母方の伯母がおととい亡くなりました。
伯母は大阪府の茨木市に長い間住んでいたので、葬儀もそちらで行われるということになりました。
弟が朝八時四十九分の「のぞみ」を予約したというので、こちらもそれに乗り込みました。
京都で降りて、高槻まで新快速、そこで一旦降りてJR茨木駅で降りてタクシーに乗って斎場へ参りました。
喪主の伯母の娘つまり従姉とはすぐに会えました。 従弟は思ったより、しゃんとしていました。
従姉の要望で、お客さんは親しい人だけのいうことになり、従姉夫婦と もう一人の従兄(母の次姉の息子)と伯母の従弟、親しかった友人の老婦人が一名。
それから我々兄弟の二人と七名だけで葬儀は行われました。
「お別れ」の時はさすがに悲しかったです・・・。 当たり前ですがね。
火葬場そしてお骨・・・。
最近は簡略化されて、初七日、四十九日まで一日でやってしまうのですね。 再度、遺骨の前で読経とご焼香が行われました。
こうして長かった一日は終わり、大阪を後に致しました。
伯母は香川県坂出市出身。 結婚して夫の仕事の都合で満州へ渡りました。
そこで一女(喪主を務めた従姉)を授かりました。
そして終戦とともに、帰国。 髪を切って、ロシア(ソ連)兵の前を歩いたこともあったそうです。
それから大阪で住むことになりましたが、夫と死別。 美容師の資格を取り、従姉を女で一つで育てあげ従姉を女子大まで行かせました。
性格は激しく、人付き合いはあまりうまくなかった・・・。 お酒はけっこう好きで、よく飲んでいました。
生活はもちろん裕福ではなかったでしょうけれど、困窮しているようにもみえなかったから、美容院はまあまあはやっていたのでしょう。
ただやはり人付き合いがあまるい得意ではなかったようで、アパートを建てると早々に美容院は閉めてしまいました。
後半は悠々自適でしたが、祖母のめんどうをずっと見続けました。 そして最後まで看取りました。
万博とか夏休みには時々遊びに行きました。
弟は社会人になって、二年ほど大阪勤務になったことがあったのですが、けっこう行っていたそうです。
トクタサツオが最後に会ったのは、やはり八年前に母の兄で、この伯母の弟の伯父が亡くなったときのお通夜の日でしたね。
何か不幸な日が最後ということになってしまいましたが。
享年八十六歳でした。
最近は寿命も延びていますので、まだ早いと言えるかもしれないですね。
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