2011年 11月 28日 の記事 (3件)


トクタサツオも一時期野球から全然離れていた頃がありました。

ですから1970年代のプロ野球は現在では考えられないほどの野球オンチだったのです・・・。

昨夜までの?、?の日記の内容はですから本で得た情報が多いのです。

西本幸雄監督は1973年パ・リーグが前後期制、いわゆる2シーズン制となった1年目に阪急ブレーブスで後期優勝。

でもこの年は前期優勝の野村克也監督率いる南海ホークス(現ソフトバンクホークスの前身)に敗れリーグ優勝は逃してしまったのです。

この時は南海ホークスは、後期は阪急ブレーブスに全然勝てなかったのですが、それでもプレーオフに勝利。
南海ホークス「死んだふり」とか言われたものです。

西本監督は阪急を勇退。

そして何と翌年、1974年に近鉄バファローズ監督に就任するのでした。

もちろんこの頃は後年の「猛牛軍団」「いてまえ打線」には、ほど遠い存在でした。

でも今度はこの近鉄バファローズを何と就任2年目の1975年に後期優勝をさせるのです。

それも後期優勝を決めた日の相手は古巣の阪急ブレーブス。
球場はこのブレーブスのホームの西宮球場でした。

ただしプレーオフには敗退。

スーパールーキー山口高士、新外国人マルカーノ、ウィリアムスの力も大きかったのですが、やはり何といっても西本監督が育てた選手達の勝負強さと地力であったと思います。

まあこの辺りもなかなか面白かったです。

8福本
7大熊
3加藤秀司
D長池
4マルカーノ
5森本
9ウィリアムス
2中沢(河村)
6大橋

投手
足立、山口、山田、戸田

当時の阪急ブレーブスの主力メンバーですが、多くが西本幸雄監督が育て、
一緒に戦ってきたてきた選手達だったのです。
2011 11/28 21:38:10 | none | Comment(0)
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西本幸雄氏が名将と呼ばれる理由のひとつに阪急ブレーブスをリーグ優勝させたという実績があります。

阪急ブレーブスは後年の実力が信じられないほどの弱小球団だったのです。

そのチームを西本幸雄氏は監督に就任すると見事にリーグ優勝まで作り上げたのでした。

このあたりはかなり古い話なので、あまりよく知らないのですが、かなり厳しい指導であったようです。

もちろん生半可な指導、指揮ではなかったでしょうね。

そしてまた選手達もよくついて行ったと思いますね。
今でも悪口をいう人は少ないみたいです。

このようなエピソードも残っています。

選手達を集めて自ら不信任投票を行いました。

そしてその結果「X」と何も記入されていない白票があったということで辞任を決意されたのでした。

でもこの時はさすがに球団が慰留勤め引き続き指揮をとることになったそうですが・・・。

これはまあちょっとやりすぎかもしれませんが、それだけ賭けていたということですかね・・・。

昨日もお書きいたしましたが、日本シリーズには巨人に5度敗れた・・・。

野球に「もし」「れば」「たら」は言ってはいけないというのですが、一番
惜しかったのがあの1971年のシリーズでしょうか・・・。

1971年、西本監督は三人の若手に期待していました。

山田久志、加藤英司、福本豊の三人です。

そして1勝1敗で迎えた第3戦も、山田が好投。
阪急1−0巨人、9回裏。

ここであの王の逆転サヨナラ3ランが出たのでした。

そしてこの年も巨人が日本一を達成しました。

う〜ん・・・G党のトクタサツオが見てもこのゲームの無念さはいかに・・・。

ただしこの後山田久志は大投手となり、加藤、福本両選手もMVPに輝くという大活躍をしていくのです。

1976、1977年の日本シリーズ。
今度は逆に長島Gが日本一の夢を阪急ブレーブス(監督は後を継いだ上田監督)に打ち砕かれるのでした。

このようにみると因縁というか運命的なものを感じますね。
2011 11/28 21:36:18 | none | Comment(0)
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元プロ野球監督の西本幸雄氏が御逝去されました。

大毎、阪急、近鉄で指揮をとりリーグ優勝8回を達成。

ただ日本一は1度もありませんでしたので「悲運の名将」と言われてきました。

でもこの実績はさすがで、御本人は
「悲運でも何でもない」
と言われていたそうです。

トクタサツオも「悲運」とは言いたくないですね。

ただついていなかったかもしれないです。
何せ阪急を率いて巨人と5回戦いすべて敗れるのですが、この頃はON全盛のV9時代でした。

南海が3回、ロッテも1回負けています。

あまり古い時代の話はさすがにトクタサツオも知らないのですが、大毎オリオンズの時は大洋ホエールズ(現在揺れている横浜Dneベイスターズの、
前身)に有利と言われながら4タテを喫し敗戦。

そしてその後監督をやめられたそうです。

この時の大洋にも秋山登というスーパースターがいたのは事実なのですが、
何があったのでしょうか・・・。

関西というイメージがございますが、和歌山県のご出身で立教大へ進学。

選手としてもこの大毎オリオンズに入団されたのですね。

現役時代はあまりご実績はないようですが、コーチ、二軍監督を経験されています。

やはりプロ野球の監督としては、現役時代の実績に関わらず、このような経歴は絶対に必要ではないでしょうかね・・・。

どこかのチームのフロントに言いたいですね。

謹んでご冥福をお祈り致します。
2011 11/28 21:34:03 | none | Comment(0)
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