――もしや、この眼前の全く面識のない赤の他人の彼の人は……、もしや、恍惚の中に陶酔してゐるのかもしれぬ……。
《眼球体》と化した私は眼前に横たはる彼の人をまじまじと凝視しながら不意に何故かしらさう思ったのであった。否、実のところ、さう思はずにはゐられなかったのである。これは実際のところ私の願望の反映に過ぎないのかもしれないが、しかし、生き物が死すれば
――皆善し!
として自殺を除いて全ての死したものが恍惚の陶酔の中になければならないとしか私にはその当時思へなかったのであった。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜
この絶えず彼の人から発せられてゐる音ならざる苦悶の呻き声は、もしかすると歓喜の絶頂の中で輻射されてゐる慈悲深き盧遮那の輝きにも似た歓喜の雄叫びなのかもしれぬと思へなくもないのである。否、寧ろさう考へたほうが自然なやうな気がするのである。自殺を除いて死すもの全て
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜
と、ハイゼンベルクの不確性原理から解放された完全なる《一》たる己を己に見出し歓喜の雄叫びを上げて吾が生と死に祝杯を捧げてゐるに違ひない。生きてゐる間は生老病死に苛まれ底なく出口なき苦悶の中でもがき苦しみやっとのことで未完の生を繋いで来たに違ひない生者達は死してやっと安寧を手にするに違ひないのだ。ところでそれはまた死の瞬間の刹那のことでその後の中有を経て極楽浄土へ至るこれまた空前絶後の苦悶の道程を歩一歩と這い蹲るが如くに前進しなければならないのかもしれない来世といふ《未来》に向かふ巨大な巨大な巨大な苦難の果てといふ事からも一瞬、解放されてゐるに違ひない……。と、不意に《眼球体》と化してゐた私は吾の自意識と合一して、私はゆっくりと瞼を開けたのであった。そして、私は雪の美しい相貌を全く見向きもせず天空で皓皓と青白く淡き輝きを放つ満月を暫く凝視するのであった。この一連の動作は全く無意識のことである。ところが、瞼を開けても最早私の視界から彼の人の明滅する体躯の輪郭は去ることがなく、満月の輝きの中でも見えるのであった。
――ふう〜う。
と私は煙草を一服し月に向かって何故か煙草の煙を吐き出したのであった。煙草の煙で更に淡い輝きになった月はそれはそれで何とも名状し難い風情があった。と、不意に私の胸奥でぼそっと呟くものがあった。
――月とすっぽん。
私はその呟きを合図にそれまでの時間の移ろひを断ち切るやうにMemo帳を取り出し雪と再び筆談を始めたのであった。
*******つまり、自由を追い求めるならば、つまり、月とすっぽん程の、つまり、激烈な貧富の格差は、つまり、《多様性》の、つまり、現はれとして、つまり、吾々は、つまり、それを甘受しなければならないと思ふが、つまり、君はどう思ふ?
と、全く脈絡もなく視界の彼の人を抛り出してとっさに雪に書いて見せたのであった。満月の月光の下ではMemo帳に書いた文字ははっきりと見えるのである。すると雪は美しく微笑んで、しかし、何やら思案するやうに
――う〜む。難しい問題ね。あなたの言ふ通りなのは間違いないわ。しかしね、社会の底辺に追いやられた人々はその《多様性》といふ《自由》を持ち堪へられないわ……、多分ね。でも……、残酷な言い方かもしれないけれども《自由》を尊ぶならばあなたの言ふ月とすっぽん程の格差といふ《多様性》は受け入れるしかないわね……。
と切り出したのであった。
――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜
(以降に続く)