交渉事に必携なのはたたみかける事だと私は思います。相手に、判断の暇を与えない。このことは、諸事全般に通じます。たとえば、プロポーズ。男性諸君は、許婚の後に、時を与えてしまってはいないだろうか?与えた時が、彼女の心をどう左右するか、一喜一憂し、永劫の焦燥に身を焼きながら、あらぬ妄想に、挫けそうになってはいまいか?

  決断を、熟考させてはなりません。大切な事であればあるほど、熟考させてはなりません。一瞬の判断と、時間をたっぷりかけて導き出した決断と、実は、ほとんど変わらないものです。多少の誤差はあるかもしれませんが、そんなものは、時計が0.001秒遅れる程度の小事に過ぎません。

  プロポーズされたとき、考えさせてくれと、三人に頼んだ私に断言できる資格があるのかどうか疑わしいのですが、そこは、大目にみてもらって、話を続けます。

  女性の長考はほとんどの場合、好結果に結びつきません。何故なら、女性自身がその決断に絶対の自信をよせっこないからです。女性は、いつも、理性と現実を懐に忍ばせています。いつでもその切り札を出せる状況でないと、安心して、夢にひたれないのです。男のように、三歳児でもヒキそうな感情任せの行動は性的にも出来なくなっているのです。

  そこを、つく、のです。

  安心なさって下さい。女性は確かに好悪の区別が激しいですが、「悪」の認識さえされていなければ、案外、何にも考えていませんし、警戒もしていません。つまり、嫌われていない限り、この方法は必ず通用する筈です。

  16歳の春の夜でした。私は友人と二人、彼の家の近所の電話ボックスから、彼の調べた女生徒の電話番号をダイヤルしました。顔ぐらいは、同級生ですから、まさか知らないことはない、という程度の関係でした。話した事はなく、視線を合わせたこともありません。
  友人は、この告白の失敗を99%確信していたでしょう。上手くいくわけがないのです。私は留年している不良です。姿形も、不良だったでしょう。好印象を与えているとはとても思えません。対する女生徒は、世俗の垢とは全く無縁で育ったような、謂わば、深窓の令嬢、でした。男女交際なんて破廉恥なことは、耳にするだに穢れた心地がするでしょう。

  「どう言うつもりや」

  友人は作戦を尋ねます。いいえ、作戦なんてありません。出たとこ勝負、感性のままに、当たって砕けてみようと私は、決意らしい決意としてそんな曖昧なものしかもっていませんでした。

  家人が出て、同級生である由を前置き、彼女を呼び出してもらいました。若い声でしたから、姉か母親だったのでしょう、私は幸運でした。父親だったら、用件を根掘り葉掘り聞き出されていたでしょう。彼女の足音が響き、

  「はい、博子です」こういう声だったのか、この無謀な男は、この時初めて彼女の声を聴いたのです。

  「Sやけど、今晩は」

  「今晩は。何?急にびっくりしたやん」

  どっちの胸が高鳴っていたか、それは、神のみぞ知る領域でしょう。たかが人間の私は、覚悟を決めなければなりません。今ならば、まだ、引き返せる。

  「お願いがあるんやけど、聞いてくれるかな?」

  「お願い?何?聞いてみないと、分からない」そりゃ、そうだろう。彼女も、私の声を初めて聴いているのだろうから。

  「俺と付き合ってくれへんかな?」

  「え?」

  「真剣やから、笑わんといてな。冗談やないから」

  「分かってる…」これが、彼女の弱みになりました。

  「俺と付き合ってくれへんか?」

  「S君、わたしのこと好きなの?」大胆な事を訊いてくる娘だ。普通は交際申し込む相手に確認する事ではあるまい。

  「判らへん。嫌いではないと思う」

  「何それ、好きかどうかわかるらへんのに、付き合って欲しいの?変やん、そんなの」

  「いいや、全然、変な事ないぞ。付き合って欲しい、と思っているのは本心や。そやから、返答してくれへんか?」

  「え、分かった…」

  この瞬間です。この瞬間を逃してはなりません。たたみかける好機は、この瞬間をおいて他にはありません。

  「考える、っていうのは無しやで。今、すぐに、返事してくれ。今判断したって、数日判断したって、答え、なんて変わらへんもんや。今、すぐ、判断して欲しい。断っても、安心して、気まずいことにはなれへんから。君の事、これまで通り、いいや、今夜を境に、ちゃんと、級友として扱うから、保証する。断ったあとのことは、本当に、心配いらへんからな。さぁ、どうする?付き合うか、付き合わへんか」

  少しの沈黙。真面目な彼女のことだ、真剣に考えているのだろう。この思考も、破らなければならない。

  「正直に言うわな。君の事が好きかどうか、判らへんって言うたやろ。他に気になる娘もいっぱいいてる。君でなければ駄目だ、って自信もない。他の娘と付き合ったほうが仕合わせになるかもしれへん。君を好きになれるかどうかも自信がない。好きになれへんかもしれへんし、無茶苦茶、好きになるかもしれへん。そんな先の事は判れへんやろ?ただ、俺は、君に付きあって欲しいと頼んでる。何としても付き合って欲しいと思ってる。断られたら恥ずかしいからと違うで。決めたからや。今、このとき、君に決めたからや。もう一度言うけど、君を好きになれるかどうかは判らへん。でも、決めたんや。そやから、今はもう迷わへん。さぁ、どっちや?返事は」

  「付き合う」

  友人の信じられない顔が、傍らにありました。信じられないのは、私も同じでした。まさか、上手くゆくなんて、想像もしていませんでしたから、そのあとの言葉が見つからなくなっていました。無難に「ありがとう」でいいのか、「本当に、いいのか?」などと、不審がる心のままに訊き直すわけにもいかないでしょう。

    薮をつついて出てきたのは……。

  その後、私達は交際を始めました。クラスの誰もが訝る関係だったでしょう。富士に月見草は似合うのかもしれませんが、私にIはどう贔屓目に見ても、似合いません。不純と純、垢と無垢、聖水と汚水、彼女が堕ちてゆくと誰もが、声に出さないまでも、噂していたでしょう。

  恋人同士は、お互いに似てくる、ってよく言いますよね。私は言われた事がありません。

  私は、煙草は吸うし酒は飲む、エスケープはするしズル休みもする、エロ雑誌は定期購読しているし麻雀だってする。朝方まで夜更かしするのはしょっちゅうだし、予習復習、ついでに宿題なんてしたことがありません。

  私は、少しずつ、少しずつ、変化させられていたことを、知らされます。

  彼女は、vampでした。別名bloodsucker。血を搾取する者。そう、バンパイヤ。ただし、彼女が搾取するのは、血ではなく、毒でした。

  妖婦の条件は色々あるでしょう。ですが、その正反対の清純無垢な魂にも、vampは存在します。つまり、清冽という、魔の伝染病です。毒をもって毒を制す、その毒は、なにも劇薬であるとは限りません。

  疑うことを知らず、盲目的に信頼を寄せる相手を、それでも騙し続けられる男なんて、いるのでしょうか。彼女は、私の漏らしたたった一言に希望を見出していました。君を好きになるかも知れない。これはあながち嘘とは言えないけれども、可能性の問題を語ったまでで、確率の程は低いことを彼女も承知していたでしょう。

  彼女は私達に慣れるのではなく、私達を彼女に馴れさせようとしていました。言葉でも行動でもなく、私達の情操に訴えかけるように。自分を自分のままに保つ事がまるでどうでもいいかのように無償の心で。

  長くなりそうなので、本日はこの辺にしておきます。さてさて、私は何が書きたいのだか。

  最初の妻に待ってもらった時間は1時間、2番目の妻は、1週間、現在の妻は、半年待ってもらいました。結局、1時間も半年も、答えは同じだったわけです。私の夢は、一瞬で夢へいざなうような、プロポーズだったのですが、どうやら、一生、使えないようです。
2006 07/29 10:31:49 | none | Comment(0)
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