「ヒロミ、あんた、漫画と料理とアタシ、好きな順にあげてごらん?」 「漫画、料理、最後がおまえ」 これだものなぁ。 アタシの彼氏は、キュイジニエだ。 フランスでは料理を作る男性のことをそう呼ぶ。 青山のフランスレストランに勤めている気鋭の若手だ。 アタシの部屋でたまに作ってくれるご料理にはいつも驚かされる。 料理センスゼロの私が適当に買い込んだ食材の残り物だらけの倉庫となった冷蔵庫を覗き込み、信じられないくらい豊かな料理を作ってくれる。 天才だとアタシは思ってる。 ヒロミは無類の漫画好きで、 週刊誌の発行日には強制連行でコンビニに連れてこられる。 もっぱら立ち読みだ。 30分でも40分でも、夢中で読み耽っている。 ある時、 レジで騒動があった。 いつも会うおじいちゃんだ。 財布を忘れたのであとから代金を持ってくるからもって帰らせてくれと頼んでいるおじいちゃんに、店長は今すぐ取りに戻って支払ってくれ、それまであたためた弁当は渡せない、と融通が利かない。 お金取りに帰っていたらお弁当が冷めて不味くなっちゃうじゃんか。 客商売なのに、いいえ、お年寄りにどうして優しくできないのだろうか。 そういう冷たさが他の客にどういう印象を与えるのか、きっと考えたこともないのだろう。 「アタシが払います」 見かねたアタシは、おじいちゃんのお弁当の代金を支払った。 身なりは貧しくてしょぼくれてはいるが、清潔で、悪い人には見えないし、店長の傲慢さがやりきれなかったせいかもしれない。
やっと漫画を読み終えたヒロミと三人並んで家路を急ぐ。 何度も何度もお礼を言うおじいちゃんを、 アタシは家に誘った。 今朝ヒロミが、田舎から送られてきたイワシを材料にしてパン粉焼きのタルタルソースとクネルラタトゥイエ添えを作ってくれた。 味気ないコンビニ弁当より、ずっと美味しい筈だ。 黙々と食べるおじいちゃん、 「この料理は誰が作ったのかね?」 ヒロミが俺だとこたえる。 「あんたはそういう仕事をしているのかね?」 窓辺に座り煙草をふかしながら、ヒロミがうなずく。 「確かに美味しかったが、気になるところが何点かあるな」 ムッとした表情をかくさないヒロミにおじいちゃんの批評がはじまった。 箸で衣をより分けながら、 「まずこのパン粉、イワシに均等にまぶしてあるが、これは身側だけにまぶしたほうがいい。 そうすれば皮の下の脂肪がよく焼けて溶けるので、青魚の嫌な匂いが残らない。 次にこっちのイワシのクネルだが、これだと”つみれ”になってしまう。 和食にするのなら魚の素材特有の匂いも料理の内だが、フランス料理といいたいのなら、イワシの匂いは残ってはいけない。 イワシは一晩オリーブオイルと香味野菜でマリネして、包丁で細かくたたいてクネルを作らなくてはいけない。そうすれば臭みは抜ける。 練るときはコーンスターチの前に、白ワインと少量のコニャックを加えると完璧だ。 ラタトゥイエは炒める時間が少し長すぎたな。 野菜の甘味がとんでしまった」 ヒロミの顔がこわばっている。 おじいちゃんは立ち上がりながら、 「どうもごちそうさま、お金は後で持ってくる」 とアタシに告げて、帰っていった。 せっかくお茶を入れたのに、食卓の横の窓で、ヒロミが怖い顔で何か考え込んでいた。 どうしたの? 聞く前にヒロミが部屋を飛び出した。 おじいちゃんに追いつくと、 「オレの勤めている店は青山の”グー・エ・テール”というフレンチレストランだ。 文句を言うならそこに来て云え。 あのアパートのレンジでは火力が弱いし、十分な食材も香草もなかった。 このままじゃ気がおさまらない」 おじいちゃんは、返事をせずに、ヒロミに背を向け去った。
翌日、 厨房で下ごしらえに忙殺されているヒロミは、 「みすぼらしい爺さんが来たぞ、ここがどういうところか判っているのかな?」 というひそひそ声を聞き、あの爺さんだと直感した。 店内を覗き込むと、目が合った。 見ていろ、驚かせてやる、とヒロミは気合いを入れ直す。 オーダーが届く。 オニオンスープ、アジのマリネ添え、骨付き子羊ロース肉のロースト、皮付きニンニクと揚げナス添え。 シェフが、 「グッドチョイスだな」 と感嘆した。 「すみませんシェフ、そのオーダー僕に作らせてください」 とヒロミが頼む。 「ワケありか?」 「はい、お願いします」 シェフの承諾を得た。 最初の料理を運ぶヒロミが爺さんの耳にささやいた。 「じいさん、オレの作った料理に満足したら帰るときナプキンを机の上に置け。 不満だったら椅子の上に置け。 それが合図だ」 狂おしいほど待ち遠しい時間が過ぎてゆく。 どうもありがとうございました、 その声にヒロミは店内へ駆ける。 ナプキンは椅子にかけられていた。
夜、 ヒロミはじいさんと出合ったコンビニを張った。 じいさんの買物を隠れて確認し、帰宅する後を追った。 2階建てのハイツ1階にじいさんが入るのを確認し、 部屋の呼び鈴を押した。 「来ると思っていた。 なにもない部屋だが、まぁ、あがりなさい」 背後の明かりでじいさんの表情は解らないが、これまでと変わらない落着いた声だった。 2DKの狭い部屋だった。 「オレの料理のどこが気に入らなかったか聞きたいんだ。 オレはそれなりに自信をもっている」 ヒロミは用意しに狭いキッチンへ入り茶菓子を用意する爺さんに訊いた。 湯気をたてる茶碗ふたつと土産物らしい菓子を盆に乗せ坐るじいさんが応える。 「あのオニオンスープは前の晩からの仕事で、十分に臭みは抜けていたが、残念なことにヴィネガーが少し強すぎた。 あの皿はタマネギのもつ甘味をおさえるためにマリネを添えたと思うのだが、アイデアはいい、だがバランスに失敗している」 「仔羊のローストはどうだった?」 「ローストの巧拙はいかに悪い脂を抜いていい脂を残すかだ。 悪い脂というのは皮に近い部分で嫌な臭みがある脂だ。 いい脂というのは内蔵についた脂だ。 じっくり焼けば悪い脂はとけて流れるがやりすぎると中のいい脂まで逃げ出してしまう。 あのローストはもう少しジューシィに焼かなければならなかった。 君はおそらく、オーブンの途中で鍋にたまった油を上からかけるアロゼの作業を怠ったな。 アロゼは肉の乾燥を防いでふっくら仕上げる効果がある。 これはローストの基本だぞ。 料理をなめてはいかん。 時間と気配りがすべての料理の基本だ。 見ためは立派でもすぐに化けの皮がはがれる」 「あんたいったい何をやってる人間なんだ?」 「なにもやっとらんさ、ごらんの通りの一人暮らしの年金生活者だよ」 ヒロミは打ちのめされる矜持をにぎるように、うなだれて帰っていった。 その打ちひしがれた背中に、 「私が何のために君の料理をあれこれ言ったかわかるかね?」 振り返るヒロミ、 「世の中には料理人がゴマンといるが本当に好きで望んで料理の道に入った者と、ほかにやることがないからなんとなく料理人になってしまった者の二種類がある。 しかしそれで生活している以上、世間はどちらも”プロ”と呼ぶ。 同じプロでも前者と後者は全く別物だ。 作る料理の”格”が違う。 君は粗削りで未完成だが、”格”とセンスは十分備わっている。 百人にひとりいるかいないかの逸材だと私は思う。 だから敢えて苦言を呈したんだ、 普通の料理人だったらそんなことは言わない」 青い液体が体を逆流していく感触をヒロミは感じていた。 「じいさん、あんた今働いていないのと一緒だな、つまり、昼間は暇してるわけだ」 「ああ、そうだが」 「うちの店は毎週月曜日と第二、第四火曜日が定休日だ。 もし何もすることがなかったら、一度オレに料理を作ってみせてくれないか?」
次の月曜日の昼、グー・エ・テールの厨房にじいさんがやってきた。 気楽なフリーライターのアタシもヒロミから連絡をもらい、お相伴させてもらえることになった。 じいさんが最初に始めたのが厨房のチェックだった。 「なんだそんなことからチェックかよ、小うるさいジジイだな」 ヒロミが悪態をつく。 「厨房の様は料理に反映する。 汚い厨房からは雑な料理しかできない」 じいさんの一言一言に圧倒されるような重みがあることを発見した。 ヒロミもぐうの音も出ない。 「ところで今日はなんの料理を作ってくれるんだ? 食材はなんでも揃っているぞ。 フォァグラ、トリュフ、キャビア、オマール、アワビ、ラパン(うさぎ)、舌平目、ク・ド・ブフ(牛尾)、仔羊……」 「じゃシチューでも作ろうかな」 え?とヒロミが驚く。 「あら美味しそう。 シチューならアタシもけっこう得意なのよ」 アタシが横から言うと、ヒロミの顔が微妙に歪んでいた。 ……ジジイ、こいつ料理人じゃねぇな。 聞きかじりのただのグルメだ。 それとも、ふざけているのか? ヒロミの内心が複雑に騒いでいるようだった。 「ヒロミ君だったな、見ているだけではもったいないから、フォン・ド・ボーのあく取りでもやってくれ」 「了解」 ヒロミが従った。 顔の不満が、シチューという家庭料理にあることはアタシにも判った。 「おじいちゃん、フランス料理のコックさんだったの?」 彼女としては助け船をださなきゃいけない。 「まぁな」 「じゃ、少しはフランス語しゃべれるの?」 返事がないかわりに、眉間にしわが寄った。 「ごめん、ちょっとからかっただけだから」 とじいさんの頬にチュをしてあげた・ 「ばかもん!!仕事中はむやみにはなしかけるな。 十秒単位の時間と勝負をしているんだ」 「ごめんなさ〜〜い、おお、コワっ」
出来上がったシチューをアタシがテーブルに運んだ。 「私はこのへんでおいとまする。 あとはふたりでゆっくり味わってくれ」 エプロンをきちんとたたみながらじいさんが言った。 「あら、おじいちゃん帰っちゃうんですか?」 「ああ、見たいテレビがあるんだ」 帰っていった。 「ちぇ、こんなお子様メニューをオレに食えってか」 ヒロミの悪態はとまらない。 「あら、せっかくおじいちゃんが作ってくれたんだから感謝しなきゃ」 しばし無言で二人は食べた。 「美味しい!! 家で作るルー入れるだけのシチューと味がちがうわ」 舌鼓を打つアタシの声にヒロミは反応しない。 その表情は真っ白なくらいに蒼ざめている。 「本当に美味しいわ。 バカにしたもんじゃないわね」 ヒロミの眼がまばたきを忘れた。 ……これは、凄すぎる、完璧だ、同じ材料で同じ方法でやっても、オレにはこんな味は出せない。 どこが、違うんだ…… 「どうしたのヒロミ、不味いの?」 等身大の店望ガラスの前で茫然とたたずむヒロミに声をかける。 「美奈、おまえ大学の図書館勤務だったな? 調べて欲しいものがある」 「何?なんでも言って」 「あのジジイの過去を知りたい。 ひょっとしたら昔は名の通ったシェフかもしれない。 料理関係の本、あたってくれないか?」 「あのひとの名前なんて言ったっけ?」 「立松、アパートの表札にそう書いてあった。 ヒントはそれだけだ」
翌日からの図書館勤務が退屈でなくなった。 次の日の夜、ヒロミのアパートに成果を届けた。 「どうだ、わかったか?」 待ちきれないようにヒロミが問う。 「うん、どうもそれらしい名前を発見したからコピーとってきた」 用紙を渡すと、 「なんだこれ、フランス語じゃねぇか、よくわかんねぇな」 「これはね、ミシェル・ソルマンという人が書いた料理の本なんだけど」 「ミシェル・ソルマン?フランス料理の頂点に立つグランシェフじゃないか」 「そうなの、その人が書いた著書の中にこんな一節があったの。 翻訳するとね、『私の料理哲学において”師”となる人間がいた。 それはジャポネ(日本人)である。 あとにも先にもこんな凄い料理人に出逢ったことがない。 私は修行時代に彼と組んで仕事をしていた。 同じ年齢のその天才料理人の名は、イッペイ・タテマツ』 ここに古いツーショット写真が載ってるわ。 似ているような気もするけど」 白黒の解像度が悪い写真を食い入るように見つめるヒロミがつぶやいた、 「ジジイだ…」
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