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ゆうべはさみしさにふるえて
眠って夢を見た
もつれた糸のように
あなたとわたしとだれかと
過ぎ去れば思い出になる
今をちょっと耐えれば
わたしはここにいるわ
いるわ
終わりのない歌を
うたっているのは
わたしです
ときには声かすれ
ひとには聞こえぬ歌です
でもいまがいちばん好きよ
すこし曇り空でも
だれかわたしを抱いて
抱いて
惣領智子
ツンデレとは、ツンツンデレデレのことらしい。
ツンツンは、高慢・冷酷な態度をとる行為で、
デレデレとは動作・態度・服装などに締まりがなく、だらしないさま、
もしくは異性に心を奪われたり愛情におぼれたりして
毅然とした態度がとれず締まりがないさまをあらわすのですが、
東京秋葉原には、ツンデレ喫茶なるものがあり、
その意味はうねり狂う波にあらわれて擬態を表するにいたります。
珈琲だけではなく会話(でしょう、きっと)も楽しめるという空間概念は、
懐かしいなぁ、
ウッドアートカフェがそうでしたね。
さて、前置きはこの辺にして、本編にとりかかりましょう。
10歳まで育つ環境、親との関係などが、
人格形成に多大な影響を及ぼすのは多くの学者が説くところでしょうし、
完全否定しうる逆説がもっかのところ発表されていない以上、
全てではないが、限りなく全てに近い影響は受けるものと考えられるでしょう。
南原は某国立大学文学部の教授です。
厳しい父母・祖父母に育てられました。
好奇心旺盛な幼児期を厳格なる完全管理の基に行われた教育の集積が
彼の人格形成をどのようにととのえたのか、
彼のその後の人生に必ず相応するでしょう。
南原は53歳の現在まで、独身でした。
年に数回依頼される講演が秋葉原の文化スクールで開催されます。
今回は「現代フランス文学」について、日仏文化財団主催で2時間講演します。
午後18時、南原はオタクの街と化した秋葉原を散策しました。
講演後の熱を冷ましたかったのかもしれません。
途中咽の渇きを覚え喫茶を探しました。
どこでもよかったのですが、なんとなく惹かれたロゴは、
メイドカフェ白山。
雑居ビルの2階にあがり店の扉を押し開くと、
「いらっしゃいませ!」
若い女性の輪唱に迎えられます。
ウエイトレスとおぼしき数人の女性が60度の角度で辞儀。
そろいのメイド服に身を包み華やいでいます。
異次元に迷い込んだような不安と動揺が
瞬時に理性を喪失させ
四肢を膠着させました。
席に案内されメニューを渡されます。
「コースはどうなさいますか?」
丁寧な言葉遣いです。
南原は感心しながらメニューをのぞきました。
各コースが1000円で、
お姉さまとコーヒーとかツンデレどぇすとか、
でれでれメイドとか書かれてありますが、
さっぱり理解できません。
困惑しながら「お奨めはどれですか?」
問うと、
「当店のお奨めはツンデレどぇすコースです」
とメイド服のウエイトレスは微笑みながら応えます。
金髪でした。
幼く見えますが、
目鼻立ちはすっきりしていて一重の目が澄んでいます。
短い何重にも重なったように見えるフリルだらけのスカートからのぞく脚は、
白磁器のような質感でスラリと長い。
「それでお願いします」
南原はオーダーしながら観察していました。
数分後、
ガチャンという陶器音とともに珈琲がテーブルに置かれます。
テーブル一面に黒琥珀色の滴が散りました。
「ほら、持ってきてやったよコーヒー」
豹変です、
「は…」
「は、じゃねぇよ、ありがとう、だろ?」
「あ…ありがとう」
「ミルクは入れるの?砂糖はどうなの?早く言えよ!」
えらい剣幕です。
「ミ、ミルクを…」
「まったく愚図なんだから、こっちは忙しいんだからね」
「…申し訳ない」
「コ難しい本ばかり読んでるとドンドン白髪が増えるよ。
おじさん、煙草吸うの?」
大事なランボー詩集の原書に珈琲こぼしたのは君じゃないか、
などと南原は、独白しながら、
「吸いません」
「あ、そう。なにか追加あったら声かけて」
少女は去っていった。
珈琲は正直美味しくはなかったはずですが、
たとえ美味しいとしても味わうことはできません。
繊細な味覚が麻痺するほど鼓動の高鳴りがやまなかったからです。
読書にも集中できなくなりました。
ドン!という衝撃とは違う、
これまで体験したことのない
鋭利な日本刀で身を裂かれたあとに噴き出す血のような感情が、
みるみる南原を支配しはじめていましたが、
彼にはそれがどういう情念に根ざすのか解かりません。
味気ない珈琲を休みなく啜り飲み干しただけでした。
「どうしたの元気ないわよ」
少女がいつの間にか傍に立っていました。
「あ、いや、も、もう帰るから」
狼狽して舌がもつれてしまいます。
「さっきはひどいこと言ってごめんなさい。
ほんとは素敵な人だなと思ってたんだけど、
つい汚い言葉を投げかけてしまったの」
いくぶん首をかしげて満面の笑みには謝罪と慈愛が見えました。
「わたしミューって言うの。また来ていただけたら嬉しいわ」
頬に紅がさしています。
「いってらっしゃいませご主人様!」
南原は照れながら優しい声を背に店をあとにした。
購入総額がきっちり1億円だった地上12階のマンション、
リビングで、ワイングラスにブリジッドボルドーをなみなみと注ぎ、
英国から取り寄せたカウチソファーに横たわり、咽を潤す。
カマンベールチーズをかじりながら、
南原は惚けるように夜空をながめていました。
夜空はどこまでも深く紫紺になずみ、
ちりばめられた星のきらめきが馳走でした。
電話のベルで仮寝を破られます。
受話器を取り上げて耳にあてると、
「もしもし南原さんのお宅ですか?」
若い女性の声、
「はい、そうです」
「あ、先生ですか?あたしですミュー、メイドカフェ白山の」
「はい、覚えていますよ」
「先生、手帳と免許証なくなってない?」
「あ、待ってください確かめます」
南原は寝室のクローゼットに吊り下げられた背広の内ポケットを調べます。
ありません、スケジュールを書き込んだ手帳と運転免許証が。
「はい、どこかに落としたようです」
「ここにあるもの、今から持っていこうか?」
「いえ、明日、お店に伺いますからその時にでも」
「ベランダに出て下を覗いてみてよ」
言われた通りベランダから見下ろすと、
「おーい!!」
金髪の彼女が玄関ポーチの両脇に花壇に座り手を振っています。
「大学の先生だったんだね、あ、ごめん、手帳の中見ちゃったんだ」
「かまいませんよ、それよりも、わざわざ届けてくれてありがとう」
「うーん、この珈琲美味しい」
ガーナ産のモカ・マタリでした。
「どうしてあんな店に来たの?」
「いや、あんなコンセプトの店だと知らなかったんです」
「楽しかった?」
「い、いや、パフォーマンスはともかく、君と話せて楽しかった…」
素に戻る彼女。
「あ、別にそういう意味じゃなくて、とにかく、君のことが印象に残った…」
彼女が立ち上がり、食卓にのぼり猫のように這いながら、
南原の肩をつかんで降りると脚を開いて膝の上に坐りました。
「あたしも先生のこと好きになっちゃったんだ、ホントよ、オタクの若い客
ばっかでウンザリしてたの、だから先生がとても新鮮だった」
汗が止まりません。
鼓動は高鳴り声も出ませんでした。
「あたしと寝てみる?」
返事は彼女の口唇に奪われてしまいました。
その夜からひと月が過ぎました。
ミューは毎週土曜日に南原の家を訪れ日曜の朝帰っていきます。
南原にとって初めての女性でした。
これが恋なのか、曾て経験したことのない世の中の事象すべてが
鋭敏に反応してしまう感性がありました。
月を見ても、雨を見ても、雑踏に咲く花でさえ、
はかなげで愛おしく思えてしまいます。
吹きつける風に彼女の匂いをかぎ、
目をつぶると裸になった彼女の放恣な影が明滅します。
南原は物思いに耽るようになっていました。
そのさまを比喩する美しい字句がありますね、
そう、南原は、惚(ほう)けていた、のです。
そんな或る日、マンションの一階ロビーにある郵便ポストに、
宛名と差出人のない茶封筒が投函されていました。
部屋で開封すると、たくさんの写真が入っています。
南原とミューとが全裸で抱き合い愛し合う生々しい画像でした。
「いったい、誰が…」
4つ折りの紙片にメッセージが印刷されていました。
”ネガを200万で買ってください。金は3日後までに用意し
4日後渋谷のハチ公前午後9時に持ってきてください。
警察へ報せればどうなるかは言うまでもないですね”
南原は定期預金を解約し、
4日後、渋谷のハチ公前で背中から振り向かないようにと指示する男に、
金を渡し、ネガとCDを貰いました。
これで大丈夫、南原は安堵して渋谷を離れました。
ですが、翌日大学の正門掲示板に南原とミューの写真が
掲げられていたのです。
数十人の学生がそれを面白可笑しく批判する騒めきは、
南原には最早聞こえませんでした。
理事会に呼ばれ、真偽と仔細を尋問されます。
南原は謝罪、辞表を提出し、受理されました。
学長室を後にする南原に後悔の念は感じられませんでした。
その日の夜、南原はミューに出来事のあらましを説明し、
「ごめんね、全部私が悪かったのです」
と深々と頭を下げた。
「大学やめちゃったの?」
「私にも恥の観念はあります。でもねそんなことはどうでもいいことです、
私だけならまだしも、君を傷つけてしまったことが残念でなりません」
「ちょっと待って、それってどういう意味なの?」
「君の裸体が学生たちとはいえ公衆の目にさらされてしまった。
どんなことでも償いますから、叱ってください」
「何言ってんのよ、あたしなんかどうでもいいじゃんか、何、償うって」
「若い君の将来を傷つけてしまった罪は重い。
許されることじゃない」
「信じらんない、あたしがグルだってこと疑わなかったの?」
「え?」
「あなたはバカよ、そんなのあたしが協力しなきゃ写せる訳ないじゃない、
そんなことも疑わなかったの?」
「はい、疑いませんでした。いいえ、それを知ったとしても、君に罪はない、
君を傷つけてしまったことにかわりはありません、悪いのは全て私です」
血相を変えてミューは部屋を飛び出していきました。
口を付けていないコーヒーカップから幽かに湯気がたゆたっていました。
その翌日、警察からの呼び出しがありました。
ミューが自首し脅迫事件が明るみに出、犯人はすべて逮捕されたとのこと。
「彼女は、服役しなければならないのでしょうか?」
刑事もあきれる質問を南原はしました。
「あなたには被害者意識がないのですか?」
刑事が問います。
「正直ありません、私には当然の罰だと思っています、しかし、彼女に
罪はありません、悪いのは彼女を誘惑した私です」
ますますあきれた刑事は、
「自首ですし、捜査に協力してくれましたことと深く反省していることを
考えますと、すぐに釈放されると思いますよ」
そう親切に予測を教えてくれました。
数日後、警察署の前に、ミューと警察官の姿がありました。
膝まではねかえるような激しい雨がふっていました。
「傘貸してやろうか?」
警察官が訊きました。
「いいえ、濡れて帰ります」
そういってミューはお辞儀して警察署の入り口まで
濡れながらとぼとぼ歩きます。
水の中を泳ぐような雨の滴が、視界を薄紫色に霞めてゆくその先、
黒い影がひとつ佇んでいました。
「待っていましたよ、お帰りなさい」
「せ、先生!」
「よければ、私のところにしばらく居てくれませんか?」
涙が視界をいよいよ晦ませ、からだの底から押しよせる激情がミューの声を
消し去りました。
「傘もってきました、はいどうぞ」
差し出す南原の右腕をすりぬけたミューは南原に抱きつきました。
「要らない、一緒に入るから」
「はい、帰りましょうね、しばらく私の家に居てくれますか?」
「しばらくなんて、ずっと居ていい?」
「はい、ずっと一緒にいてください」
「もうー、ホントに鈍いんだから、先生、アタシプロポーズしてるんですよ」
「え?そ、そういうことは、いや、ということは…」
狼狽する南原の声はミューのくちずけに消されました。
ながいベーゼが続き、
「ミューさん、私と結婚してください」
返事は書くまでもないですね。
もうひとつの心が
わたしのなかにある
それは人恋しさに
いつでもふるえている
心にしまい込む
悲しみの数を
数え疲れたときは
ただたちすくむだけ
こんな日はいますぐに
あなたに会いたい
もうひとつの季節が
わたしの中にある
それはひととの出逢いや別れを
かわりゆく
わけもなく疲れて
町の騒めきに通りすがりの優しさ
求めるわたし
こんな日はいますぐに
あなたに会いたい
ティナ
弘兼憲史 黄昏流星群より