々と飛翔してゐるのであった。
――地球の個時空の《現在》たる地表もまた波打ち起伏に富んだ《ゆらぎ》の下でしかその形象を保ち得ずか……。
さうなのである。《現在》とはのっぺりとした《平面》である筈は無く、高峰から海淵までの《現在》のずれが自然を自然たらしめる重要な要素なのは間違ひない。
――それにしても宇宙全体から見れば全く取るに足らぬこの地球の個時空の《現在》のずれは、しかしながら、人類にとっては最早畏怖すべきものであって人類は自然外では一時たりとも生きられない羸弱極まりない生き物にも拘はらず、未だ反抗期の子供の如く自然に反発してみたはいいが、しかし、その結果人類は人類自身の手で滅亡する瀬戸際に人類自ら追いやったその馬鹿らしさに漸く気付き始めたが、ところが、それは最早手遅れかもしれないのだ。
山上には古からの山岳信仰と仏教が絶妙に習合した地獄に見立てられた地も極楽に見立てられた地もあるが、成程、下界から見れば山は《過去》でも《未来》でもあり得る聖地に違ひない。死者達の魂が集ひし所でもあり神が棲む、否、山そのものが神たる霊峰として崇められてゐる。
と、突然と突風が私の身体を持ち上げんばかりに吹き付けて来たのである。
――ううっ。このまま眩暈の中に私自身が飛び込んだならば、さて、私は神の懐に潜り込むことで、私が神に成り果せるかな、ふっ。馬鹿らしい。ところが、人類は神に成らうと目論んでゐたのは間違ひない……。その結果が、巨大な墓石の如き鉄筋Concreteで出来た群棟に住む摩訶不思議な《高層族》が出現し、日々其処から誰かしらが飛び降り自殺をするどん詰まりの生活場に人類は引き籠ってしまった……。さて、千年後、さう、高々千年後、この崖から私が今見てゐる景色を見る未来人は、さて、存在するのであらうか……。
私の心には巨大な穴がぽっかりと開いたのか、下界から吹き付けて来る朔風が私の心に開いたその巨大な穴をも吹き抜けて、私は何やら物凄く薄ら寒い不安の中に独り取り残されたやうに、下界の誠に美しい木々の紅葉を眺めながらも途轍もなく重苦しい孤独の中に独り沈潜して行くのであった……。
しかし、
――だが……
と、この暗澹たる思ひを全て飲み込むと私は顔をくっと上げ次第に強まる朔風に真っ向から対峙するが如くに鳶が悠然と飛んでゐる虚空を睨み付けるのであった。
――ふっ、千年後に生き残ってゐるのは何も人類でなくても良いじゃないか。