――しゅぱっ。
雪がもう一本煙草に火を点けたやうだ。
――はあ〜あ、美味しい。
私は雪のその心地良ささうな微笑んだ顔が見たくて《眼球体》の吾から瞬時に私に戻りゆっくりと瞼を開け、雪の顔を見たのであった。
――うふ。私ももう一本吸っちゃった。あ〜あ、何て美味しいのかしら。……どう? 死者の旅立ちは。
私はおどけた顔をして首を横に振って見せた。
――そう。三途の川を超へた者皆、その道程は艱難辛苦に違ひないけど……そして彼岸から先の極楽までの道のりが辛いのは簡単に損像できるけど……実際……さうなのね?
私は雪の問ひに軽く頷き煙草を美味さうに喫む雪の満足げな顔につい見蕩れてしまふのであったが、その雪の顔は美しく美貌といふ言葉がぴったりと来るのである。その顔の輪郭が絶妙でこれまた満月の月光に映えるのであった。
そして、私は雪の美貌を映す満月の光に誘はれるやうに南中へ昇り行く仄かに蒼白いその慈愛と神秘に満ちた月光を網膜に焼き付けるやうにじっと満月を凝視し続けたのであった。
――科学的には太陽光の反射光に過ぎないこの月光といふものの神秘性は……生き物全てに最早その様にしか感じられないやうに天稟として先験的に具へられてしまったものなのかもしれぬ……。
――ふう〜う。
私は煙草を身体全体にその紫煙が行き渡るやうに深々とした呼吸で喫みながら暫く月光を凝視した後にゆるりと瞼を閉ぢたのであった……。
その網膜に焼き付けられたらしい月光の残像が瞼裡の闇の虚空にうらうらと浮かび上がり、あの全く面識のない赤の他人の彼の人の仄かに輝きを放つが今にもその虚空の闇の中に消え入りさうなその死体へ変化し横たわったままの体躯は、ゆるりと渦を巻く瞼裡の闇の虚空にAurora(オーロラ)の如く残る月光のうらうらと明滅する残像に溶け入っては己の《存在》を更に主張するやうに自身の姿の輪郭を月光の残像から孤立すべく、月光の残像の明滅する周期とは明らかに違ふ周期でこれまた仄かに瞼裡の闇の虚空に明滅しながら月光の残像の中で蛍の淡い光の如くに輝くのであった。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜
私は再び瞼裡の闇の虚空の渦に飲み込まれるやうに自意識の一部が千切れ《眼球体》となる狂ほしい苦痛の呻きを胸奥で叫び、とはいへひょいっと《眼球体》となった私は渦巻く瞼裡の虚空に投身するのであったが、最早瞼を閉ぢると眼前で渦巻く瞼裡の闇の虚空に吸い込まれるのは避けやうもないらしい。
それにしてもこの眼前に拡がる瞼裡の渦捲く闇の虚空は一体何なのであらうか。
――中有。
とはいへ、其処が中有とは今もって信じられ難く懐疑の眼でしか見られずに、しかも《眼球体》となって瞼裡の渦捲く闇の虚空に《存在》するこの私の状態は、さて、一体なんなのであらうか……。
唯、《眼球体》の私は自在であった。例へてみれば、そのAuroraの如き月光の残像の中に飛び込めば其処は眩いばかりの光しか見えない《陽》の世界であり、一度月光の残像から飛び出ると彼の人の闇の中に消え入りさうな体躯が闇の虚空にぽつねんと浮かび上がるのが見える《陰》の世界であった。そして、《眼球体》の私は多分月光の残像の中では陽中の陰となり、月光の残像から飛び出ると《眼球体》の私は陰中の陽となり、其処は陰陽魚太極図そっくりの構図に違ひないとしか思へなかったのであった。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜
相変はらず彼の人は声ならざる声をずうっと発し続けたままであった。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜
(以降に続く)