ここに一葉の写真がある。

老人が、
酒場のカウンターにひとり、
グラスを傾けている。
人差指と小指を弾けるほど伸ばしている。
人差指には銀の指輪。
男は、いや、人は雰囲気だと謂うものたちがいる。
たたずまいや言動、自然な仕草にまなじり。
語らずとも雰囲気はそのものを饒舌に語りかけてくれる。
老人は、孤独を背負う。
老いはそもそも孤独なものだからだ。
そこには身が引き締まるような哀愁が漂い、
生きてきた歳月が刻まれている。
虚無とは有無相対を超越した境地より発する。
虚しいまでになにもないからこそ、
発するものがある。
老人はその何かを絶え間なく発している。
それは「イキザマ」であろう。

小さい頃から私は早く老人になりたかった。
何故だと問われても応えようがない。
今やっと50代の半ばにさしかかろうとしている。
もう少しで、
夢だった60代になり70代を迎えられる。
そうなったとき、
私がどうなっているかも夢想してきた。
それがこの一葉の写真に表現されている気がする。
白髪を長く伸ばして束ね、
クロムハーツのパーカーを羽織り、
ごつい銀の指輪をはめ、
漆黒のサングラス、
銀のピアスを耳朶にぶらさげてもいいだろう。
なんて渋いのだろうか。
男は老いて尚渋くなければいけない。
渋いとは、洒落ていることである。
洒落るために装いは大事なアイテムなのだ。
老人だからこそそこに拘りたい。
飲む酒も拘りたい。
酒をたしなまない私が、
ロックやストレートで飲めるのは、
バーボンだけである。
70歳の私が、場末のバーのカウンターを前に、
バーボンをぐいぐい飲み干してゆく。
喧騒のなかに、
ふと、
諍う声が反転する。
面倒くさそうに振り返った私は、
男が情婦らしき若い娘を殴っている場面を見据える。
待ったれやこら!
啖呵は派手にきるものだ。
バーボンのボトルを手にした私を男が睨みつける。
見上げるほどの大男だ。
言動一致、いいや、躯が先んじる。
私は首を30度ほど傾けて、
揶揄するように罵倒する。
大男は激怒して襲いかかってくるだろう。
老人だからと手加減する器量があるのなら、
女を殴ったりは絶対にしない。
大男は怪力だけが自慢の無法者(器量が蚤よりも小さい者)だ。
突進する様はさながら猛牛である。
70の老人が敵うわけがない。
そう、敵うわけがない。
なにも考えずに立ち向かってゆけば、だ。
私は突進する大男のこめかみをボトルで横殴る。
どうなろうが知ったこっちゃない。
これは喧嘩だ。
喧嘩は殺し合いである。
殺すつもりがなければ、
喧嘩なんかしない。
知らぬふりをして日和見していればいい。
それを、皆、判っちゃいない。
殴りあったことで気心が知りあえ仲よくなる、
そんなのは夢物語である。
大人は遺恨を必ず心理のどこかに遺して忘れないものだ。
遺恨がどれだけ不当なものであろうと関係ない。
だから執念深い遺恨をも覚悟しなければいけない。
娘を扶けようと立ち上がったのだ。
後戻りは出来ない。
大男は一瞬ふらつき、己が血潮に一瞬は弛れる。
しかし二瞬後にはとめどなく噴火する激怒に全身が覆い尽くされ、
私の襟首を遮二無二掴むと、
私の2倍はありそうな拳骨で殴ってくる。
私の身体は宙に浮いている。
しかし私は狼狽することなく、
躊躇することもなく、
大男の両耳を掴み、
鼻梁に渾身の力を込めて頭突き(ばちき)する。
5回から6回も入れてやれば、
どんな気丈な大男でも失神するか戦意を失う。
失ってくれなければこっちが困る。
何故なら、そのあとぼこぼこにされるのは私だからだ。
大男の戦意は遺憾ながら喪失することなく、
形勢逆転、
私はこれでもかとぼこぼこに殴られ、
蹴られ、半死状態だ。
いつのまにか人だかりができていている。
皆想うだろう、
バカな爺だ、勝てるわけないのに何考えてるんだ、と。
バカな男とバカな女の痴情のもつれじゃないか、
抛っておけばよかったのだ、と。
私と大男がやりあっている間に娘はどこかに逃げたようだ。
そのことに気づいた大男が娘の後を追う。
身動きできない私は病院送りだろう。

ここからだ。

数ヶ月後、退院した私は大男を探す。
草の根わけてでも探し出す。
やられたらやりかえさなければいならないからだ。
これは鉄則だ。
生きたいのなら、死にたくなければ、
立ち向かうしかない場面が春秋には頻繁に訪れる。
どれだけ恐くても、どれだけ辛くても、
背を向けず、真正面に立ち、ただ一歩だけ踏み出す、
それを勇気という。
自失して遮二無二走り出すことを勇気とは云わない。
わずか一歩踏み出すことが、勇気なのだ。
一歩踏み出せれば二歩めは臆することに逡巡しない。
勇気の欠片もないものに、
天才は絶対に宿らない。
命を懸けず自らを天才と称することは、詐欺に等しい。
この世のなんと詐欺師の多いことか。
勇気の欠片も持たぬ偽本物たちのいかに多いことか。
反吐が出そうになる。
私は死んでもそんな連中にはなりたくない。
本物と呼ばれたければ、命をかけなさい。
その勇気がなければ、偽物に甘んじて世の失笑を買えばいい。

憎しみは憎しみしか生まない、
物知りげに宣う者がいる。
バカを言うな、
憎しみを忘れることほど
自分を騙し、見限ることはない。
後悔とは、自分を裏切ったことへの懺悔より生じる。
生じた後悔は爛れ腐乱して自分を殺す。
見苦しい言い訳なんか誰も聞いてはくれない。
憎しみを忘れ、自分を殺し、
見苦しく言い訳し続ける春秋は煉獄そのものである。
業火に焼かれたくなければ、
やるしかないのだ。
そう懸命に念じ信じることによってのみ、
憎しみは浄化されてゆく。
純粋に憎むことは自らを純化してゆくことになるのだ。
純化なくして、救いはない。
だからこそ復讐するのだ。

虚無より生じ、
虚無へと消えてゆく、
所詮それだけの春秋だ。
今死んでも、明日死んでも、
悔いがないのならそれでいいではないか。

そうして老人(私)は、
今宵も場末の安酒場で
レモンスライスを啜りながら
バーボンを飲んでいる。


2010 02/08 22:03:23 | none
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