物心ついた時にはまだ電化製品が物珍しかったが、何時の頃かは解らぬが、今では電化製品に埋もれた生活を送るやうになってしまったことに、私は、常々胸の痛む悲哀を電化製品に感じながら生活してゐる。それでも、私が所有する電化製品は必要最小限度で、なるべくなら所持しないやうに気を使って生活してゐるのである。それといふのも電化製品は切ないのである。何故と言って『人間に《もの》を奴隷として使用する権利があるのか』といふ疑問が何時も私の頭の片隅を過るのである。
――さて、人間とはそれ程に特別な生き物なのか。
電化製品もまだ分解可能な程度の時代であればその《もの》に愛着といふものが湧いたのであるが、今の電化製品は最早分解不可能で愛着なるものが微塵も湧かないのである。これは困ったことで、私は《もの》を消耗品としてはどうしても看做せないので、それ故電化製品は私にとって切ないのである。それでも私は大の音楽好きなので音響機器に関しては愛おしい愛着を持って接してはゐるが、しかし、それも故障してしまへばもうお仕舞ひである。修理するよりも新品を買った方が、結局のところ経済的なのである。私は何時も電化製品が故障してお釈迦になってしまった時は心苦しくもそれを廃棄するのである。これは物凄く切ない行為でどうにかならないかと途方に暮れるが今のところどうにもならないので残念至極である。映像に関しては故・タルコフスキー監督の映画等特別なものを除くと殆ど興味がないのでTelevisionは埃を被って抛ったまま使はず仕舞ひである。
そもそも、この私の電化製品等、《もの》に対するこの名状し難い感覚は何処から来るのかといへば、それは《脳》無き《もの》はそもそもから人間がその特性を見出し奴隷として使ふことに何の躊躇ひがないことに対する抵抗感にある。現状では電化製品を始めとする多くの《もの》が人間の奴隷である。
私の嗜好は手先の延長上の《もの》、例へば手製の道具類等には愛着が湧くが、それ以外は切ないばかりなのである。
嘗ては馬や牛など《脳》あり《意思》ある生き物を何とか馴致し協働で生業を営んでゐたが今は電子機器等の《もの》といふ奴隷が取って代わったので、それが私に嫌悪感を湧き起こすのである。《もの》にもまた《意思》はある筈である。
――何故、《吾》こ奴の為されるがままに作られ機能しなければならぬ?
等と《もの》が呻いてゐるのが聞こえるやうで、電化製品に埋もれた生活は気色悪いのである。
――何故、人間なる生き物は《吾》にある特性があるのを見出しそれを良いことに《吾》を下僕以下の扱ひをする? 人間も《吾》も同じ《存在物》ではないのか? ぬぬぬ! 人間は何様のつもりなのか! ぬぬぬぬぬ!
…………
――何故、人間は《便利》といふ《現実逃避》を喜ぶのだ? 《存在》する事とはそれ自体が《不自由》で《不便》な事ではないのか?
…………
――人間め! 貴様達も此の世の下僕ではないか! ソクラテスのデルフォイの神託ではないが、人間どもよ、汝自身を知れ! 貴様らが《吾》を奴隷として扱ふ《存在》でないことを知れ! ぬぬぬぬぬ!
…………
――何故、《吾》此処にゐなければならぬ? 何故、《吾》こんな形を強ひられなければならぬ? ぬぬぬぬぬ!