1977年のプロ野球が開幕しました。
そしてこの年は小林繁投手にも注目が集まりました。 長嶋巨人が連覇できるかどうかは、小林が前年ほど勝てるかどうかにかかっていたかといってもいいでしょう。
もちろん小林も前年の18勝はフロックであったか、本当に実力がついたかを証明しなければなりません。 前年は打線の援護も多かったような気も致しました。
そして「巨人のエースは堀内から小林へと」ということを認めさせるチャンスでもあったのです。
ただ開幕戦は堀内でした。 またこの年はセ・リーグは当初阪神が飛び出し、順調に勝ち星を並べました。
小林も調子の悪い試合もありましたが、だいたい前年と同じように勝ち星を挙げていきました。
阪神はこの年は途中で失速、Bクラスでシーズンを終え、吉田監督も辞任となってしまいました。
最終的には巨人が独走のような状態となり、9月中にリーグ優勝を決めてしまいました。
小林投手は前年と同じく18勝を挙げ、沢村賞にも輝いたのです。
普通沢村賞は、これまでオーバーハンドの投手に贈られていたのですが、小林のようなサイドハンドの投手が受賞したのは初めてではなかったでしょうか。
ただ日本シリーズでは巨人は阪急に1−4と完敗。
長嶋巨人はまたしても、日本一を逃したのです。
小林はシリーズ開幕投手の栄誉を担いましたが、1、2回で投手の山田にも打たれるなどして3失点で降板。
他の試合でリリーフの登板こそありましたが、一度も先発することなくシリーズは終わってしまいました・・・。
まさかこの年が小林投手の日本シリーズ最後の登板になるなどとは本人はもちろん、誰もが夢にも思っていなかったことでしょう。
そのようなことはありましたが、小林投手にとってこの年は「巨人のエース」という称号を手に入れた大きな年であったと思います。
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