![](http://bany.bz/szshouse/img/thum_3gup58wmn99uau3.jpg)
よくわかっているよ、
あの狂おしい青の時代に、
もっと懸命に勉強していたら、
もっともっと行い正しくふるまっていたら、
おれもいまごろ家をもて、
柔らかいねだいで寝ていただろう
フランソワ・ヴィヨン「遺言書」より
好奇心ってのはそもそも薄っぺらなしろものじゃない、
つまり知りたいって欲望は思うよりずっと思いあぐねるもので、
気になることはどうしたってそのままにしておけないってところが人間にはあるものだ。
世界一のグランシェフに天才と言わしめたおじいさんが、
どうして毎日コンビニ弁当を食べているのか、
そこには想像を絶する何か、
ワクワクするくらい痛い過去があるに違いないのです。
他人の苦痛は断言してもいい、
ラ・ペルーシュのお砂糖を3個放り込んだブルーマウンテンナンバーワンの珈琲より甘い。
まぁそんなわけで、
ヒロミとふたり、コンビニで待ち伏せることになったのだ。
おじいさんが現れる。
背中をポンと叩くヒロミ。
「先日のシチューのお礼がしたいわ、イッペイ・タテマツさん」
じいさんの眉間に予期しなかった驚きの蒼い剣(つるぎ)が立つ。
そうでなくっちゃ。
嫌悪感なんて意識してちゃ生きていけない。
腕を取り、いきつけのウナギ屋に強制案内。
逃がしてなるものか。
「これはうまいな、こんなしっかりした蒲焼きを食べるのは何年ぶりかな」
じいさんが美味しそうに舌鼓を打つ。
「でしょう?天才料理人にほめられると案内したアタシも嬉しいな」
箸がとまった。
一瞥(いちべつ)が少しだけ険しい。
「どこで調べた?」
「ミッシェル・ソルマンの『味の庭』という本の中に筆者とあんたが並んで写っていた」
ヒロミが応えた。
「そうか……」
険しさがゆるむ。
葛藤しているまなざしくらいよどむ鏡はない。
だけども、虹彩の波立ちがゆっくり底に沈んでいくのを見逃してはいない、
それは意執からの解放なのだから。
「よかったら、聞かせてくれないか、フランスでの修業時代のこと」
ヒロミの依頼に沈黙が応え、
「………40年以上も前のことだから、あまりよく思い出せないが行きがかり上、仕方ない、話しておこう」
――ホテルの皿洗いから修業は始まった。
何年か働いて調理場にたたせてもらえるようになり、渡仏を考えはじめたのが二十歳の頃だ。
数年後ちょっとしたコネを頼ってパリ行きがかないそうになった。
千載一遇のチャンスだ(載という字は、年と同じです。つまり千年にいちどのチャンスってことですが、ちょっと大袈裟ですね)。
西も東もわからない、フランス語も専門用語以外話せない私を雇ってくれたのは、「ル・グラン」というミシュランの一つ星のレストランだった。
修業は甘くなかった。
誰も何も教えてくれない。
東洋から来たフランス語の解らない若者には言葉ひとつかけてくれなかった。
孤独と屈辱の毎日だった――
「そんな状況でどうやって料理を覚えたの?」
せかされるように、訊いてしまう。
話の腰を折るのは失礼だと自覚していながら訊いてしまう。
――実はつまみ食いだ。
鍋に残ったものをちょっとつまむ。
冷蔵庫にあるものをちょっとつまむ。
減ったのがばれてはいけないから、判らない程度に少量口に入れる。
そのひとつまみのソースや料理を舌の上にころがして、
まろやかさや、香りの立ち具合を頭の中にたたき込んだ。
料理を極めたいなら覚えておくほうがいい、
後味が重要であるのはもちろんだが、
口に入れる瞬間こそが腕の見せ所だ。
香りは、その初めての邂逅の印象が全てを左右するといってもいい。
それがあってこその咀嚼中の味に深みが出る。
今想い出してもよく働いた。
朝は五時から仕込みがはじまり、店が閉まるのが午前一時くらい、アパートに帰って床につくのはいつも午前二時を回っていた。
眠ったと思ったら一時間もたたないうちに起こされてシェフと一緒に仕入れに行くこともあった。
平均睡眠時間はたぶん三時間もなかっただろう――
「そういう時代は何年つづいたの?」
「フランスにいる間は常にそういう毎日だった。
渡仏時代の十数年間すべてそうかな」
「ミッシェル・ソルマン氏とはどこで出逢ったんだ?」
ヒロミが訊く。
「三軒目に働いた『ラ・セルヴィエット』という店だ」
向学心がヒロミの目元をみずみずしく澄ませている。
――休憩時間に調理場の片隅でひとり新しい味にトライしていた男、それがミッシェルだった。
当時は私も彼も下っ端だったが、ふたりとも周囲から注目され始めていた頃だ。
彼は私をライバルとして認めてくれたらしく、よく料理について語り合った。
ふたりが話しはじめると朝まで料理談話は続いたものだ。
ああでもない、こうでもない、こうやってみたらどうか、いやそれは合わない、それならこれはどうだ、あ、それならいけるかもしれない、早速明日試してみよう。
とても楽しかった。
彼は日本から来た私になんの差別もなく接してくれた――
「やっぱり差別はあったの?」
「それはあった。ヨーロッパ大陸には今もそうだと思うが、階級意識が根強く残っている」
じいさんの表情に曇りと険しさが現れた。
――当時のフランスから見れば、東洋からやって来た黄色い人間にちゃんとしたフランス料理を作れる筈がないと思っていたのだろう。
私の作った料理も誰かフランス人が作った料理として認識されることがしばしばだった。
そんな辛さに脱落していった日本人はたくさんいた。
希望と不安、栄光と挫折が、常に隣り合わせで渦巻いてるのが当時のパリだ。
ミッシェルはその後三つ星レストランにスカウトされた。
私もブローニュの一つ星の小さなレストランのシェフに迎えられた。
ミッシェルはそれから次々と創作料理を発表し名声を勝ち取ってゆく。
彼の創作料理の半分は私がミッシェルに教えたものだったが、フランスでは全てミッシェルの創作として受け入れられた――
静聴するヒロミの眉間に剣が立つ。
「私は別にそんなこと気にしないで新しい店「ラ・プラージュ」で新しい創作料理を作りつづけた。
そのうち評判が立つようになり、三年後、店は二つ星を勝ち取るに至った」
「ラ・プラージュにはどんな人が働いていたの?」
「あれは小さな店だった。
若いキュイジニエと、接客係のソフィーという女性の三人でやっていたんだ」
じいさんの額が収縮し、鼻孔がせばまった。
――ラ・プラージュはソフィーでもっていたと云っても過言じゃなかった。
接客、情熱、機転の早さ、人柄、どれも抜きんでていたが、なによりも、人としての品性が備わっていた――
「その褒め方からするとあんたと彼女の間に何かあったんだな?」
「ははは、実はその通りだ」
じいさんの表情が一瞬だけ明るくなり、暗くなった。
そういえば、僅かとは云えじいさんの微笑みを見たのは初めてだっただろう。
――私と彼女は愛しあうようになり同棲をはじめた。
彼女は私と結婚したかったんだと思う。
ソフィーとは1年間暮らしたが、私の帰国で終わった……
「どうして急に?」
――昔、宮廷料理人は自分の味を主君におしつけるのではなく、
主君の舌にさからわぬとみせて徐々に自分の味に惹きこんでゆくものが超一流と呼ばれた。
客の肌艶、背腰の具合、オーダーへの嗜好、
ひとりひとりの客を料理人は把握しさじ加減を変えてゆかなければならない。
いちどきりの客ではなく常連として徐々に自分の味に惹きこんでいった。
だが、
生ガキがもとで、食中毒を起こした客が亡くなってしまった。
……すべて、私の、責任だった。
今でもそのことを考えると、心が痛んで、眠れない……。
食材を管理できなかったということは、料理人として最低だ。
ソフィーは落ち込んでいる私を励ましてくれた。
『あなたの所為じゃない。
あの仕入れたカキは他のレストランでも食中毒を起こしている。
わたしたちの管理とは関係がないのよ、そんなに自分を追いつめないで…』
しかし私はもう料理などではなかった……立ち直れなかった……。
それから間もなく私は帰国した。
最愛のソフィーとも別れた……。
以来三十年間、私は料理を作っていない――
「その後彼女から連絡は?」
ひとは誰にでもそのひとだけの大切なロマンスがあるものだ。
「彼女には私の日本の連絡場所を教えていない、それきりだ」
瞳に透明の被膜がかかる。
「ソフィーは私が愛した最初で最後の女性だった。
今、考えるとひどいことをしたが、それ以来私は女性とつきあっていない。
それが彼女に対する、せめてもの懺悔だと……。
私の中では、……完結している」
「もう料理をつくる気はないの?」
「ははは、もう自信は無いさ。以前ほどの舌の感覚もなくなっているし、手元も覚束ない」
「手は動かなくてもあんたの舌はまだ凄い。このままやめるのはもったいないよ!!」
ヒロミが毅然と云う。
「いや、今から調理場に立つ実力はない」
突然、ヒロミが爺さんの前に土下座した。
「お願いだ!!オレに料理を教えてくれ!!あんたのレシピを教えてくれ!!
レシピがダメなら料理人の心得でもいい!!料理をする人間の哲学を教えて欲しい!!
オレは今までうぬぼれていた。
料理なら誰にも負けない自信があった。
しかし、あんたの作った料理を口にした時、自分の愚かさに気がついた。
なんでもいい!!ひとつでもいいからオレに教えてくれ!!」
どうして男って、真剣になると怒ったような話し方になるのだろうか。
じいさんの顔に父親のような微笑みが映えた。
ヒロミの弟子入りが本格的にスタートしたのは数日後からだった。
アタシの部屋が、彼らの厨房に変身した。
ヒロミのアパートは狭すぎて、調理器具が収まらないからだけど、
これからしょっちゅう一流のフランス料理が味わえる贅沢を味わえる。
それはそれでウキウキしてくる。
たくさんの調理器具がわが家に運び込まれた夜、
ヒロミの修業がはじまったのだ。
「私のフランス料理は古典料理の基礎をひたすら学ぶことからはじまる。
その上で基本を尊重しながら、時代に合わせてゆく。
そこのところをしっかり頭に叩き込んでくれ」
凛々しいじいさんのキュイジニエ姿には威厳さえ漂っていた。
「ほうこれはなかなか立派な舌平目だな」
「アタシが今朝早起きして築地で仕入れてきたの」
「舌平目を使った古典料理はソール・ムニエルだけど、今はどのレストランもそんな古い料理は出さねえよな」
「いや、その古典料理の原形を保ったまま現代化してみよう。
ロール巻きにした舌平目のボンファムだ。
先程も云ったように古典を重んじる正当性と新しい味を探す創造性を調和させるんだ。
いいかヒロミ、料理には足し算と引き算のふたつの方法がある。
足し算料理はいろいろな味や香りを積み重ねてゆくだけだが、それだけに、素材のもつ味が損なわれる危険性が高い。
一般に古典料理はこのやり方だ。
引き算料理は余分な贅肉をそぎ落とすことによって素材のよさをストレートにひき出す方法だ。
昔と違って新鮮な素材が手に入るようになった現代では、素材が形式に優先すると言っていい。
つまり私のフランス料理は古典料理の形式を守りながら、素材を生かすにはどうするかを考えることからはじまる。
時間をかけて完成された形式を一度解体して、それを組みなおす難しい作業だ。
思わぬ成功をすることもあるが大失敗することも多い。
極めて知的で頭脳的なゲームと言える。
だから、料理はおもしろい」
料理が完成した。
舌平目のシャンピニョン・デュクセル巻きサバイヨン焼クリームソース。
横にナイフを入れて半割りにして味わう。
ヒロミが先ず試食した。
「あら、どうしたの?」
咀嚼しながら泣いている。
「ちくしょう!!なんて素晴らしいんだ!なんでこんな絶妙の味がだせるんだ!!」
語学を習得しているとラッキーなことにめぐりあえる。
館長から、フランス哲学の古い原書の購入を依頼された。
もちろん、フランスでだ。
二つ返事で承諾して一路フランスへ。
一週間後、78年ムートン・ロートシルトを土産に帰還した。
じいさんとヒロミが高級ワインにぴったりの料理で帰還祝いをしてくれた。
和牛・フォアグラ・仔牛胸線肉のマーブル仕立グリエ、トリュフ風味、豆苗と絹さや添えでお迎えだ。
「凄いなこのワイン」
ヒロミが感嘆するが、お土産はそれどころじゃないよ、
「おじいさん、逢ってみないソフィーと?」
「なんだって、逢ったのかソフィーに?」
含んだワインにむせながらヒロミが訊く。
「ええ、彼女は世界的に有名な食器会社の社長をしている。来週、日本に来るわよ」
「どうする逢うかじいさん?」
大宰が晩年の冒頭に挿入した「恍惚と不安とふたつわれにあり」は
ポール・ヴェルレエヌの「知恵」の一節だったわね、
おじいさんの顔色はまさにそれだった。
選ばれてあることは、恍惚と不安のふたつに祝福されるものなのだ。
選ばれてあることの恍惚と不安とふたつわれにあり
なおしかも心つつましき祈りにみちて
おののきて、いきしたり
ポール・ヴェルレーヌ