
風にそよぐ葦かび、
萎れる稲穂にはなにもなく
風は冷たくもあたたかくも
かぐわしくもさわがしくもなく
ただそこにたちこめた。
眠くなるほど
ながい
ながい時間が過ぎた。
きみが右足を踏みだせば、
ぼくは左足をあとずさろう。
背中には千尋の谷。
雄叫びをあげる
ぐふうが天へ昇っている。
きみはふたたび左足を踏みだすだろう。
そしてぼくも右足をあとずさるだろう。
きみとぼくは
無限に離(か)れ果てた。
そこまではすぐだった。
だけど
そこから先は
モンシロチョウを9.7次元で
捕まえるような
まるで虚空を塗りつくしてゆくような
色彩がひろがった。
きみのなまえ、
きみのすがた、
きみとの想い出、
きみとの楽しい会話、
きみとの触れ合い、
きみとの旅行、
きみとむかえた苦難、
きみとすごしたたくさんの夜が、
一瞬にして、
意味をなさなくなり、
灰塵に帰した。
そこに時間は存在しない。
きみの右足が無意識に踏み出され、
ぼくの左足は、
谷のへりまであとずさる。
きみがもういちど左足を踏みだせば、
ぼくは堕ちるしかないだろう。
そのとき君は笑うかい?
ぼくのうろたえに腹を抱えるかい?
とうとう
きみは左足を踏みだした。
ぼくは、
へりでふるえる左足を支点に
右足をあとずさり、
宙を踏む。
吸いこまれるように傾いた身体を、
両手がバランスでもとるかのように前に投げ出される。
君は尚も右足を踏みだした。
僕は支点までも喪くし、
谷底へ堕ちてゆく。
伸ばした腕をつかもうとした君の顔は、
どうしてだい、
蒼ざめているじゃないか。
きみは手じゃなく肘をつかんだ。
安物のセェタァはぼくの体重を支えられず、
伸びて、ほつれはじめる。
一本、また一本と、毛糸がほつれてゆく。
未練の毛糸は、
情感色の鱗粉をばらまきながら、
ちぎれた。
さようなら、
きみを愛していたよ、
あと何秒かの命だとしても
ぼくはきみを愛し続けるよ。
ぼくの声は竜神の叫びにうちけされ
真っ逆さまに堕ちてゆく。
そのときだ、
きみは突然、へりを踏み切りにして、
ぼくに向かってとびたった。
なんてことをするんだきみは
そのこわねも
見下ろすきみの微笑みに散らされた。
ふたりの距離は、
やっと一定の水準を越えた。
そこから先は、
未知数の次元。
ぼくにもきみにも
だれにもわからない。
いいのかわるいのか
かなしいのかたのしいのか
なにひとつわからない。
でも
いいんだよね
それがふたりの末路なんだから。
きみの手がぼくの胸をわしづかむ。
もう逃がさないわと
ありったけの力をこめて。
たそがれどきに
星はない。
だけどなぜだか
胸は希望にあふれていた。
死はふたりを
別てなかった。
竜神のさけびのただなかへ
ふたりのいのちは
まつろい
はぜて
しずくとなり
ながれた。
ふたりの切ない距離も、
そのとき消えた。