お好み焼き屋のお話しをひとつ。

   三年前まで住んでいたマンションの近くに、不思議なおかみさんがいるお好み焼き屋がありました。

   年のころは、どうでしょうか、私よりきっと年上だとは思うのだけども、自信がないのは、女性の年が解り辛いってことのせいなんだけど、ひょっとしたら年下かもしれないし、とにかく、美人のおかみさんです。ご主人のお姿をお見受けしないから、もしかしたら、そういう事情にある方かもしれません。

   最初、迷いこんだ猫のように、怪訝な表情隠しもしなかった私に、おかみさんは、

      ”いらっしゃいませ” と迎えてくれました。

   そして、明石焼やらミックス焼きやらをたいらげて、満腹、仕合わせいっぱいで清算すると、

      ”おにいさん、また来て下さいね”って送り出してくれました。

   ここまでは、普通のお店と同じ。

   次に行ったのが、一ヶ月後くらいでしょうか。明石焼が無性に食べたくなって、駅の近くまで、歩いて、その店を見つけた私のおなかは、背中にくっつきそうなくらい、あの通りの状態でしたから、ソースの焦げる匂いが鼻腔をくすぐってたまりませんでした。

      ”お帰りなさい”

   そう、おかみさんは私を迎えてくれました。変でしょう?

   で、ですね、そんな挨拶交すほど、話していたわけではないのです。瓶ビール頼んだら、グラスに最初の一杯だけ、お酌してくれるのですが、それも、観察する限り、私だけにではなくて、それが彼女の、サービスなのだと思い直したりする程度で、あとは、焼き方だとか、店と客との普通の会話しかしていないのです。

  そうだからといって、この日も、おかみさんがほかの客(男性ですね、人気があるようだから)のように、世間話に花を咲かせることもなく、ひたすら、胃袋を満たした私が清算を済ませると、

      ”いってらっしゃい’

  と送り出すのです。これは、かなり変ですよね。

  これも常連客(私は二回目だからその部類には入らないでしょうけど)への、お決まりのサービスなのかというと、そうでないのだから、ややこしくなるのです。

  世間話や、もう少しつっこんだお話しを、聞こえよがしに話し合っている常連と思われるお客さんに、彼女はけっして、「お帰り」も「いってらっしゃい」も言わないのですよ。

  で、ですね、もうひとつ驚いたのが、マヨネーズとか辛しとかケチャップ(この店はこれもかけるから)の量を必ず彼女は、常連客に対しても焼く前に尋ねるのですが、この日の彼女は、何も訊かずに、イカ豚玉焼きを私の前に私の好みの量を再現して並べてくれました。お酌は最初の一杯だけ。ほかの常連客には、何度も、お酌しているのだけれども、私は、やっぱり、一杯だけ。

  おにいちゃん、って呼ばれるのが癪にさわるから、三度目は、ヒゲ剃らずに、行ったのです。ですが、やっぱり、「お帰りなさい」で、「おにいちゃん、何する?」

  白髪、けっこうあるし、ヒゲにも、白いのがまじってるから、まさか本気でおにいちゃんなんて思っていないのだろうけれども、またまた、癪に触ってしまったまま、

     ”いってらっしゃい”

  と、送り出されてしまうのです。

  四度目は、

    ”お帰りなさい、あ、お疲れさま”

  と、私の様子に気付いて言い添えてくれました。

    ”いってらっしゃい、気をつけてね”
  
  これが送る言葉。

  そうして、月日が過ぎてゆき、

  ある日、Zを連れて、食べに行ったのです。

    ”おかえりなさい、あ、あ、彼女なの?お似合いね”

  って言うから、

  「違います、娘です」って言いかけたら、

  「そうですよ、似合ってますか?わたしたち」

  とZが先に応えてしまって、随分バツが悪いことになってしまいました。どうみたって、そんな関係に見える筈がないのに、なにを勘違いするのだろうかなどと、心中、ぶつぶつぼやきながら彼女を窺うと、

  またね、不思議な表情をしているのです。

  おかみさんはもともと無表情に近い、能面のようなお顔をなさっていて、まぁ、美人なんだけど、どこか寂しげな陰のある雰囲気で、しっかりせい!!っていつも元気づけてあげたくなってしまうのだけれども(したことないですけどね)、このときはね、

  母親のような、慈愛に満ちたまなざしをくれたのですよ。

  そして、私がミックスモダン、Zがミックス焼きそばと明石焼ととん平焼きをたいらげる (@_@ のを待って、お勘定すませると、おかみさん、

    ”いってらっしゃい、早く帰ってきてね”

  表情が変わったZが、私を恐い眼で射ぬく。

  なんてことをあなたは、とおかみさんを観ると、

  小さな舌をぺろっと出していたのです。

  しばらく、行ってないけど、元気なのかなぁ、と思い返すわけであります。

  そして、もうきっと帰らない、こまっしゃくれた日々、

  暖簾をくぐって、店に入ると、

     ”おかえりなさい”  の、
  
  華やいだ声が聞こえてきそうで、少しだけかなしくなるのです。
2006 07/20 18:26:05 | none | Comment(0)
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