思索に耽る苦行の軌跡

――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜





と、その時、私の視界に張り付いた彼の人の瞑目した顔は相変はらず私に正面を向けて音ならざる声を唸り上げながら何やら不気味にさへ見える微笑をちらりと浮かべ忽然とその大口を開けたのであった。それにしても死は物全てに平等に訪れるが、さて、例へば視点を変へて速度をベクトルvで表した



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の時間
Δ<em>t</em>の極限値、つまり、零――ねえ、君、この数式は考えやうによっては物凄く《死》を記号で観念化した代物だと思はないかい? へっ――と看做すと《死者》はベクトルΔxといふ∞の速度で動いてゐると看做せるじゃないか。主体が《観測者》といふ《世界=外=存在》とハイデガー風に看做せば物理学とはそもそも《死》の学問じゃないかい? ふっ。さて、そこで《死》も物理法則に従ふならば《死者》はアインシュタインの相対論から此の世のものは《死》も含めて光速度を超へられないとすると《死者》は光速度で動いてゐることになる。……不図思ったのだが∞とは光の光速度の事で《死》の異名なのかもしれない……。そして、へっ、光が美しいものならば《死》もまた美しいものに違ひない。ふっ、私ももう直ぐ光といふ美しい《死》へ旅立つがね、へっ。ちぇっ、まあ、私のことはそれとして、速度を時間で微分すると加速度が出現するが、この私の論法で行くと加速度とは差し詰め《霊魂》の動きを表現したものに違ひない。その時、私の視界に張り付いた彼の人の《魂》も





――うぅぅぅぅあぁぁぁぁああああ〜〜





と音ならざる声を唸り上げながら彼方此方に彷徨してゐたに違ひない。《死》の学問たる物理学が此の世を巧く表してゐるならば私の視界に張り付いた私と全く赤の他人の彼の人が蛍の如く私の視界内で渦巻きながら明滅してゐたのは物理学的に見て正鵠を射てゐたのだ。つまり、《死者》とその《魂》は《光》に変化(へんげ)した何物かなのだ。つまり、光が電磁波の一種なのだから《死者》とその《魂》は各人固有の波長をもった電磁波の一種なのかもしれない……。まあ、それはそれとして、天地左右の知れぬ何処の方角に向って私の視界に張り付いた彼の人は向かってゐたのかと考えると西方浄土といふ言葉があるから差し詰め《西方》へ向け出立したに違ひないのかもしれない……。さて、重さあるものは相対論より決して光速度には至れないが、《死者》に変化したものは《重さ》から《解脱》して、さて、此の世の物理法則の束縛から逸脱してしまふ何物なのかなのだ。其処で出会うのが多分無限大の∞なのだ。私も直ぐに∞に出会へるぜ……へっ。





…………





――ねえ、この公孫樹も《気》の渦を巻いて私たちを今その渦に巻き込んでゐるのかしら? ふう〜う。





と、雪が私たちが筆談をしてゐた木蔭であるところの公孫樹を撫で擦り煙草を一服しながらまた呟いたのであった。





*******ねえ、つまり、死後も階級は、つまり、存在するのだらうか? 





――ふう〜う。





と、私も煙草を一服しながら雪に訊ねたのであった。





――勿論、極楽浄土といふんだから当然あるでしょう。でも、……彼の世に階級があったとしても彼の世のもの全て自己充足して、それこそ極楽の境地にゐるから……階級なんて考へがそもそも無意味なんじゃないかしら。





*******すると、つまり、《光》は自己充足した、つまり、自身に全きに充足してしまって自己に満ち足りた、つまり、至高の完全に自己同一した、つまり、自同律の快楽の極致に安住する存在なのかな? 





(以降に続く)























































2008 02/03 04:35:22 | 哲学 文学 科学 宗教 | Comment(0)
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