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1972年6月某日、僕は、国鉄片町線放出(はなてん)駅に降り立った。
夜明けから降り出した雨は、罷む気配を見せず、午前8時50分、更に雨足が激しくなっている。
傘を持たない僕は、空を見上げながら、駅を出て、坂を下り、神社の鬱蒼と茂った樹木で雨宿りしながら、走らず、ひたすら歩く。
走ったって、ゆっくり歩いて行ったって、雨の量が一定ならば、濡れる量も、同じなのだ。
同じ量の雨に濡れてしまうのならば、走って体力を消耗する必要はない。時間はある。
学校はとっくに始っているし、遅刻しそうになって小走りに校門へ急ぐ生徒達ももういなかった。
叩きつけられる雨音、跳ね返る滴、マンハッタンのボタンダウンシャツも、裾17センチに絞った学生ズボンも、アーノルドパーマーのワンポイントが入った靴下も、vanの赤いデッキシューズも、ぺちゃんこの革鞄も、下着も、ぐっしょり、濡れていた。
濡れ初めは嫌なものだけど、これだけずぶ濡れになってしまえば、寧ろ、小気味よくなってくるものだ。
屋根も、庇も、軒も、柱も、車も、皆、濡れている。空も、地も、みんな濡れている。
不思議な一体感が、僕を貫いている。踏み出す足が雨を弾き、弾かれた滴が途を突き、顔や腕からしたたる滴が、重なってゆく。不規則、不安定、恍惚とした、普通の、自然の営みが、こんなにも実感できる。
不意に、足音が、聞こた。
ぴちゃちゃぷぴちゃちゃぷ、水の膜を踏み破る音だった。
ハイヒールなのだろう、縮むように響く音が、4拍子、♭気味に、確実に近づいてくる。
狭い坂道だったが、通行人は僕しかいなかった筈だった。
四つ角を西へ折れると、目的地までは、もう一直線だ。
しかし、雨をつんざく足音は、更に、追いかけてきた。
「ねぇ、ちょっと、待ってよ」
足音の主が声をかけてきた。振り返る。そこには、赤い傘を差した女性がいた。
白いワンピースで、ちょっとミニだった。靴はダークアイボリーで、5センチくらいのミドルヒールのパンプスだった。
立ち止まった僕に彼女は追いつき、傘を私に差しかけると、
「歩くの速いんだから、必死だったのよ、駅からずっと追いかけてきたのに」
「駅からですか?」
「知らなかった?あなた、傘もないくせに、降ってないみたいに平気で歩き出しちゃうんだもの、驚いたわよ。こんなに濡れちゃって、もう」
と、ショルダーバック(これもダークアイボリーだったかな)から、萌黄色のハンカチを出して、僕の顔を拭いた。
「寒くない?」
不思議そうな顔をしていたのでしょう、僕の表情に気づいて彼女は、
「気にしないでね、放っておけなかっただけだから」
そういいながらも、ハンカチをもつ手は、小刻みに、私の顔と髪を拭っていた。
「足りないわね、これじゃ、ね、学校へ行くんでしょう?バスタオルあるの?」
「え?ないと思いますが」
「じゃ、どこかで買わなきゃだめね、あ、あそこ」
視線の先には、いつも煙草を買っていた店があった。雑貨屋だが、ほとんど今のコンビニと変わりない品揃えだった。
彼女はハンカチを持ったまま、私の袖をつかみ、一緒に歩き出した。腕、組んで。
僕は、まぁ、ドギマギしていたさ。
こういう年上の女性、まして、OLさんとこうして二人っきりで話すなんてなかったし、これだけ見ず知らずの高校生に、こんなに親切な女性も、初めて逢ったからだと思うけど、とにかく、やけに、気恥ずかしかったんだ。
こんなとこ、皆に見られたら、OLにまで手を出したのか、なんて、きっと誤解されるに決まってる。
誤解されるのに吝(やぶさ)かではないけれども、それは、彼女に失礼だろう。
しかし、僕は、腕を振りほどこうとはせずに、店の中に入り、買ったタオルで賢明に僕の髪や背中や脚を拭く彼女のされるままになっていた。
お店のオバサンは、驚いてたっけ。あんた、この女何ものよ、ってな視線、ビシバシ送ってきてさ、にやついたりしちゃって、あとで根掘り葉掘り訊きだされるに決まってるんだ
面倒臭いなぁ。
「はい、これで、ちょっとは、マシになったわね、学校行くんでしょう?」
「いいえ、ちょっと、忘れ物をしたものだから、それを取りに来ただけなんです」
「忘れ物?じゃ、あなた、学校は?」
「さぼってます」
「不良ねぇ」って言い方が、またすごく素敵だった。非難するキライは全然なくって、どうしようもないわねぇ、ってゆるやかに抱擁するような言い方だったんだ。
「じゃ、どこに行くの?」
「この先の喫茶店です」
「何て名前?」
「NJ」
「知らないわね、まぁ、いいわ、そこまで送ってってあげる」
相合い傘だった。背は僕と同じくらいだけど、髪が長くって、お化粧の匂いが、雨の匂いに混じって、くすぐったかった。相変わらず、腕組んで、激しい雨の中を歩いた。
彼女の歩調に合わせたから、ときどき、スキップしながら、触れる腰、胸、ドキドキしながら、歩いていたさ。数分の道が、何時間くらいに思えただろうか。
雨が、おもむろに、揺れながら水色にハシャイデゆくのさ。踊るように、こまっしゃくれてさ。
なんかさ、このまま抱きしめたって、抱きしめ返してくれそうなくらい、彼女は、すごく大人だった。彼女の濡れてる右肩、気にして、傘を、彼女の方に押し返すと、また柄を僕の方に傾ける彼女。
一緒に、すこしづつ、すこしづつ、水色に濡れていったんだ。
NJに到着して、彼女は、なにか言いたげだったけど、
「ありがとうございました」
深々と礼する僕に、微笑返すだけで、そのまま、来た道を戻っていった。
僕をわざわざ送るために、遠回りしたんだろう。名前、訊けば良かった、と何度思いかえした事だろうか。その瞬間だって、そう思ってた。
彼女の後ろ姿を、僕は、NJのフィックスドアを開けっ放しにしたまま、いつまでも、眺めていたっけ。
忘れ物?
ええ、見つかりました。
物じゃないですから。
それはね、確か、こう呼ばれていますよ、
”気持ち” ってね。